時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
飢者の影
この間読んだ本。レビューを書こうと思ったのだが、延々と切りがなくなってしまったので、タイトルのみ記す。この吉村昭のすぐれた作品については、別途触れてみたい。
田中文雄・菊地秀行「戦艦大和 海魔砲撃」 
牧野修「呪禁官 百怪ト夜行ス」
山田正紀・北原 尚彦・フーゴ・ハル「ホームズ鬼譚~異次元の色彩」
吉村昭「戦艦武蔵」

さて、映画「野火」である。塚本晋也は「HAZE」、「妖怪ハンター ヒルコ」などに感心して以来、気にかけていた。「鉄男」、「六月の蛇」はいまひとつピンと来なかったのであるが。
今回の「野火」のストーリーはほぼ大岡昇平の原作を踏襲。とはいえ、神と人間を巡る、主人公の錯乱した思弁までは描かれない。この描写は小説ならではの特権であり、両者の表現媒体としての性格の違いがここに表れている。
ならば、映画で描かれている事柄は何だろうか。この作品では、フィリピンの青空と緑豊かな大自然が克明に描かれ、その下で行われる大量死との対比が鮮烈に浮き彫りにされる。敗走する兵士たちは機銃掃射で五体をバラバラにされ、脳や内臓をぶちまけながら惨たらしく死を迎え、飢えに苦しむ兵士たちは蛆にたかられ、虚ろな表情をしたまま落命する。ヴェーユが言うように、兵士たちは大量死の場に送られたのだ。
このあたりの描写がToo much と米国の評者から批判されたのだが、この批判には歴史修正主義的な意図を感じざるを得ない。大岡の「レイテ戦記」などに少しでも触れたことがあれば、それは理解される筈である。歴史を偽造したがる勢力は、かの国にも存在する。
市川崑版(未見)では描かれなかったという人肉嗜食の場面は、「猿」と称して干した人肉を口にする件りをはじめ、やはり原作に沿った形で描かれる。登場人物の永松は、殺したばかりの同僚を貪り喰らい、鮮血で口を真紅に染める。凄惨極まりない場面だが、これを人外への転落と見るか、人間の秘められた真実と見るかで印象は変わるだろう。
本作で徹底的に描かれるのは、戦争の獣性である。過酷な状況下において、人はモノとなり、破壊され、毀損され、食される存在となる。シベリア抑留経験者が、「極限の状況下では、人間が動物となる」と語っていた。或る状況下では、人間は当然に獣となり、モノとなる。本作で彼らをそうさせたのは何か。無論、戦争である。
少なくとも、或る状況下に置かれれば、人は「獣以下」と称される行為にすら平気で手を染めるものである。尚、後述するが、私個人は「この垣根は案外低いのではないか」と睨んでいる。

人肉食について
食人は近親相姦と並び、人類における普遍的なタブーとされている。勿論、前者では儀式等の場合、後者では何親等まで許されるだのといった、細かな例外規定はあるが、原則的には禁忌とされていることに違いは無い。
とはいえ、時折これを踏み破った事件を耳にすることがある。「人食いアミン」事件は政治的謀略、早い話、デマゴギーだったといわれるため、あまり参考にはならないが、佐川一政事件などもあり、今日でも、ごく稀にこうした事件は存在する。
人肉嗜食は幾度と無くフィクションの題材にもなっている。
サド侯爵の「悪徳の栄え」にはアペニンの食人鬼ミンスキーなる登場人物が現れるが、これには実在のモデルがいたという。18世紀の欧州であれば、そのような有力者がいたことは充分考えられる。作中の「食人鬼」は主人公ジュリエットが国外逃亡中に出会った悪人であり、人肉でジュリエット一行を歓待する。
ジュール・ヴェルヌにも「チャンセラー号の筏」という作品がある。こちらも現実に発生したメデュース号の遭難事故がモデルになっている。漂流中に飢えに苦しみ、ついに食人に走ったという事件であるが、同様の事件はまま見られる模様である。スタインベックの小説を映画化したヒッチコックの「救命艇」もまた、同じ形式が取られている。食人こそしないが、飢えと乾きに苦しむ人間の姿は克明に描かれている。
わが国に目を向けてみると、新藤兼人の映画「人間」では、漂流した登場人物が飢えと疲労で追い詰められた挙句、殺人を犯し、食人の一歩手前まで到達する。救助された登場人物は、自らの罪に慄き、自殺してしまう。
アニメ「グリザイアの果実」の最終エピソードは、谷底にバスごと転落し、脱出困難となった少女たちが、飢えに苦しんだ挙句食人に走る、というものである。かなり無理のある設定であることはひとまず措く。少女たちは亡くなった友人の死体を食べることによって野蛮な鬼的存在と化し、見境い無く主人公たちを襲う。些か陳腐であるには違いない。だが、本作もまた、従来の諸作品(サドを除く)の倫理性を踏襲していることは事実である。尚、人肉を「鹿の肉」と偽る件りは、明らかに「野火」を意識したものである。
船戸与一の「満州国演義」では中国の人肉市場が普通に描かれる。「精がつく」食物として人肉が好まれるのだが、船戸が差別意識からそのような描写をしたとは考えられない。私個人の印象を言えば、そういう事実もあったんだろうな、である。中国人が野蛮だというのではない。「人間はそういうことをするものだ」という意識が私には常にあるからである。
尚、船戸の「新・雨月」では、戊辰戦争における官軍が、やはり「精力をつけるため」と称して会津藩兵士の肝臓を貪り喰らう場面が描かれている。
「野火」の食人を取り上げるのであれば、武田泰淳の小説「ひかりごけ」に目を向けなくてはならない。こちらも遭難船の話だが、食人によって生き延びた主人公が、法廷において「自覚せる罪人」として、人々を救済に導く存在となる。ここにおいて、食人とは一種の原罪観念と重ね合わせられる。我々は人の肉を食い得る存在であり、既に食った存在と考えてみたらどうなのか。間接的、直接的、抽象的、具体的な全ての意味において。さらにこの作品では「食人」は戦争そのものの寓意として暗示されている。断っておくが、これは寓意としての一つの例証である。他に様々な解釈が可能な筈であり、それは読者に委ねられている。この点は「野火」にも共通する筈である。
大岡昇平の「野火」は私が中学三年生の時に読んだ小説である。その後、繰り返し読んでいるが、その輝きは色褪せる事が無い。本来ならばこの小説作品にも触れておくべきなのだが、ここまで書いてきて根が尽きたのと、本稿では塚本版の素晴しさを提示しておきたいことから、別の機会に譲ることとする。


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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
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