時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
年末に思う
バタバタしているうちに年末になってしまった。
今年一年を振り返ると、この社会が戦争に向けて大きく動いた、最悪の一年だったと思う。もっとも、これが「来年よりはずっといい」という、ロシアン・ジョークのような事態になりそうな気配が濃厚なのであるが。
個人的には、今述べたようにバタバタの一年だったというほか無い。生涯国外の地を踏むことはあるまいと思っていた私が、仕事で三度も渡航する羽目になったというのも想像できない事柄だった。海外に行くと人生観が変わるという人が多いが、どうも私の場合、あまり変化した様子が無い。余程鈍感にできているのだろうか。

今年も観た映画の本数はあまり多くないのだが、久々に順位などをつけてみる。
1.野火(監督:塚本晋也)
2.リアル鬼ごっこ(監督:園子温)
3.劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza(監督:岸誠二)
3.ガールズ・アンド・パンツァー劇場版(監督:水島努)
野火は原作の力もあるのだが、圧倒的に頭抜けていたのは疑いない。テーマ性の強さを基準にしたが、2位以下は入れ替えが可能である。尚、スター・ウォーズは親子喧嘩の話で、特筆すべきものは無い。マッドマックスは何がいいのか全くわからない。

楽観的なことは言いようが無い。来年もまた、地獄への顎が、ひとつ、またひとつと開いていく年になることだろう。それでも、逃げる先などはありはしない。私たちに出来ることは、もがき続けながらこの社会を精一杯生き抜くことだ。

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シリアスから遠く離れて
「ガールズ・アンド・パンツァー 劇場版」(監督:水島努、脚本:吉田玲子)の感想を記す。
まずお断りしておくが、以前に述べたように「ガルパン」とは楽しいおバカアニメである。茶道、華道と並び、戦車道なる武芸が婦女子の嗜みとして受け継がれている妙ちきりんな世界で、少女たちが母校の命運をかけ、この全国大会に出場するというもの。戦車の中は特殊カーボンで守られていて絶対安全であるという、謎のご都合主義設定まで用意されている。
TV版の冒頭にはピンクのM3リーや、けばけばしく飾られた三号突撃砲が登場する。これは製作者の不真面目宣言と理解するべきだろう。決して戦争を描くのではなく、戦車ゲーム的な世界を描いた作品なのだ。
登場人物の設定がステレオタイプであることは、しばしば指摘されていることである。他校のチームたちはそれぞれ、イギリス、アメリカ、イタリア、ロシア、ドイツをカリカチュアライズしている。だが、この手の話はシリアスに書けば書くほどいかがわしくなるので、このくらいで丁度いい。あくまでも戦車という現実の殺人兵器を題材にしていることを私たちは忘れるべきではない。但し、個々の人物の感情などは細やかに描かれている。
(尚、劇場版では旧日本軍のパロディが描かれる。「突撃はわが校の伝統ぞ!」と、意味も無く特攻して敗退し、味方を混乱に陥れる)
劇場版のストーリーは、廃校取り消しを反故にされた少女たちが、最後のチャンスを賭け、大学選抜チームとの試合を行うというもの。相変わらずスポ根物のお約束だが、やりたいことだけを描くために、余計な要素は徹底的に作品から排除している。この思い切り方は悪くない。
戦車アクションの映像的快楽を徹底的に描き切ることがこの作品の目的なのだ。ここまで純粋に娯楽に特化した作品も珍しい。
そのため、TV版のマウスに相当するカール自走臼砲から、超重戦車T28、センチュリオンMK1(大戦末期に開発された最初期のバージョン)といった怪物(変態)戦車が目白押しとなる。山を揺るがすカールの着弾音は、この映画の最大の魅力のひとつとなっている。
観覧車を打ち抜くのはスピルバーグの「1941」(私は未見)のパロディだが、これが巨大パンジャンドラムと化し、相手チームの包囲を撹乱する。流石にアクションに特化しただけあって、画作りも素晴らしい。「カメラワーク」への徹底したこだわりは、映画全般を通して強く感じられる。
その他、ジェットコースターを疾走するCV33、カンテレ演奏によるサッキャルヴェン・ポルカ、履帯無しで走行するBT-42、中央広場での遊具を駆使した攻防など、見所は欠かせない。情報量も多く、全てを語れば一日では足りないだろう。
飽きさせない二時間を堪能できる、なかなか痛快な作品だった。



