時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
サド論のためのプレリュード
天罰男と狂乱市長が何やらコソコソとナイショ話をしたらしい。BL的な題材にならないかと考えたくもなるが、取り敢えず詳細が分かってからあれこれ考察したい。
先日、遠い昔に記したサド論の一部を公表したので、今回は序文に当たる部分を掲載する。みっともない文章には違いないが、自分の出発点を確かめる意味もあるので。


文学作品は如何にして読まれるべきか。そしてそれは如何なる場所に位置するか。サドの作品を論ずるにあたって、これらのことを簡単に考察していきたい。
よく知られているように、サドの作品群は様々な形で弾圧を受けてきた。その理由としては、風俗壊乱、思想の危険性などが挙げられる。勿論、現在これらの言辞は殆どが時代遅れとなりつつある。だが、こうした、文学を規格化しようとする動向自体は決して終わったわけではない(「芸術か猥褻か」という論議については低俗になるのでここでは扱わない)。
今日、芸術作品に対し、何らかの規格化が行われるとすれば、多くの場合、その動機を《倫理》に負っている。この《倫理》という概念は、実際に作品に対し、大きな拘束力を発揮する。たとえば、「差別表現」の名のもとに作品が絶版にされたりすることはそのよい証左である。童話「ちびくろサンボ」が絶版にいたったことは私達の記憶に新しい。
一般に、その作品のうちに何らかの倫理的禁忌(差別、暴力等)にふれるようなニュアンスが存在していることが摘発の根拠とされるといえる。サドの作品の場合で言えば、ナチスとのアナロジーとして、ナチスに匹敵する人間弾圧のイデオロギーとして、糾弾されたのである。たとえば、レーモン・クノーは次のように記している。
「サドによって想像され、また、サドの登場人物によって願望された世界が、ゲシュタポや、その拷問や、収容所の君臨する世界の悪夢のような予兆であることは明らかだ」(Maurice Lever 'Donatien Alphonse François, marquis de Sade'参照)
さしあたり、ここでこの発言の短絡性を指摘することは控えたい。むしろクノーの評は、ヨーロッパにおいてナチスの記憶が如何に根深いものであるかを物語っているといえる。(この項続く)
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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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