時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
「ぼろぼろな駝鳥」
「ぼろぼろな駝鳥」という詩がある。いうまでもなく、高村光太郎の作品である。

何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢゃないか。
顎があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢゃないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。

屢々誤解されているが、これは動物愛護の詩ではない。駝鳥というのはメタファーである。直接的には高村光太郎自身に代表される近代的自我を意味する。近代的自我が、日本的封建制などのさまざまな社会的軋轢により苦しめられている、身も蓋も無く解説すればそういうことになる。
現代人の精神的危機というテーマは時を越えて普遍的である。今日の社会になぞらえて考えれば、駝鳥とは日本の民主主義そのものにも見える。公権力の手によって封じ込められ、ぼろぼろになり、本来のあるべき姿を発揮できない。この国の民主主義はそんな痛々しい姿を晒している。
「挫折こそ青春の証である」と高橋和巳は言った。それがどのような形であれ、人はその青年期に社会との衝突を余儀なくされる。先の安保法案成立に至る過程はその典型的な例だろう。若い世代のみならず年配の人々に至るまで、誰もが傷つきながらも多くのことを学んだ筈である。
ぼろぼろな駝鳥は、いまやその軛を打ち破ろうともがいている。嘗て無かった程に激しく悶えている。既に駝鳥は瀕死の状態にあるが、最後のチャンスとばかりに、死に物狂いの姿を晒している。
駝鳥よ、飛び出せ。
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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
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