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日韓合意に思う
従軍慰安婦に関する日韓合意は、当事者である元慰安婦を置き去りにしている時点で内容的に破綻している。しかも、「不可逆的に解決される」という文言で、国家権力による一方的な幕引きを図るなど、きわめて悪質なものとなっている。
個人的な話をする。昔、同じ会社にいた課長が、同僚に無礼な態度を取って怒らせたとき、「はい、謝りました(土下座)。もう謝らないぞ!」と宣言して余計に激怒させたことがあった。あまりにも間抜けすぎるが、今回の不可逆宣言に接し、それを思い出した。
今回の日韓合意の背景に米国の意向があることは、あまりにもわかりやすい。反省も謝罪の意思もひとかけらも持っていない安倍政権が、面従腹背で形の上だけ自省したように見せかけたのは、勇気を見せたわけでも何でもないのである。この点、島田雅彦の「虚人の星」にも言及したいが、ややこしくなるので別の機会にする。
「もう謝らない。今後は反省もしない」という点にこの政権の本音があるというのは、これまでの活動に照らし合わせても、邪推にはならないと思う。今回の日韓合意で何か好転したわけではない。この政権は、これからも戦争する国づくりに邁進していくことだろう。
私たちは、今も尚「戦前」にいる。

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澄み切った風景
前回予告したように、「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza」(監督:岸誠二)のレビューを忘れていたので、簡単に記す。

大分ストーリーを忘れてしまったのだが、簡単に記す。内容は、前作で人類に降伏勧告を行った<霧>※の艦隊に対し、主人公達一行が単独で乗り込み、話をつけようとするもの。ここに、<霧>側の戦艦ヒエイ、重巡ハグロ、アシガラ、ナチ、ミョウコウを中心とする艦隊が立ちはだかる。
アクションは相変わらず見事な出来栄えで、重巡洋艦である筈のアシガラが、主人公達の潜水艦イオナ(イ401)を追って、勢いよく潜水を決行する場面には度肝を抜かれた(「アホの子」と呼ばれる所以である)。TV版の最後で漸く心を開いたコンゴウが、頼もしい活躍をするシーンも見逃せない。見せ場の連続で、時間内に収まらないのではないかと懸念されたが、きっちりと丁寧に纏めた手腕は見事である。

そもそも<霧>は、自らを単なる「兵器」と規定し、アドミラリティ・コードなるものに従う存在であった。人類との戦争もこのコードに従って行われたわけだが、本作において、このコードは、想い人(主人公の父親)を失った霧のリーダー・ムサシの哀しみが作り上げたものであることが判明する。「私たちは兵器。ただアドミラリティ・コードに従えばよい」と語り続けてきた<霧>のアイデンティティが、根本から失われてしまうわけだ。要するに、<霧>は人間と変わらない存在だったわけである。
末尾において<霧>たちはコードから完全に解放され、これからは各々が自由に生きるように告げられる。人類との全面戦争は一旦御破算にされ、新しい時代が幕を開ける。

本作のテーマは、他者との理解は可能か、というものである。異生物たる<霧>は、自らを兵器として定義づけるが、主人公たちと出会うことにより、その定義が揺さぶられ、崩されていく。<霧>は他者との関係を通じてますます人間的となり、他者を拒絶する人類側の狡猾な軍人たちが、ますます怪物的に見えてくる。
無論、他者との相互理解など、そうそう望めるものではない。だが、他者の殲滅によっては、社会は成り立たず、解決は望めない。結局は他者と付き合い続ける他は無いものだ。
これを苦渋に満ちた形で提示すれば、庵野秀明になるのだが、本作のエンディングはのんびりしたもので、実に爽やかである。人類と<霧>との対立がそうそう解消するとは思えないが、まあ、ぼちぼちやっていこうよ、という力みの抜けたメッセージが見られ、これは決して悪くない。ラストにはヒロインたるイオナの帰還が暗示され、爽やかな後味を残す快作だった。

