時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
私たちは歴史の中にいる
ヘーゲルは世界史を絶対精神(神)の自己実現の過程と規定した。歴史がそのような合目的的なものとして形成されるのなら、こんなおめでたい話はない。現世に存在するあらゆる矛盾、対立も全て、神の属性であり、一切は神の自己実現のうちに回収され、歴史の終末にはミネルヴァの梟が飛び立つ、というわけだ。
一方、歴史には法則も因果も無く、ただ残虐な世界がひたすら繰り広げられていくだけである、とするのがニーチェに代表される歴史観である。換言すれば、歴史を否定する考え方である。
勿論、後者の考えを実際に採用することは難しい。とはいえ今日、私たちは歴史に対し、神の存在を前提とすることはできない。喜びも、争いも、全て包含する絶対者の姿を現実に想定することは不可能である。今や歴史とは、「人間」に属する事柄である。
私たちは歴史の傍観者ではない。仮にそう(傍観者と)思っているとすれば、それは重大な錯認である。どのような形であれ、人は世界に、歴史の中に投げ込まれている。ハイデッガーのいう「世界-内-存在」である。否応無しに、既にそこにいるのである。
今日では、地位、資金、人脈、宣伝媒体等があれば、ある種の方向に歴史を動かすことは、実に容易い。それはわが国の昨今の動向により、既に証明されている。そして私たちは生まれる環境を自ら選ぶことは出来ない。社会の大多数の人々は、地位も金も持たず、埋没した個人として存在する。
サルトルならば言うだろう。人はどのような条件の下に生まれたとしても、その条件に意味を付与するのは彼自身だ、と。
「みずからを諦めた人間として選ぶか、革命家として選ぶかによって、間断ない屈辱の未来かそれとも征服と勝利の未来を自由にプロレタリアに与えるものは彼である。そしてこの選択に対してこそ彼は責任があるのだ」(サルトル「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞)
サルトルの恫喝めいた言い方はあまりフェアではないかもしれない。また、人間は歴史に対して責任を取りうる存在なのか、どうなのかは意見の分かれるところだろう。だが、四の五の言う前に、ひとつ考えて欲しい。あなたはどうありたいのか?
勿論、わが国の多くの人が社会的な事柄に対して、「棄権」したがっているということを、私たちは知っている。だが、再びサルトルの言葉を借りて言うならば、何もしないことも一つの選択であり、選択自体を棄権することは出来ない。
そこで繰り返して言おう。あなたはどうありたいのか?今一度自分に問いかけて欲しい。
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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
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