時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
ミサイルが騒がしいので映画の話をしよう
観た映画のレビューが大分遅れていたので、走り書き程度だが簡単に印象を記す。放っておくとそのまま放置することになってしまいそうなのだ。とにかく漠然と「観た事がある」という印象に終わらせたくはない。ひと言でもふた言でもいいから、何らかの記録に留めておくことは有益な筈である。

フューリー(監督:デヴィッド・エアー)  かなり前に観たのでもう記憶も薄れてしまったが、出来の悪い戦争映画という印象だけは残っている。捕虜虐殺の場面だけは鮮烈だったが、ドイツ人女性の描き方など、舐めているとしか思えない。

スーサイド・スクワッド(監督:デヴィッド・エアー) 凶悪犯罪者を警察力として活用するという話。「ワイルド7」みたいなものかと思ったらアメコミヒーロー物の番外編みたいなものらしい。映画雑誌ではかなり評判が悪かったのだが、それほど出来の悪い作品というわけでもなかった。勿論素晴らしい作品というわけでもない。

アイアンマン (監督:ジョン・ファヴロー)  軍需産業を経営する主人公が、アフガン戦争に巻き込まれたことから自らをサイボーグ化。これまでの自分の過ちを認め、すっかり改心してヒーローとなる。結論としては、思った程悪くない。正直、舐めていたと反省した。今日の社会問題と繋げようとするのは、大人の鑑賞に堪えうる作品を意識しているのだろう。

無限の住人 (監督:三池崇史 脚本:大石哲也)  原作を途中まで追っていたのだが、途中で「アフタヌーン」誌の購読自体をやめてしまった。単行本もそれ以来追っていない。作者のアートの外連味が徐々に鼻についてきたのもある。さて、三池の映画の方はガッツリと斬り合いをしていてなかなかいい。この点勝新の座頭市を思わせる。ただ、殺陣の連続で、途中で飽きてくる感が無くもない。

メッセージ (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ)  所謂ファースト・コンタクト物。わたし達にとって、本当に対話が必要とされるのは誰に対してなのか。それがこの映画のテーマだろう。 亦、主人公の最後の選択について議論があるが、別に奇異なものとは思わない。野暮ったく言えば、「この先哀しい運命が待ち受けているとしても、自分はその(予知された)未来によって支えられてきた。だからそれを決して否定したくない」ということなのだろう。

ダイナマイトどんどん (監督:岡本喜八 脚本:井手雅人 古田求)  言わずと知れた岡本喜八の怪作。やくざ達が斬った張ったの抗争を続ける代わりに、野球大会で決着をつけるというもの。マンガ作品で散々剽窃された話だが、「戦後」をずっしりと引き摺り続ける登場人物の姿には厚みを感じる。

キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー (監督:ジョー・ジョンストン)  第二次大戦中の米・欧を舞台に、改造人間となった主人公が活躍。何故か「未来少年コナン」を意識したような場面が見られ、なかなか小気味いい。わざわざ日系兵士を登場させたのは「日本アニメへのオマージュ」を示したかったのか。

ノーゲーム・ノーライフ・ゼロ (監督:いしづかあつこ 脚本:花田十輝)  TV版の主人公兄妹にそっくりな主人公と恋人が、不毛で絶望的な戦争を終結させるために奔走する。TV版のコメディとは打って変わってシリアスな悲恋物語である。予想外の良作だった。

オデッセイ(火星の人) (監督:リドリー・スコット) 近年のスコットにしてはマシな作品。火星に取り残された主人公が帰還するまでの話である。オーソドックスなストーリー展開で、評価としては「まあまあ」といった所。それにしても、やはり近年のアメリカ映画では、中国の存在が無視できなくなっているのだな。製作側のオトナの事情ばかりでもあるまい。

トランスフォーマー (監督:マイケル・ベイ)  一応良くできてはいるが、主人公の女蕩しぶりにまるで共感できないのが難点。内容は、主人公の青年が金属生命体と共に、地球の危機を防ぐというもの。「犠牲無くして勝利なし」というセリフについては、「取り敢えず犠牲者を出せば勝利する」という特攻神話を過去に持つわたしたちとしては、受け入れがたい。尚、このセリフはわが国の「ガールズ&パンツァー」でもパロディ的に流用された。

この他、「リリカルなのは Reflection」は続編があるので、まとめてレビューする予定。他に「南京!南京!」という問題作があるのだが、これはじっくりと時間をかけて感想を記してみたい。