※<霧>とは軍艦の形状をした、意思を持った謎の存在。「メンタルモデル」と呼ばれる、人型の形状を加えることで、人類との意思疎通を可能にした者も存在する。劇中で活躍するのはこちらのタイプ。



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宇宙親子喧嘩
この所、いくつかの映画を観ているが、レビューが追いつかない。「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza」のように、レビューを忘れたままずっと放ったらかしになったものもある。語ることは色々あるが、内容が豊富でうまく纏め切れないのが実情である。取り敢えず昨日観た、どうってことの無い映画の感想を先に記す。

「スター・ウォーズ フォースの覚醒」を観た。ハリソン・フォードは相変わらず健在そうで何よりだった。必死にダイエットに励んだというキャリー・ フィッシャーは、おおよそ予想したイメージ通り。髭面のマーク・ハミルは「風の惑星」を観ているので左程違和感は無かった。
壮大なスケールのSF超大作として知られるが、ストーリーの骨子は親子喧嘩である。これは今回も変わらない。最初のシリーズではルークと父アナキン(ダース・ベイダー)の確執が中心軸だったが、今回はハン・ソロと息子の確執がストーリーの軸となる。
光と闇の胡散臭い二元論はお約束事項なので目を瞑るとして、それにしてもやたら押し付けがましい家族主義は、メジャーなアメリカ映画の特徴なのか。家族という概念から、自由になるという方向性は無いのだろうか。ああ、だからハン・ソロの息子はダークサイドとやらに堕ちてカイロ・レンとなり、家族主義者の父親を殺すわけか。そう考えると辻褄は合う。
アクションとしては「いつものスターウォーズ」であり、失望することは無いだろう。映画作品として目を瞠るものは無いが、久方ぶりに公開されたシリーズ最新作として、話のネタ作りくらいで観るのが丁度いいかもしれない。

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雑想 2015.12.21
期間が開いてしまうのも癪なので、とりあえず近況を記す。
ここ暫く、ひどい風邪を引いていた。この冬は立て続けに二度風邪を引いた。免疫が弱まっているのか。今も完全に治りきった感じがしない。おかげで街頭行動からはすっかり遠ざかってしまった。まあ、致し方ない。肉体をやたら動員することは、必ずしも価値ではない筈だ。

「スター・ウォーズ」がやたら騒がれているのが正直鬱陶しい。水を差すつもりはないが、これこそが映画だなどと言われてはたまらない。冷静に立ち返ってみれば、ガキの映画であることはまぎれもない事実だ。勿論、ガキの映画は私も嫌いではない。むしろ大好きだといえる。だが、視点を切り替える回路は必要である。

読んだ本。
島田雅彦「虚人の星」
蓮池透「拉致被害者たちを見殺しにした安部晋三と冷血な面々」

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映画「カルロス」(監督:オリヴィエ・アサイヤス)をめぐる、とりとめのない印象
「カルロス」とは、イリイッチ・ラミレス・サンチェスの活動名。ヨーロッパで様々な事件を引き起こした、ベネズエラ出身の活動家である。
映画はシオニスト資本家の暗殺未遂から始まり、日本赤軍によるハーグ事件の後方支援、その後警官殺害を経て、OPEC襲撃、TGV爆破、冷戦後は各地を転々とした後、スーダンで拘束に至るまでを描く(現在ラ・サンテ刑務所に収監中)。バックに流れる、ニュー・オーダーのDREAMS NEVER ENDがなかなか心地よく、テンポの良いアクション映画としても楽しめるだろう。
主人公の自己顕示性と、男根主義的メタファーについては多くの人が指摘しているのでここでは繰り返さない。ここでいう自己顕示とは、「俺はこれだけ凄いことをしでかしたんだ」と、冒険者たる自分を誇示するというものである。
自己顕示欲の強い男だったのは事実なのだろう。だが、それだけでは彼の人間性の一面しか捉えていないような気がする。

