時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
舐めるな!
はたしてしからば、すでに一歩を踏み出しているはずの日本革命は、いったい、いかなる「歌」をもっているであろうか。 
(花田清輝)


「ラブライブ!」と題するアニメ作品がある。所謂美少女アイドルアニメの一環であり、今も根強い人気を博している作品である。
私は、この作品の歌と踊りには一切興味を惹かれないのだが、ストーリー的には「そこそこ」という評価をしている。序盤の数話は観るのに些か苦痛を伴うが、それを乗り越えると話の流れに馴染めるようになる。
ただ、第一期クライマックスにおける、メンバーの留学をやめさせてしまう件りは、幾ら何でもいただけない。リアリティ及びドラマ作りの常識双方に鑑みて、それはないと思う。そこは気持ちよく見送って「感動」の第一期最終回で良かったのではないか(私は別に感動しないと思うが)。
その他、ダメ主人公の生徒会長就任など、妙な箇所もあるのだが、細かい所にごちゃごちゃ絡んでも仕方がない。全体を通して緩いスポーツ物的な感覚で楽しめる作品だった。ダイエットの話では腹を抱えて笑ったものである。
劇場版における、田舎者根性丸出しのお登りさん振りには閉口したが(NYと思しき街を「世界の中心」と連呼する)、主人公が「何故歌うのか」を問うていくあたりは悪くない。
ドラマとして傑作とは思わないが、「萌え」と相まって、人気を獲得する理由はよくわかる。結論としていえば、私も左程嫌いではない。

以上は前置きである。過去記事との重複もあり、些か長過ぎた気もしないではないが、ここから本題に入る。
馳浩という元プロレスラーの文部科学大臣がいる。先頃、体罰自慢で話題になった男だ。この人物がこのたび、何をとち狂ったのか、「ラブライバー大臣」などと自称するようになった。既視感のある風景だ。麻生太郎がローゼンメイデンを賞賛したときのあれである。
麻生が札付きの表現規制派であるにもかかわらず、多くのアニメ・マンガファンがいいように乗せられていったのは記憶に新しい。「肉屋を支持するブタ」という言葉が私たちの間で忌々しい思いと共に語られるようになったのもこの頃である。
そこで今回のラブライバー宣言である。まさかこんなパフォーマンスに乗せられるお目出たい人間もそうそういるまいなと思ったら、ネット空間上にそのたぐいがぞろぞろ現れて来たので唖然とした。視聴者層から考えて、必ずしも世間知らずのお子様ばかりとはいえないだろう。自民党はさぞかし、「こいつらチョロいもんだ」と思っている筈である。いい加減、学習しないのか。これだけ幼稚なパフォーマンスも見抜けないのか。
わが国の政治家が文化を活用しようとする場合、金と欲にまみれた汚い手で作品を引っ掻き回し、台無しにすることになるのは必定である。この国の文化環境は、それ程までに、低い。今回の件についても、せいぜい利用されるだけで、最終的には手痛い目を見るだろうということは、目に見えている。それが自覚できなければ、マンガ、アニメ文化に展望などありはしない。
ここまで書いてきたところで念の為確認したら、流石に冷静になったのか、ファンの間からも批判的な意見が現れるようになってきた。良い傾向である。ラブライバーを自認するファン達は、「舐めるな!」と思いっきり言ってやれ。
青林堂をめぐる随想
マンガに親しんだ人、アングラ文化に親しんだ人なら周知のことであるが、旧青林堂と、現在の青林堂は別物である。私にとって、青林堂といえば雑誌「ガロ」である。白土三平、水木しげるの連載から出発し、つげ義春、矢口高雄、近藤ようこ、林静一、つりたくにこ、蛭子能収、内田春菊、花輪和一、根本敬、南伸坊、みうらじゅん、大越孝太郎、安彦麻理絵、山田花子(芸人ではない)、駕籠真太郎など数多くの異能の作家たちを輩出してきた出版社である。マンガにおけるカウンターカルチャーの総本山であったと言っても過言ではない。「ガロ」出身のマンガ家といえば、一目置かれる存在であった。
この流れを作り出してきたのが、青林堂の創立者、長井勝一である。詳細は彼の自伝「「ガロ」編集長」に譲りたいが、熾烈な戦後体験を生き抜いてきた長井の、マンガ文化に対する執念の結実とも言うべきものがここにあった。
私などの学生時代を振り返っても、本気で文系を志す者にとって、「ガロ」は必読書であった。それはマンガばかりでなく、様々なジャンルとの往還性をもった中心軸だったのである。
だが、アングラ文化特有の陥穽ともいうべき危うさも「ガロ系」の作家たちは同時に有していた。やたら「難解」な「前衛」と目される作品を物すること、具体的に言えば、絵が汚くストーリーも無いに等しい、そういった作品こそが価値なんだという、意識の倒錯がそこに孕まれていたのは、まぎれもない事実である。「一般人にはわかるまい」という、誤った特権意識がそこでは介在し、際物であることが自己目的と化していた。こうした転倒はマンガだけの問題ではなく、あらゆる前衛文化に共通していた。
映画でも何でも同様であるが、下手な前衛作品よりも、よくできたメジャー作品の方が面白いし、有意義である。赤塚不二夫がガロ系の作家たちに対して、「ガロ系という型に嵌まってしまって、自縄自縛に陥っている」という趣旨の苦言を呈したのは、まさにそこであった。アングラ文化人たちとの親交を深めてきた赤塚ならではの、鋭い指摘である。若手の文化人にはありがちな陥穽であるが、その先には袋小路しか存在しない。前衛の視点からメジャー文化を撃つと共に、メジャー文化の視点から前衛を省みるという、視点の切り替えが必要だったのだ。