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或る茶番劇
映画「きみの声をとどけたい」を観た。観てしまったことを一刻も早く忘れたいというのが率直な感想である。

序盤の主人公の異常行動には唖然とするほかなく、脚本はどうなっているのかと呆れ返るばかりである。だが、そんなことはここでは大した問題ではない。それよりもまず、
「他人を悪く言うと、その言霊は自分に撥ね返ってくる」
このセリフに引っかかりを感じた。この「他人」を「権力者」と置き換えてみよう。ネット右翼が「パヨクは批判ばかりしている」というのと同質のものに繋がらないか。
さらに、「権力者が庶民のために頑張っているのを、みんな理解しようとしない」という件りには、虫酸が走った。ここでこの映画がどちらの方向性を見ているのか、はっきりしたと思う。努力しない人間が人の上に立てるか?ちょっと待て。仮にいくら努力したとしても、その結果がトランプや安倍晋三であれば、それは評価に値しない。
さらに、ラストで十数年意識不明の状態にあった母親が意識を回復する場面で怒りを覚えた。これは「映画の噓」などではない。只の噓だ。何の御利益のつもりか知りたくもないが、「レナードの朝」を百回ほど繰り返し観て出直して来ることを勧めたい。

嘗て「映画くらい弱者の味方であってもいいじゃないか」と鈴木則文は述べた。若松孝二は「モノを作る人間は、権力の側から作っちゃいけないんだ」と常に主張していた。映画のみに限らない。創作活動からこの前提が崩壊したのは何時からなのだろうか。「シン・ゴジラ」は「たたかう権力者」の姿を英雄的に描き続け、TVアニメ「GATE自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」では、原始的な武装しか持たない異世界人を、自衛隊が「ワルキューレの騎行」をバックにひたすら虐殺する姿を、格好いいものとして提示している(コッポラに謝れ)。或る意味評判の「永遠のゼロ」は未見なのでさしあたりここでは触れない。
現在、一部の作品で権力者側の視点が積極的に導入されるのはどういうわけだろう。「弱者の視点ばかり取り上げるのは偏っている」という両論併記的な発想なのだろうか。だとしたらそれは只の間抜けである。この手の作品に社会的弱者・下層民・落伍した者の姿に向き合う様はまずもって見られない。よく誤解されるが、こうしたパワーエリート礼讃こそ、ニーチェは「弱者の思考」として軽蔑した筈である(三島憲一「ニーチェ」参照)。今回の映画でも、地域の有力者への批判は、無理解な中傷として片付けられる。

勿論、創作活動においては社会的身分を問わず、登場人物の仮面を徹底的に解体させ、生身の人間として描くことが重要である。むき出しの生の姿であり、そこで初めて人間性の真実に近づき得る筈である。この映画は生身の人間を描く振りをして、社会的強者を擁護することに話を結び付けていった。そこにいかがわしさがある。
花田清輝は「たしかに人間喜劇(コメディ・ユメイヌ)の時代は終わった」と記しながら、同時に「それは性急な結論であるかにみえる」、と記した。ここで疑問符を呈してみせたのは、花田の慧眼である。おそらく今日のわたし達に必要なのは、「人間喜劇」である。薄っぺらな茶番などではない。

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アルチンボルドの挑発
上野のアルチンボルド展に訪れた。それにしても時代が変わったものである。その昔、美学の卒論にマニエリスム絵画を取り上げようとしたところ、指導教授から却下されたという話がある。16世紀ルネッサンスの一角を担いながらも、正統な美術史からはこれらの絵画は完全に異端児であり蔑みの対象でさえあった。
マニエリスムの復権については澁澤龍彦や種村季弘のような先達の業績に任せよう。わたしも過去に散々読んだ口だが、あらかた忘れてしまった。わたしがここで問題にしたいのは、今日のわたし達にとっての意義である。
よく知られているように、アルチンボルドの絵画は、果物や花、生物を組み合わせて肖像画を作るというものである。ふざけた遊び心、遊戯性であることは間違いない。だが、もう少し踏み込んでみよう。ここに提示されているのは、実は意味の両義性である。文学で言えば、和歌における掛詞などがこれに当たるだろう。
わたし達の通常観念において、顔はあくまでも顔であり、肉体はあくまでも肉体に過ぎない。だが、アルチンボルドの肖像画においては堅固な肉体が、一纏めにされた果物や魚類に変貌を遂げていく。逆にいえば、果物や魚類がまとまりを持った人間の貌として立ち現れる。揺るぎないはずの視覚映像が、崩壊していく場にわたし達は立ち会わされるのだ。サルトルの主人公にとって、マロニエの根が得体の知れない「もの」として映じていくように。
この絵画において意味(貌、野菜、魚類等々)は両義的であり、常に宙吊りの状態にある。それは絶対的に不確定であり、着地点を持たない。シュルレアリスムを例にとれば、マグリットのパイプの絵は「これはパイプではない」という否定辞により、意味を常に揺さぶり続ける。
「意味」とはある種の約束事であるが、アルチンボルドの一連の絵画は今日なお、これに問いかけを行い続ける。遊戯性のうちに秘められた挑発性は、なかなか刺激的であった。