勿論、ロマンを求める心情が無かったらこんな活動などやっていられない。ゲバラやカストロに憧れて活動を始める人間はどこにでもいるし、カルロスもその例外ではないだろう。
日本赤軍やRZ(革命細胞)の青年たちが向こう見ずな活動を続けたことは多くの人々にとっては想像を絶することに違いない。彼らはゲバラになりたかったのだ。第三世界民衆のためならいくらでも命を捨てられる、ここで人生が終わることなど何ほどのことでもない、あるいはそんな事は考える必要はない、ということだろうか。こうして命知らずが出来上がる。命知らずになれるということは、汚れ役も辞さないということである。人名軽視、同士に対する専制的な姿勢などもここから発生する。
社会を動かすのは名も無き民衆である。虫けらのように這いつくばってみじめにその日を暮らし続ける大多数の民衆こそが主人公である。彼らは時としてエゴイスティックで、意地汚く、醜悪ですらあるだろう。
私はゲバラという人は、ロマンに逃げたのではないかと思っている。
勿論、活動家たちも最終的には「全てこれら人民のため」であり、死地に追いやった同志たちが「かけがえの無い存在」ということを理解している。矛盾しているように見えるが、これらは両立しているものである。

資本主義に対し、武力によるゲリラ戦で対抗することは、美しく見えるが勝機は無い。敗北は確定している。輝かしい理想を掲げた国際主義は、時の経過と共に政治機関の傭兵活動と化し、その栄光を失墜させる。男根主義者カルロスも睾丸の病に罹り、司法官憲の手に委ねられる。ここで彼らを嗤うことは愚かである。この嘲弄には社会変革の不可能性という罠が潜んでいる。変革の運動は不可避的に敗北するという狡猾な罠が。
「キネマ旬報」の「カルロス」評において、足立正生はそうした「変革の不可能性」というメッセージを超えた作品を作りたいという旨を語っていた。私はというと、華々しい活動に命を賭けるつもりはさらさらないし、また、大掛かりな変革の夢を語る活動家が、ロクでもない人間性の持ち主であるという例をいくつも知っている。要は、付き合い切れねえよ、という事だ。
目下の私の関心事は、むしろ「人間」に関する事柄にある。


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野坂昭如ノーリターン
野坂昭如が亡くなった。巷では「火垂るの墓」その他の戦争童話の作者、「おもちゃのチャチャチャ」、「ハトヤ」のCMの作詞、「朝生」での論客としての顔ばかりが強調されているが、私にとっては、特異な文体と作風を持った小説家であった。

私が読んだ長編は「騒動師たち」「てろてろ」の二作にとどまる。しかし、そのアナーキーで破天荒な作風は実に私の心に残った。
前者は釜ヶ崎のアンコが各地で騒動を巻き起こし、米国から帰ってきた後、全共闘の学生達に代わって安田講堂に立て籠もるというもの。すったもんだの挙句の果てに東大は焼け野原となり、軍歌「兵隊さんよありがとう」のパロディで締めくくるラストは、実に痛快だった。焼け跡は、野坂文学の原風景である。
後者は、より一層石川淳の影響が強まった作品で(野坂は石川淳を敬愛していた)、奇人変人たちが終結し、テロ活動を敢行するというものだった。テロだから「てろてろ」。明快で清々しいタイトルである。だが、こちらの方はどういうわけかストーリーを殆ど覚えていない。ラストは確か、膣内に隠した爆弾が、愛液で不発となり、自爆攻撃に失敗するというものだった。「てろてろ坊主てろ坊主、明日嵐になぁれ」の替え歌は、このブログでも何度か引用させて貰っている。
その後、私の身辺も慌しくなったため、野坂作品に触れるチャンスが失われてしまったが、一人の作家として気にかかる存在ではあった。「ユリイカ」で野坂の特集があれば購入したし、つい最近もエッセイ集を刊行するなど、健在振りをアピールしていたことを私は知っている。そこには昨今の社会情勢に対する危機感が縷々綴られていた。そうした矢先の訃報である。うまくいかないものだ。
戦争の語り部云々という月並みな台詞は今は語りたくない。野坂昭如は野坂昭如全集の中にあり。わかってはいても、騒々しい人がいなくなるのは、やはり寂しい。またひとつ、世の中がつまらなくなった事だけは確かである。

