時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
或る種の不毛な対立について
高校生の頃、澁澤龍彦にかぶれたものだった。古今東西の文献を渉猟した上で、独自のミクロコスモスを作り出す、類まれなるエクリヴァンであった。
澁澤といえば、異端文化の発掘・復権という一面において、人々の記憶に残っていると思う。異端として蔑まれてきた文化遺産を復権させ、聖性に対して汚穢を、理性に対して狂気をぶつけていく事には、かつて一定の意味があった。人間にはこんな暗黒面があるのだ、それを受け入れてこそ、人間を全体性として捉える事ができるのだという事である。だが、この試みは一歩間違えば、鬼面人を驚かすような、自己目的化したゲテモノ趣味に転落する。この手のクリエイターは後を絶たないが、どうも違和感を禁じえない。
ミシェル・フーコーは「言葉と物」において、エピステーメーという概念を用いながら、人文科学の共時性という観点を強調した。この論理に従えば、所謂正統も異端も大した違いは無い、両者の対立はコップの中の嵐に過ぎないという事になる。
異端も正統も同じ土俵に根ざしていたという文化史観は、今日かなり一般的になっていると思える。たとえばサド侯爵は18世紀の啓蒙主義精神を大きく引き継いでいる事はよく知られているし、ノストラダムスがルネサンスの人文精神の申し子であった事は、文学史においては常識的な事柄である。
一般に、実証主義的な研究を深めるほど、「異端」を支えるものが極めて正統な、オーソドックスな思考法である事が見えてくるものである。そうなるともはや、異端と正統を対立させる理由は存在しない。むしろ全てをひっくるめた総合的なまなざしが前提として求められている。後年の澁澤の著述も、こうしたことを理解したうえでなされていると思われる。澁澤は単なる異端好みの作家ではない。
ところが或る種の公権力は、こうした流れを逆行させようとする。彼らは文化に或る公的基準を設け、これが美でこれが醜であると厳格に定める事を要求する。これは人間性の中に、しかじかのものがあってはならないということであり、人間を規格化しようとする試みである。都合のいい一部だけを取り出し、それのみを認めていく。アナクロニズムも甚だしく、あまりにも貧弱な発想である。実に無様ではないか。
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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
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