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黒い九月
小池百合子都知事は関東大震災時の朝鮮人虐殺に関し、追悼文の送付を拒否している。
表向きの理由は「人数が明確でない」からだという。だがこの理屈はおかしい。詳細な調査は必要だろうが、数多の(六千人といわれる)人間が殺されている事実がある以上、追悼を拒否する理由など存在しない。
よって、この人物の狙いは別のところにある。すなわち、「虐殺など無かった。追悼など必要ない」ということだ。まず追悼文を拒否すれば、自称愛国者界隈が盛り上がる。「虐殺など存在しない、反日パヨクのデマだ。実際は朝鮮人が各地で暴動を起こし、井戸に毒を入れて回っていたのだ」云々といった、90年遅れのたわ言だ。こうした声が次第に大きくなり、やがて無視できない勢力となっていく。メディアでも一定の発言力を確保し、ついには公人レベルで「幻だった」と事実上公言できるまでに至らしめる。そういった筋書きが透けて見える。
ここで小池が責任を問われることは無いだろう。建前上は「人数の検証云々」という形式を取っているために、「虐殺を否定した覚えは無い」という言い逃れが可能なのだ(この種の言葉の詐術は小池や安倍のような輩の専売特許ではなく、左派の活動家にもまま見られることである)。
小池は記者会見において、「震災で亡くなられた方に哀悼の意を表する」として、虐殺事件を一般的な被災の中に埋没させてのけた。事件の記憶を徹底的に封殺しようとする意思が為政者の中にあり、それを有権者が支持し続けている。「ファースト」の幻影はどこまで人々を狂わせ続けるのか。

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「ゴースト・イン・ザ・シェル」について
映画のレビューがまるで追いつかなくなっているのだが、この作品についてはひとこと言っておきたい。結論を言うと、巷間叩かれているような悪い映画ではないということだ。

主人公の草薙素子を白人に置き換えた「ホワイト・ウォッシュ」については散々非難がなされている。実際にはストーリー上の整合性がつけられてはいるが、その分たちが悪いともいえるし、どうしても批判はまぬかれないだろう。
ただ、「アニメ版の深遠な哲学を理解せず」云々という説にはあまり同意できない。サイバーパンクが流行ったのはおよそ30年前。人間がコンピューターと神経系統を通じて肉体的に接続し(早い話、脳に電極を埋め込み、ケーブルで接続する)、ヒトとAIの区別が喪失していく世界である。W.ギブスンの「ニューロマンサー」は二つのAIが統合して神になる話だったし、その後の続編ではそれが暴走していく様が描かれていた、と思う(昔読んだきりなので些かうろ覚えだ)。
さて、アニメ版「ゴースト~」では主人公は自分が何者かを問い続ける。果たして自分が人間なのか、AIなのか。考えれば考えるほど、自分が人間であるという根拠が失われていく。
ハリウッド版では解答が示されている。「そんなことをウダウダ考えたって仕方が無い。今、自分がどうありたいのかが重要なのだ」と。人間の本質を実体主義的に探究しようとしても、究極的な模範解答など出るべくも無い。結局、ある社会における関係性や、約束事の上に全ては成り立っている。そう考えていけば、自分がAIだろうとヒトであろうとどうだっていいという地平に行き着くことになる。
アニメ版では別のAIと融合を果たすことで主人公は新たな一歩を踏み出すが、ハリウッド版ではそれは無い。既に解は提示されているので、主人公は自ら歩みを進めることが可能なのだ。
実は、「今の自分を受け入れた上で前に進む」という点で、アニメ版とハリウッド版は同じ結論に達しているとも見て取れる。アニメ版ほど「ヒトかAIか」のテーマを前面に出さなかったのは、「今さら?」という思いもあったのだろう。ギブスンの活動以降、散々議論は尽くされているのだ。何せ30年だ。既に解決済みと断ぜられてもおかしくない。

