時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
「神曲」から「人間喜劇」へ、「人間喜劇」から「神曲」へ
一時期から、バルザックやゾラの再評価が始まっているように思える。
昔、ミシェル・セールが神話学的な観点からゾラを再評価した事があるが、それとも違う。むしろ、ベタな観点、奇を衒わない、オーソドックスな読解から読み直しを行う動きが行われていた。この潮流が今も続いているかどうかわからない。
シュルレアリスムの運動は、人間喜劇的な作劇と徹底的に対立した。20年程前には、「このところ、人間を描く事がつまらなくなってきた」と言われたものである。だが、これは今考えると早計ではなかったか。むしろ、貧弱なドラマ作りが横行した結果、人間劇はつまらない、という潮流が生まれたのではないか。その昔、花田清輝は「もはや人間喜劇(コメディ・ユメイヌ)の時代は終わった、これからは神曲(ディヴィナ・コメディア)の時代が始まる」と記したが、そう単純な話ではない。逆もまた然りである(もっとも花田も二元論を嫌うので、相変わらず留保がついているのだが)。
ヌーヴォ・ロマンによる、物語を壊す試みが一通り終了した後、物語を新たに創造する志向性が生まれている。これは確実だろう。「カラマーゾフの兄弟」の新訳がよく読まれたのもその流れの延長にあると思われる。「大きな物語」だか何だか知らないが、骨太な作劇がどこかで求められているのは確実だろう。
勿論、単に陰惨な話を書けば、深みが出るというわけではない。登場人物を魅力的に造形しておきながら、絶対的に逃げ場のない状況に追い込み、イジメ倒した挙句、破滅させる・・・こんなものは只の悪趣味である。サドの「ジュスティーヌ」の優れた価値は、これを人間劇として作劇しなかった点にある。まともにドラマとして扱っても仕方がないのだ。仮にそれを行い、読者や視聴者が主人公の悲劇性(それも人工的な)に涙するとすれば、これを「衰弱」と呼ばずして何と呼ぼう。
結論を言うと、「神曲」の時代も「人間喜劇」の時代も終わっていない。先程の花田の主張もそれに近い筈である。
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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
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