※尚、「四畳半」裁判の顛末は私は詳らかにしない。無論、一通りの知識はあるが、ここで本格的に論じ立てるだけの充分な情報を持たないので、割愛する。

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「人間って、非情なものですね」~水木しげるの思い出
水木しげるが、人間界から妖怪の世界に移行していった。まさに東洋的大人(たいじん)と呼ぶにふさわしい、大きな器を持った作家であった。
私の水木しげる体験を言えば、御多分に洩れず「ゲゲゲの鬼太郎」ということになる。尤も、私が楽しんだのは、幼年期に再放送された第一期と第二期であった。早朝の放送であったため、わざわざ早起きして両親を困らせたものである。
原作本「墓場の鬼太郎」(「墓場鬼太郎」ではない)が旧小学館漫画文庫から発売されていたが、なぜかこちらは購入することが無かった。特に理由があったわけではない。ただ何となく買いそびれたままとなったのである。
後年に製作されたアニメ版は見ていない。昨今の、猫娘が美少女化したシリーズも直接には知らない。原作本のタイトルまで「ゲゲゲの鬼太郎」と変更されたことにも不満があった。幼年期に思い入れた作品に対しては、妙に保守的になるものである。
本格的に水木作品に向き合うようになったのは、大学生の頃にガロ版「鬼太郎夜話」、「悪魔くん千年王国」を読んでからである。正義のヒーロー物とは一線を画す、社会批判とペーソスを湛えた独自の作品世界には引き込まれた。
ただ、手放しで褒めていたわけではない。例えば「猫楠」での、「トムソン氏に暴行を働いた」という内容の、誤った描写には鼻白む思いだった。実際は「図書館利用者(ダニエルズという名である)を殴打した後、トムソン氏(大英博物館館長)を罵倒した」というものである。既に研究書も多く刊行されているにもかかわらず、こうした誤った熊楠伝を踏襲していることに失望したものである。
また、如何に水木の存在が大きいとはいえ、妖怪と呼ばれる民間伝承が何もかも水木色というカラーに染められてしまっては堪らない。出版社はバカの一つ覚えで、妖怪・物の怪=水木という固定観念を広めようとするので、結果、私は水木から距離を置くようになった。率直に言うと、食傷状態にあったのである。
彼が「総員玉砕せよ!」などの戦記物や昭和史に手を染めていることは知っていた。ニューギニアで左腕を失った戦争体験が彼の作風に大きく影響していることも熟知していた。だが、それらを本格的に読み込むということは無かった。ここで「本格的に」というのは、手元において繰り返し読む程に、という意味である。大雑把に立ち読みする程度には読んでいるが、深く読み込んだわけではない。理由は単純である。刊行当時は金銭的に行き詰っていたし、文庫化されて以降は、ほかの事にまぎれて手に取る機会が無かったためである。
彼が池上遼一やつげ義春など多くの後輩を育てたことについても一言あるのだが、長くなってしまったので割愛する。「釣りキチ三平」の矢口高雄のデビューにも一役買っていることを、ここでは申し添えておこう。

ガロ版「鬼太郎夜話」は今でもちくま文庫版で手元にある。こちらは貸本版鬼太郎のセルフ・リメイクである。よって、この鬼太郎は正義のヒーローではない。遊び好きで計算高く、なかなかに狡猾な一面を併せ持つ、我々と等身大の人物である。その鬼太郎が騙し、騙され、様々な紆余曲折を経た後、ラスト近くで父親に告げる。
「人間って、非情なものですね」
これが水木マンガの到達したひとつの地平である。彼の作品世界は脱力した鷹揚さに溢れているが、その根底にはこうした厳しい人間洞察が潜んでいることを私たちは思い出すべきだろう。

study2007氏に続き、原節子と訃報が相次ぐ。study氏の場合は、本人より余命幾許も無いことが告げられていたため、こちらもじっとその時を待ち続けているようで、辛かった。この人のことについては後々記そうと思う。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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