時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
青林堂をめぐる随想
マンガに親しんだ人、アングラ文化に親しんだ人なら周知のことであるが、旧青林堂と、現在の青林堂は別物である。私にとって、青林堂といえば雑誌「ガロ」である。白土三平、水木しげるの連載から出発し、つげ義春、矢口高雄、近藤ようこ、林静一、つりたくにこ、蛭子能収、内田春菊、花輪和一、根本敬、南伸坊、みうらじゅん、大越孝太郎、安彦麻理絵、山田花子(芸人ではない)、駕籠真太郎など数多くの異能の作家たちを輩出してきた出版社である。マンガにおけるカウンターカルチャーの総本山であったと言っても過言ではない。「ガロ」出身のマンガ家といえば、一目置かれる存在であった。
この流れを作り出してきたのが、青林堂の創立者、長井勝一である。詳細は彼の自伝「「ガロ」編集長」に譲りたいが、熾烈な戦後体験を生き抜いてきた長井の、マンガ文化に対する執念の結実とも言うべきものがここにあった。
私などの学生時代を振り返っても、本気で文系を志す者にとって、「ガロ」は必読書であった。それはマンガばかりでなく、様々なジャンルとの往還性をもった中心軸だったのである。
だが、アングラ文化特有の陥穽ともいうべき危うさも「ガロ系」の作家たちは同時に有していた。やたら「難解」な「前衛」と目される作品を物すること、具体的に言えば、絵が汚くストーリーも無いに等しい、そういった作品こそが価値なんだという、意識の倒錯がそこに孕まれていたのは、まぎれもない事実である。「一般人にはわかるまい」という、誤った特権意識がそこでは介在し、際物であることが自己目的と化していた。こうした転倒はマンガだけの問題ではなく、あらゆる前衛文化に共通していた。
映画でも何でも同様であるが、下手な前衛作品よりも、よくできたメジャー作品の方が面白いし、有意義である。赤塚不二夫がガロ系の作家たちに対して、「ガロ系という型に嵌まってしまって、自縄自縛に陥っている」という趣旨の苦言を呈したのは、まさにそこであった。アングラ文化人たちとの親交を深めてきた赤塚ならではの、鋭い指摘である。若手の文化人にはありがちな陥穽であるが、その先には袋小路しか存在しない。前衛の視点からメジャー文化を撃つと共に、メジャー文化の視点から前衛を省みるという、視点の切り替えが必要だったのだ。

やがて時は変遷する。原稿料ゼロを継続しながら、幾たびも経営難の危機に晒された青林堂も、長井勝一会長の死と共に、とうとう分裂することとなった。編集部全員が辞表を提出し、新たに青林工藝舎という出版社を立ち上げたのは周知の事柄である。青林工藝舎は「アックス」を刊行し、「ガロ」に代わる文化活動を現在も継続している。よって、マンガ家、マンガファンにとって、青林堂の実質的な後継はこの青林工藝舎である。
一方、今も尚「青林堂」の名を冠する残された側が、「日之丸街宣女子」、「そうだ難民しよう! はすみとしこの世界」などというたちの悪い書物を出版し、多くの顰蹙を買っていることは周知のことと思う。そこには知性の片鱗も感じられず、まさに反知性主義を体現したような雑本の集積であった。ここでいう反知性主義とは、「知」への根源的批判ではない。「無知な自分は偉い」と言い張る幼稚な自己愛のことである。
旧青林堂には、前述したような危うさはあったにせよ、新しい文化を創造しようとする強烈なエネルギーが存在した。現在の自称青林堂にとっては、肥大化した自己愛を広めることこそが文化を担うことなのだろう。わが国で最も由緒あるマンガ出版社の名を冠しながら、これ程までに浅ましい醜態を晒すとは何事か。恥知らずが。直ちに社名を返上しろ。

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ディストピアの広告
話題のブレンディのCM、かなり辛辣で、よく出来た社会風刺だなと思ったら、肯定的に描いたつもりらしい。
エイゼンシュタインが「イヴァン雷帝」でスターリン礼讃を描こうとしたら、非情冷酷な独裁者の姿になってしまったようなものか。説得力のある真実性を追求したら、意図とは真逆の世界が生まれてしまうことがある。それが作家の持つ凝視力ということだ。
才能の多寡はともかく、こだわって作り込んだ結果、会社自体のグロテスクな社会意識が浮き彫りとなったのがこのCMだろう。未見の方は、一見して唖然とするのもいいかもしれない。

