時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
作品が政治的になることを恐れるな
フジロックに関し、「音楽に政治を持ち込むな」などという珍提言が、ネット上を賑わした。
言うまでも無く、ロックはしばしば政治と交錯してきたし、ボブ・ディランからジョン・レノン、クラッシュ、レイジと数え上げればきりが無い。「アンガジュマン(参加)の芸術」などという仰々しい物言いには同意しないが、創作活動が社会と切り結ぶ契機は常に存在するのであり、作品が政治に踏み込んだとしても、それ自体は何ら不思議なことは無い(勿論、政治的な作品がすなわち良い作品になるというわけではない)。
だが、この種の潔癖主義は今に始まったことではない。近い例では「美味しんぼ」騒動が挙げられる。このときも、「風評被害」「福島差別」という出鱈目な罵詈雑言に交えて、「マンガに政治を持ち込むな。マンガは読者を楽しませるものであり、作者の意見を述べるものではない」という言説が現れた。
おそらく、この手の論者は手塚治虫も読んだことが無いのだろう。彼が生み出した今日的なマンガ表現は、敗戦から産声を上げたのであり、そこには草創期において既に、戦争・貧困・差別が生々しく刻印されていた。勿論、ここには同時代の映画の影響もあるのだが、映画もマンガも、共に社会と向き合い、伴走していたのである。
作家とは自らの世界を表現する者である。たとえそれが生のままの主張ではなくとも、そこには必ず作家の<自我>が何らかの形で表出される。そこを蔑ろにして、「鑑賞者を楽しませることだけを考えろ」というのは、倒錯した論理である。これは作家に表現をやめろというに等しい。
わたしたちは、今日までの歴史において、「政治に役立つ作品こそがいい作品だ」などとぬかすバカから、創作の自由をかち取ってきた。この種の文化スターリニズムに対しては断固として闘わなければならないが、同時に、わたしたちは「作品が政治的であることを恐れる必要は何も無い」と言わなければならないのだろう。作家は自分の内的必然性に従って創造活動を行うのだ。下らない枷を設けるな。
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フェイクといかに付き合うか
森達也監督「FAKE」がなかなか面白い。作曲家・佐村河内守を扱ったドキュメンタリーで、題材の選び方がいかにもこの人らしい。
まず断っておくが、本作はニュース番組的な作品ではない。「事件の真相を明らかにする」といった内容を期待するのであれば、それは見当違いというものである。「A」、「A2」を観て、オウムの現在を語るというのが不毛であるのと同断である。これは、ひとりの人間(或いは一組の夫婦)が、騒動の中で、如何に振る舞い、悩み、考えてきたかを描いた作品である。ケーキの描写、猫の表情等、なかなかユーモアのある映像が盛り沢山で、実に心地良い。わたしはテレビを殆ど観ないので、新垣隆がバラエティに頻繁に登場していたことを全く知らず、不思議なものを見る思いだった。

終盤に森監督は「何故新曲を作ろうとしないのか?作りましょうよ!」と佐村河内をしきりに焚き付ける。ここには、長年映画を撮れずにいた森自身のジレンマが含まれている筈である。「好きなんだろ?作ればいいじゃないか!作ろうよ!」
それに答える形で、佐村河内はついにシンセサイザーを駆使し、騒動後初めて新曲を製作する。わたしは、彼が一人でゲーム音楽を作曲した時期もあるとは聞いていたので、作曲能力があることは知っていた。そのため衝撃とは思わなかったが、何故か圧倒された。心を揺さぶられたことをここで告白しておく。
エンディングテロップが流れた後、監督は佐村河内に「今まで僕に嘘をついていたことは無いですか?」と問いかける。彼はそこで暫く無言となり、回答が描かれないまま映画は終わる。この沈黙が何を意味するかはわからない。音楽のこと、聴覚のこととは何ら関係の無いことかも知れない。だが監督は、敢えてこのシーンを最後に残すことで鑑賞者に揺さぶりを掛ける。これまで貴方の見ていた現実はフェイクかもしれませんよ、と。これは、全てを疑えというメッセージであると同時に、「嘘でもいいじゃない」という呼びかけでもある。
結論を宙吊りにすることは、森達也のいつものパターンではある。これは超能力少年や悪役レスラーなどでも変わらない。つまり、全てを白黒はっきりつける必要があるのか?ということだろう。フェイクであるか否か、そこのいかがわしさを踏まえたうえで、対象と付き合う方法もある筈である。それよりも糾弾されるべきウソは、他に数多く存在するのだから。

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ゆかりなき死
殺人鬼が一人死んだ。鳩山邦夫という人物である。この男は法相時代に、13人の殺害を指示した張本人である。のみならず、乱数表だのベルトコンベアーだのと、機械的な権力殺人を推奨した徒輩である。外道というほかない。
また、性表現規制問題では、フィクションだろうが何だろうが、全て十把ひとからげに潰そうと画策した輩である。性という人間存在の根幹に関わる課題を一顧だにせず、悪しきもの、抹殺すべきものという、恐ろしく低次元な議論に閉じ込めた。何も考える必要を感じていなかったのだろう。この男は、国家権力による、人間存在の規格化を是としたわけである。人間が国家の家畜であることに何ら疑問を感じていなかったのだ。
お悔やみ?冥福?笑わせないで頂きたい。このような男が死んだからといって、わたしには一灯を捧げるゆかりもありはしない。繰り返す。殺人鬼が一人死んだ。ただそれだけのことである。