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チート!チート!チート!
チートという英語がある。アルファベットではcheat、名詞としての意味は詐欺師、いかさま師というものだが、わが国の現用ではフィクションにおいて、超人的能力を備えた登場人物をさす場合が多い。反則的能力というわけだ。

だがこのチート主人公の存在は、今に始まったものだろうか。例えば、探偵小説の名探偵など殆どすべてがチートである。有名どころでもシャーロック・ホームズからエルキュール・ポワロ、明智小五郎、金田一耕助等々、枚挙に暇が無い。古帽子ひとつを取って、「持ち主は知能の優れた人物。今は零落しているが嘗ては裕福だった。思慮深い人物だったが今は道徳的に退歩している。飲酒癖があり、外出は殆どしない。半白の頭は散発したばかり。ライム入りのクリームを使う」などと洞察するのはまさに「チート」以外何者でもない(ドイル「青い紅玉」参照)。
ヒーロー物がチートなのは寧ろ当たり前で、「最近の若者の間ではこんなものが・・・」などというのはもはや年寄りの繰言でしかないだろう。ただ、その手の主人公が無双するだけの作品(所謂「俺TSUEE」物)は後世に残らないというだけなのだ。
ジークフリートは奸計によって殺害され、アルセーヌ・ルパンは超人的能力を持つが裏切られたり騙されたりで、毎回苦戦する。チートな主人公は存外苦労人である場合が多いらしい。マンガでいえば超人ロックやゴルゴ13にしても同様である。
およそ、チート物には大きく二つの流れが存在するといっていい。勿論、多くの場合は両者が混交している。

・チートにもかかわらず、主人公が苦戦する。
・主人公はチート能力を発揮するが、物語の総体としては別のものを提示する。

探偵小説が鮮やかなトリックを提示するのは後者の典型である。極言すれば、探偵はそれを導き出すための道具である。勿論、主人公が一定の魅力を併せ持っていなければ物語そのものが成り立たない。探偵物でもホームズの場合は十九世紀イギリス社会の姿を炙り出すことに成功しているし、笠井潔の矢吹駆シリーズなどの主題は、哲学者達の思想的格闘とそのアポリアを描くことにある。また、先に挙げたゴルゴ13は大抵の場合ポリティカル・フィクションが主題なので、寧ろこちらに属するだろう。

このように、「チート物」の系譜は連綿としてあり、今に始まったことではない。新しい作品に接しても「この主人公はチートだ」と徒にカリカリせず、もう少し長い目で見ては如何。

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読書録 2017.8.13
・黒史郎「ラブ@メール」 
癒し系の題名とは裏腹な内容で、いわゆるゾンビ・パニック物のバリエーション。作者お気に入りの屈折した性愛も描かれている。最後、無理に解決させる必要は無かったと思うのだが、どうだろうか。

・シャーリィ・ジャクスン「丘の屋敷」 
ホラーと銘打ってあるが、左程怖いわけではない。「ブレア・ウィッチ」的な、ジワジワくる感覚が魅力だと思うが、読む人によっては物足りない思いがするだろう。怪奇小説としては別に間違っているわけではないが。
テーマは居場所を失ったヒロインの悲劇である。社会に居場所を失った主人公が、丘の屋敷という安住の地を見出し、そこも追い出されそうになった時、永久に留まり続けるべく自殺する。しんみりした余韻を残す作品である。

・スティーヴンスン「ジキル博士とハイド氏」
内容は今更言及するまでも無いだろう。有名な怪奇小説である。薬物で体つきまで別人に代わるというのはどうかと思うが、この着想は後述の「透明人間」にも引き継がれているので莫迦にはできないだろう。小説としての力は流石であり、今日でも充分魅力的である。

・H.G.ウェルズ「透明人間」 
これもよく知られた小説だが、原作を読むのは初めてだった。内容は次の通り。透明人間になった科学者が誇大妄想に陥り、世界征服を志し、やがて殺人を犯す。これに対してマスヒステリアに陥った市民が、彼を追い詰め、よってたかってぶち殺してしまう。作者はこの集団狂気を肯定的に描いているので、「何だかなぁ」といった印象ばかりが残った。