やがて時は変遷する。原稿料ゼロを継続しながら、幾たびも経営難の危機に晒された青林堂も、長井勝一会長の死と共に、とうとう分裂することとなった。編集部全員が辞表を提出し、新たに青林工藝舎という出版社を立ち上げたのは周知の事柄である。青林工藝舎は「アックス」を刊行し、「ガロ」に代わる文化活動を現在も継続している。よって、マンガ家、マンガファンにとって、青林堂の実質的な後継はこの青林工藝舎である。
一方、今も尚「青林堂」の名を冠する残された側が、「日之丸街宣女子」、「そうだ難民しよう! はすみとしこの世界」などというたちの悪い書物を出版し、多くの顰蹙を買っていることは周知のことと思う。そこには知性の片鱗も感じられず、まさに反知性主義を体現したような雑本の集積であった。ここでいう反知性主義とは、「知」への根源的批判ではない。「無知な自分は偉い」と言い張る幼稚な自己愛のことである。
旧青林堂には、前述したような危うさはあったにせよ、新しい文化を創造しようとする強烈なエネルギーが存在した。現在の自称青林堂にとっては、肥大化した自己愛を広めることこそが文化を担うことなのだろう。わが国で最も由緒あるマンガ出版社の名を冠しながら、これ程までに浅ましい醜態を晒すとは何事か。恥知らずが。直ちに社名を返上しろ。

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ディストピアの広告
話題のブレンディのCM、かなり辛辣で、よく出来た社会風刺だなと思ったら、肯定的に描いたつもりらしい。
エイゼンシュタインが「イヴァン雷帝」でスターリン礼讃を描こうとしたら、非情冷酷な独裁者の姿になってしまったようなものか。説得力のある真実性を追求したら、意図とは真逆の世界が生まれてしまうことがある。それが作家の持つ凝視力ということだ。
才能の多寡はともかく、こだわって作り込んだ結果、会社自体のグロテスクな社会意識が浮き彫りとなったのがこのCMだろう。未見の方は、一見して唖然とするのもいいかもしれない。

※ 話がこじれてきているようなので、少し補足する。
このCMが家畜の擬人化という見解は、結果として正しくない。提示された映像は、家畜のように生きる現代の若者たちの姿を象徴的に描いたものとなっている。食肉にされる少年の姿は、兵役に取られる青少年のメタファーだと思えたし、主人公の姿はうまく権力に取り入って成功する姿をグロテスクに描いたものと思えた。主人公が素晴らしいわけではない。この異様な世界で必死に成り上がろうとする姿がひたすら痛ましいだけだ。映像作品として見たら、その「性的」と罵倒される要素を含めて(つまり、セクハラ社会への鋭い風刺として)、辛辣な社会批判ともなりえただろう。
但し、CMとしてみた場合は完全に失敗である。広告の主体は、この主人公をひたすら称賛する。つまり、それがこの異様な世界像、すなわち、若者を家畜のように扱うブラックな現実社会をそのまま肯定するような仕組みとなっている。地獄のような社会を受け入れろ、それが嫌だったら勝ち残れ、というわけだ。
今回批判されるべきは、映像作品そのものよりも、この世界を肯定してしまう企業の価値観ではないのか。この会社の現実の業務様態が、「ブラック企業」と呼ばれるようなものかは別として。