※ 話がこじれてきているようなので、少し補足する。
このCMが家畜の擬人化という見解は、結果として正しくない。提示された映像は、家畜のように生きる現代の若者たちの姿を象徴的に描いたものとなっている。食肉にされる少年の姿は、兵役に取られる青少年のメタファーだと思えたし、主人公の姿はうまく権力に取り入って成功する姿をグロテスクに描いたものと思えた。主人公が素晴らしいわけではない。この異様な世界で必死に成り上がろうとする姿がひたすら痛ましいだけだ。映像作品として見たら、その「性的」と罵倒される要素を含めて(つまり、セクハラ社会への鋭い風刺として)、辛辣な社会批判ともなりえただろう。
但し、CMとしてみた場合は完全に失敗である。広告の主体は、この主人公をひたすら称賛する。つまり、それがこの異様な世界像、すなわち、若者を家畜のように扱うブラックな現実社会をそのまま肯定するような仕組みとなっている。地獄のような社会を受け入れろ、それが嫌だったら勝ち残れ、というわけだ。
今回批判されるべきは、映像作品そのものよりも、この世界を肯定してしまう企業の価値観ではないのか。この会社の現実の業務様態が、「ブラック企業」と呼ばれるようなものかは別として。

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戦争対名探偵
戦後派と呼ばれる作家達にはミステリーマニアが多い、埴谷雄高、花田清輝、平野謙、荒正人、大岡昇平等を思い浮かべれば頷けることである(大岡を戦後派と呼ぶことには異論があるだろうが)。これについて、大江健三郎が興味深い考察をしていた。何故彼らがこれ程までに探偵小説にのめり込んだのか?おそらく彼等は、あの戦争の「犯人」を捜そうとしていたのだ、と。
大江のこの分析は深読みに過ぎるかもしれない。ぶっちゃけた話、当時他にあまり娯楽がなかったというのが正解だろう。それに、仮に大江の説が真実だとしても、「そういう戦争観しか持てなかったのなら、この人達は駄目だったということになるよなぁ」というしかない。どこかに特定の「犯人」がいるというような戦争論は、あまりにも浅薄である。今時マンガでもこんな戦争観を呈示することはない。
寧ろそれは、戦時中の自らの立場を正当化しようとする試みにさえ見える。「どこかに犯人がいる、それは自分ではない誰かだ」と。吉本隆明が、第一次戦後派を「傍観者」だったとして痛罵したことを思い出そう。
特定の権力者を「犯人」として名指しすることは、政治的決着としては必要なのだろう。だが、思想的・文学的営為としては、意味を成さない。その時代の人々が有責であるとして、それはどのような性質の責任であるか、人間的課題として、真摯に考究する必要があるだろう。
ここで一つの問いが生ずる。果たして、その時代において「抵抗」と呼びうる行為とは、何を意味するのか?
例えば殉教主義的に官憲に抗い、逮捕されれば抵抗になるのか?獄中にいれば抵抗になるのか?拷問死すれば抵抗になるのか?
仮に戦時下において、生活者として人間性を保つことが抵抗ならば、先の「傍観」とどう違うのか?
この問いかけに対する結論はまだ出せていない。少なくとも、「私は抵抗した」と自称する人間に限って、何ら抵抗者の名に値しないことは確かである。