・フレドリック・ブラウン「発狂した宇宙」 
平行世界物の先駆となった古典的な作品。事故により、異世界に転移した主人公が、お尋ね者となり、星間戦争に巻き込まれ、元の世界に還る方法を模索する。
ディックの「虚空の眼」のように、あちこち飛ばされるのかと思ったがそういうわけではなかった。最後は元の世界に還るのではなく、主人公の望む世界に転移するのだが、なかなか小気味いい。

・ピエール・カミ「三銃士の息子」 
大デュマの「三銃士」シリーズの二次創作。ダルタニアン、アトス、ポルトスの共通の愛人だった女性から生まれた子供が主人公。アラミスは最後まで生きのびていたから登場させるのは具合が悪かったのか。
カミの奇想天外な悪ふざけはやや抑え気味だが(こう見えても抑え気味なのだよ)、原作がしっかりしているだけに、なかなか読ませる。プランシェの養女をめぐり、この主人公がフランス・スペインを又にかけ、大冒険をするというもの。牛頭の青年が最後に死んでしまうのは、話の収まりがつかなくなったためか。
ちなみにわたしは、「三銃士」シリーズを全巻通読していない。「ブラジュロンヌ子爵」の最初の巻で力尽き、挫折した。あの辺は流石になかなか読めたものではない。王侯貴族の男女関係の泥沼など、何ら興味を惹かれないのだ。ピューリタン革命を扱った、「二十年後」までは素直に読めたのだが。結局面倒臭くなったので、最終巻まですっ飛ばして、銃士たちのその後の顛末を確認した次第である。
尚、「ブラジュロンヌ子爵」の後半は鉄仮面事件を扱っているので、いずれ読んでみたいとは思っている。

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エッフェル塔と幽霊船
ピエール・カミ「エッフェル塔の潜水夫」を読む。
ピエール・カミは、「ルーフォック・オルメス」や「クリク・ロボット」などに示されるように、奇想天外なナンセンスを得意とする人なのだが、「潜水夫」は、うって変わってオーソドックスな冒険小説の体裁をとっている。そのため、ナンセンスを期待した人にとっては物足りない感が無きにしも非ず。邦訳が少ないことから、わが国では本作がカミの代表作のようになってしまっている。しかし、この人の本領はナンセンスにあるので、読んだことのない人はそちらに触れて欲しいと思う。
序盤に主人公らしく振舞っていた少年が、途中から完全に脇役に回ってしまうなど戸惑う点もある。話の辻褄合わせも強引なので、どうせやるならナンセンスに徹したほうが良かった。
そうした欠陥も持つが、中々愉快な冒険小説であることは認めていい。この人にはこんな引き出しもあるのだ。わたしはこの作者をヴィアンになぞらえたことがあるが、今回はシューのような作風に転じたといえる。
作者の全体像を知るためにも、もっと多くの翻訳が出て欲しい。本国でも絶版状態が続いているようなので。

尚、ちくま文庫版の本作は、挿絵が真鍋博(星新一の小説でお馴染みの人だ)、解説は赤川次郎だった。

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湖のある風景
仕事の関係(一応)で、再び中国に赴いた。杭州である。
3日目の朝方に時間があったのでホテル付近を散策する。現地スタッフの話では、ここから西湖までは一時間程だという。さすがに一時間は歩けない。取り敢えず、行ける所まで行ってみよう、と一人でぶらりと歩き始めた。杭州の町並みは人通りが多い。行き交う人は十人十色である。電動キックボードに乗る人を見かけた。中国では自動車もバイクも電動化が進んでいる。問題は電力をどう供給しているかだが。原発はかの地でもあまり評判はよろしくないだろう。そんなこんなを考えながら、雑然と混み合った大通りを30分ほど歩く。と、大きな湖に出た。西湖だ。何だ、一時間もかからない。
西湖はほとりを歩くのが一番気分がいい。この後、遊覧船に乗る機会があったが、印象深いのは周辺の雰囲気である。朝方は太極拳に励む人がいるというが、この日は見られなかった。
司馬遼太郎は西湖の風とその匂いについて言及していたが、特に匂いは感じられない。だが、この雰囲気はとても落ち着く。写真を撮り、暫くぶらぶらと散策した後、ホテルへと帰還した。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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