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読書のこと 2016.6.19
忙しい為、書物にじっくり目を通す余裕があまり無い。それでも、ここ最近では
パヴェーゼ「月と篝火」
ドストエフスキー「死の家の記録」
京極夏彦「豆腐小僧双六道中 おやすみ」
を読了している。
その他、短い随筆等は数多目にしているが、まとまった長いものを差し当たり挙げてみた。
感想を記してみたいのだが、「月と篝火」は、片付けの際に本がどこかに行ってしまった。ドストエフスキーは今更論じたてるのも気が引ける。「豆腐小僧」は感想を書きなぐってみたが、ちょっと今掲載する気になれない。
現在、ウンベルト・エーコ「プラハの墓地」を読んでいるところである。

出張先でスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ「戦争は女の顔をしていない」を入手した。地方都市なので、大きい書店のあるような場所ではない。そのため、通販のコンビニ受け取りサービスを利用させて貰った。長期出張ではこんな芸当が可能な時代になった。妙なものである。
所謂「大祖国戦争」に兵士として従軍した女性たちの証言記録であるが、詳細は読了した後に記したい。色々思うところはあるが、現段階で軽率なことを語るのは差し控えたいのである。

※パヴェーゼの本が見つかった。折角なので、さしあたり印象に残った箇所を引用させていただく。
「無知な人間はいつまでたっても無知だろう。なぜならば権力は、人びとが無知であることによって利益をえている連中の手に、政府の手に、黒衣の連中に、資本家たちの手に、握られているのだから・・・」(月と篝火)

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娯楽としての<辞任>
元々舛添要一は大嫌いで、共感を持ったことは一度も無い。東京都に選挙権は無いが、都知事選の結果を見てがっくり来たものだ。予想されていたことであるが、「テレビに出ている」「学者という肩書きで名を売ってきた」の二点のみでイメージ戦を制したわけである。
寄ってたかって祭り上げるエネルギーは、ひとたび立場が変われば、これを集中的に抹殺する力学に転化する。現実に、ここ最近のテレビ報道では視聴者を洗脳するかのように舛添バッシングが続けられた。
碌でも無い奴ではあるし、辞めることに何ら異存は無いのだが、収賄問題の甘利は話題にならないし、桁違いにあこぎな事を行ってきた石原慎太郎が非難されることも無い。この報道、おかしくないかと思うのは自然だろう。築地移転問題や、オリンピック買収疑惑はど こへ行った。
さて、御存知のように舛添は辞任と相成った。そこで今度は次期候補者選びのお祭り騒ぎである。橋下や東国原などのタレント達は論外としても、何故か自民党系の人間ばかりが「手堅い」とクローズアップされる始末だ。
「有権者はそんなに莫迦ではない」、そう思いたい気持ちは理解する。だが、多くの人々にとっては、テレビこそが真実である。勝ち組のまことしやかな言説に翻弄され、人々は何度でもひたすら踊らされ続ける。「良い奴隷とは、自分が自由だと思っている奴隷である」、いつまでこんなことが続くのだろう。

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<英雄>が逝く
ボクシングは嫌いではないが、別に詳しいわけではない。寧ろ、ど素人だといっていいだろう。
そんな私がモハメド・アリの名を知ったのは、幼い頃に読んだ藤子不二雄のマンガ「ドラえもん」においてである。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という形容は、当時の私の記憶に残った。残念ながら私の家族は誰一人ボクシングの知識が無く、私自身もその人物が実在するのかどうかすら定かにしないまま幼年期を過ごした。
彼の存在を少しなりとも意識するようになったのは、ブラック・パワーの歴史に触れるようになってからである。月並みな言い方だが、彼もまた時代の子であった。彼が活躍した時代は、ブラック・パワーの高揚期。マルコムXと出会い、ブラック・ムスリムに入信するなど、彼は単なるスポーツ選手というだけでなく、ノーマン・メイラーの言い回しを借りれば、黒人大衆の「民族的抵抗者」としての夢を仮託されていったのである。そして、彼自身、その夢を意識的に、積極的に引き受けたのだった。
「白人はもう黒人にリングの上で勝てないから、そのかわりにアンクル・トム(白人的黒人)をおれにぶつけようとしている。しかし、おれはいつでもそいつをぶちのめしてやる!」
「黒は最高なんだ!」
ベトナム戦争への兵役拒否は、黒人大衆のみならず、世界の多くの人々に勇気を与えた。「俺にはベトコンと争ういわれは無い」、この単純明快なメッセージの中に、彼がどれだけの覚悟を込めていたか、想像に難くない。タイトル剥奪から復帰までの道程は多くの人々の知るところである。
やがてブラック・パワーも嘗てのような大きなエネルギーを失っていった。だが、現在も散発的に黒人虐殺事件が発生するなど、アメリカ社会の抱える人種問題が決して解消されたわけではない。とはいえ、アトランタ・オリンピックの聖火を掲げるアリの姿には、もはや抵抗者としての面影は存在しなかった。別に「体制に取り込まれた」などと、彼を責めるつもりは無い。英雄はその役割を終えた。あとは次の世代の仕事である。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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