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私たちは歴史の中にいる
ヘーゲルは世界史を絶対精神(神)の自己実現の過程と規定した。歴史がそのような合目的的なものとして形成されるのなら、こんなおめでたい話はない。現世に存在するあらゆる矛盾、対立も全て、神の属性であり、一切は神の自己実現のうちに回収され、歴史の終末にはミネルヴァの梟が飛び立つ、というわけだ。
一方、歴史には法則も因果も無く、ただ残虐な世界がひたすら繰り広げられていくだけである、とするのがニーチェに代表される歴史観である。換言すれば、歴史を否定する考え方である。
勿論、後者の考えを実際に採用することは難しい。とはいえ今日、私たちは歴史に対し、神の存在を前提とすることはできない。喜びも、争いも、全て包含する絶対者の姿を現実に想定することは不可能である。今や歴史とは、「人間」に属する事柄である。
私たちは歴史の傍観者ではない。仮にそう(傍観者と)思っているとすれば、それは重大な錯認である。どのような形であれ、人は世界に、歴史の中に投げ込まれている。ハイデッガーのいう「世界-内-存在」である。否応無しに、既にそこにいるのである。
今日では、地位、資金、人脈、宣伝媒体等があれば、ある種の方向に歴史を動かすことは、実に容易い。それはわが国の昨今の動向により、既に証明されている。そして私たちは生まれる環境を自ら選ぶことは出来ない。社会の大多数の人々は、地位も金も持たず、埋没した個人として存在する。
サルトルならば言うだろう。人はどのような条件の下に生まれたとしても、その条件に意味を付与するのは彼自身だ、と。
「みずからを諦めた人間として選ぶか、革命家として選ぶかによって、間断ない屈辱の未来かそれとも征服と勝利の未来を自由にプロレタリアに与えるものは彼である。そしてこの選択に対してこそ彼は責任があるのだ」(サルトル「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞)
サルトルの恫喝めいた言い方はあまりフェアではないかもしれない。また、人間は歴史に対して責任を取りうる存在なのか、どうなのかは意見の分かれるところだろう。だが、四の五の言う前に、ひとつ考えて欲しい。あなたはどうありたいのか?
勿論、わが国の多くの人が社会的な事柄に対して、「棄権」したがっているということを、私たちは知っている。だが、再びサルトルの言葉を借りて言うならば、何もしないことも一つの選択であり、選択自体を棄権することは出来ない。
そこで繰り返して言おう。あなたはどうありたいのか?今一度自分に問いかけて欲しい。

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宗教権力をめぐる大雑把な印象
「神は愛を知らない!知るわけがない!愛は人間が作ったものだから!」
先日大団円を迎えた、石川雅之原作のTVアニメ「純潔のマリア」の、魔女の台詞である。
この台詞は典型的な人間宣言である。作品の舞台は中世の後期、百年戦争の真っ只中だが、登場人物の意識はユマニスムの時代に大きく踏み出している。
「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」 インノケンティウス3世のこの文句は、教会権力の絶大な威光を物語るものであった。世界は<神>を中心に回転した。中世史を繙けば、この時代の教会権力と世俗権力との異様な抗争が目に入る筈である。カノッサの屈辱、アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、数え上げれば枚挙に暇が無い。
人間が世界観の中心となるためには、ルネサンスから近世に至る歴史を俟たなくてはならない。無論、ルネサンスのユマニスムといえども、<神>との決別がなされたわけではない。だが、視座の変遷がなされたのは事実である。ピンの上で天使は何人踊れるか。中世期には、こうした課題が切実な問題たりえた。この時代、世界認識とはこれらの超越的存在を考察することであった。知的遊戯としての面白さは認めるが、今日的な批判に耐えうるものではない。
この世界像に基づく社会のあり方と真っ向から対決することにより、今日の社会原理は確立されていった。政治的な次元では、教会権力や聖職者階級との熾烈な闘いが、今日の民主主義を生み出すために必要だったのである。これは単なる権力争いではなく、世界に対するまなざしを獲得する闘いでもあった。
この意識は、シャルリー・エブド事件にまでも引き継がれている。宗教を批判できなければそれは民主主義ではない、こうした意識がかの社会の根底にあることは疑いないと思われる。ローマ法王がしゃしゃり出てきたとき、私は「一番まずい奴が出しゃばってきた」と、危機感を抱いた。彼自身の意図は知らないが、<教会の威光>を復興させることにも繋がりかねない。
信教の自由を擁護するのはいい。だが、風刺画事件に関する論者の多くは、こうした宗教権力にまつわる歴史的考察を欠いていると思える。どのような結論を導き出すかは自由だが、警戒心が無さ過ぎるのは少しまずい。安易に「聖域」を設けて欲しくはないと思う。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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