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戦争対名探偵
戦後派と呼ばれる作家達にはミステリーマニアが多い、埴谷雄高、花田清輝、平野謙、荒正人、大岡昇平等を思い浮かべれば頷けることである(大岡を戦後派と呼ぶことには異論があるだろうが)。これについて、大江健三郎が興味深い考察をしていた。何故彼らがこれ程までに探偵小説にのめり込んだのか?おそらく彼等は、あの戦争の「犯人」を捜そうとしていたのだ、と。
大江のこの分析は深読みに過ぎるかもしれない。ぶっちゃけた話、当時他にあまり娯楽がなかったというのが正解だろう。それに、仮に大江の説が真実だとしても、「そういう戦争観しか持てなかったのなら、この人達は駄目だったということになるよなぁ」というしかない。どこかに特定の「犯人」がいるというような戦争論は、あまりにも浅薄である。今時マンガでもこんな戦争観を呈示することはない。
寧ろそれは、戦時中の自らの立場を正当化しようとする試みにさえ見える。「どこかに犯人がいる、それは自分ではない誰かだ」と。吉本隆明が、第一次戦後派を「傍観者」だったとして痛罵したことを思い出そう。
特定の権力者を「犯人」として名指しすることは、政治的決着としては必要なのだろう。だが、思想的・文学的営為としては、意味を成さない。その時代の人々が有責であるとして、それはどのような性質の責任であるか、人間的課題として、真摯に考究する必要があるだろう。
ここで一つの問いが生ずる。果たして、その時代において「抵抗」と呼びうる行為とは、何を意味するのか?
例えば殉教主義的に官憲に抗い、逮捕されれば抵抗になるのか?獄中にいれば抵抗になるのか?拷問死すれば抵抗になるのか?
仮に戦時下において、生活者として人間性を保つことが抵抗ならば、先の「傍観」とどう違うのか?
この問いかけに対する結論はまだ出せていない。少なくとも、「私は抵抗した」と自称する人間に限って、何ら抵抗者の名に値しないことは確かである。

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私たちは歴史の中にいる
ヘーゲルは世界史を絶対精神(神)の自己実現の過程と規定した。歴史がそのような合目的的なものとして形成されるのなら、こんなおめでたい話はない。現世に存在するあらゆる矛盾、対立も全て、神の属性であり、一切は神の自己実現のうちに回収され、歴史の終末にはミネルヴァの梟が飛び立つ、というわけだ。
一方、歴史には法則も因果も無く、ただ残虐な世界がひたすら繰り広げられていくだけである、とするのがニーチェに代表される歴史観である。換言すれば、歴史を否定する考え方である。
勿論、後者の考えを実際に採用することは難しい。とはいえ今日、私たちは歴史に対し、神の存在を前提とすることはできない。喜びも、争いも、全て包含する絶対者の姿を現実に想定することは不可能である。今や歴史とは、「人間」に属する事柄である。
私たちは歴史の傍観者ではない。仮にそう(傍観者と)思っているとすれば、それは重大な錯認である。どのような形であれ、人は世界に、歴史の中に投げ込まれている。ハイデッガーのいう「世界-内-存在」である。否応無しに、既にそこにいるのである。
今日では、地位、資金、人脈、宣伝媒体等があれば、ある種の方向に歴史を動かすことは、実に容易い。それはわが国の昨今の動向により、既に証明されている。そして私たちは生まれる環境を自ら選ぶことは出来ない。社会の大多数の人々は、地位も金も持たず、埋没した個人として存在する。
サルトルならば言うだろう。人はどのような条件の下に生まれたとしても、その条件に意味を付与するのは彼自身だ、と。
「みずからを諦めた人間として選ぶか、革命家として選ぶかによって、間断ない屈辱の未来かそれとも征服と勝利の未来を自由にプロレタリアに与えるものは彼である。そしてこの選択に対してこそ彼は責任があるのだ」(サルトル「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞)
サルトルの恫喝めいた言い方はあまりフェアではないかもしれない。また、人間は歴史に対して責任を取りうる存在なのか、どうなのかは意見の分かれるところだろう。だが、四の五の言う前に、ひとつ考えて欲しい。あなたはどうありたいのか?
勿論、わが国の多くの人が社会的な事柄に対して、「棄権」したがっているということを、私たちは知っている。だが、再びサルトルの言葉を借りて言うならば、何もしないことも一つの選択であり、選択自体を棄権することは出来ない。
そこで繰り返して言おう。あなたはどうありたいのか?今一度自分に問いかけて欲しい。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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