時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
どちらを向いても・・・
このところ出張続きで心の休まる暇がない。このブログの更新もますます滞りがちである。まぁ、駄弁ばかり書き連ねているので、どうってことはないのかもしれないが。
バカが戦争の支度をやめない為、世の中がシッチャカメッチャカになっている。明日も大規模なアクションがあるらしい。私は明日も仕事なので、残念ながら参加できる状況ではない。

碧志摩メグ問題、いい加減にしろとはこのことだ。
実を言うと、町おこしのためのキャラクターという性格上、この問題にはちょっと絡みづらいところがある。だが、これを糾弾する莫迦共の言い分が、創造活動一般にまでその汚らわしい手を広げているため、これは徹底的に闘うしかない。
私に言わせれば、創造行為が性的な眼差しを伴うものであることは、自明の理なのだ。性的であって何が悪い?対象に性的な眼差しを向けるということは、その者が人類であるというのと同義である。私たちは石ころとお付き合いするわけでもないし、イデオロギーと恋愛するわけでもない(政治運動廃人にはそう公言する者もいるが)。性=生を否定すること自体が愚劣なのだ。
エロスを伴わない文化など、社会主義リアリズムの亡霊そのものである。ドラクロワから生気を取り除いたような代物だ。そんな代物が「純正芸術」としてのさばり返るようになったら既に末期である。
創造行為とは、協議のうえで当たり障りのないものを綺麗に描くことなどではさらさらない。それは良識を脅かし、価値を徹底的に痙攣させていくことを否応無しに含んでいる。いかなる名目であろうとも、これを破壊しようとする活動は、許しがたい反動主義である。
件のキャラクターの扱いについては、既に有意義な解決策がいくつも提示されている。町おこし用のデザインという性格上、何らかの合理的な折り合いをつける必要があるのだろう。正直、そこに首を突っ込むのは私の柄ではない。私が憤りを感じるのは、蒙昧な政治主義者が創造活動一般に対して莫迦の一つ覚えの政治的物差しをゴリ押しして、作品弾圧を図ることに対してである。いい加減に、恥を知れ。

武藤議員をめぐる言説の問題は、以前私が懸念していた事柄が一気に火を噴いた感がある。事の本質は、彼がゲイであったことではない。「戦争に行きたくないというのは利己的」発言と、「国会議員枠の未公開株」の問題である。
しかるに、世論の多くは彼の性的嗜好に関心を寄せ、それに対する憎悪、嘲弄を多く浴びせるに至った。何だこれは。これが日本の政治をめぐる言説の実体か。暗澹たる思いがした。

スポンサーサイト

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

「過剰は美である」
三条友美展「少女裁判」に足を運ぶ。
三条友美といえば、「少女菜美」。成人劇画界の一つの頂点を極めた人である。あのぶっ飛んだエネルギーをそのまま持続できるとはさすがという他無い。一時期、この人がCGを使い始めた時、大丈夫かなという思いがあった。その頃発表された作品も、大人しい無難なものだったので、尚更その感を強くした。その後、作品に触れる機会も殆ど無くなっていたが、今回の展覧会では良い方向に、予想を裏切られた。やはり三条友美はやはり三条友美だったのである。
今回の展示作品は全てCG画である。三条のマンガ作品に接したことのあるものにとって、それがこれまでの劇画の延長上にあることが見て取れる。この人はCGの底力を最大限に掘り起こすことに成功したといっていい。一枚一枚の絵の情報量が極めて多く、見応えがある。
少女たちは肉体を毀損され、血と汚物にまみれながらこの上なくエロティックな美の饗宴を繰り広げる。ロートレアモンに倣って言おう。「そして私は彼女たちを美しいと思う!」
いかにも、展示の内容は三条ワールドの一番コアな部分であり、サドの幻想を具現化したような絵画世界である。ここで注意して欲しい。残酷絵画の美は作家の美的感覚によって作られた美であり、徹底的に作品化された世界である、ということである。それは現実に存在する無秩序な残酷さとは一線を画している。これはスプラッター映画などでもいえることである。
この点、三条友美展の諸作品は、すぐれた人工楽園の世界であった。一見するに如くはない。


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

剽窃の紋章学
私は東京オリンピックには断固反対する。しかし、オリンピックのエンブレムを、パクリだパクリだと鬼の首を取ったようにはしゃいでいる連中には違和感を感じる。ACTA/TPP問題に多少なりとも関わってきた身からすれば尚更である。、
件のデザインが剽窃であるかどうか、差し当たりここでは問わない。デザイナー界隈の常識では、普通に起こりうる事柄であり、剽窃には当たらないらしい、という話を耳にした事もある。いずれにしろ私は判断するだけの資格を持たない。
危険なのは、安易に「パクリだからダメだ」という風潮が作られてしまうことである。草創期の日本映画がアメリカ映画をどれだけ「パクった」か。手塚治虫が欧米の映画からどれだけ「パクった」か。そしてそこにおける研鑽が、どれ程後々の文化的な発展に貢献したか、考えてみて欲しい。これは今日の同人文化にも言えることである。適法であるかどうかよりも、「似ている、パクリだ、けしからん!」という風潮が蔓延することが不気味だ。まして、遺伝子に著作権を設定しようとする今日においてをや!
運動関係者には、チャンスと見れば、攻撃すべきでない点を攻撃する輩が存在する。政治家がスチュワーデスのコスプレを趣味にしていようが、それ自体は一向に構わない話だし、SMバーに行くこと自体も(公金を使い込まなければ)勝手にやってくれという話である。これらの趣味の問題を執拗に攻撃する姿は醜悪だった。
安易に騒動に便乗すれば、しっぺ返しは自分に返ってくる。「飛ぶ前に見よ」とはあまり好きな言葉ではないが、今日必要なのは、立ち止まって省察することである。自戒を込めて訴えたい。

※尚、この記事の題名も、或る作家の著作をもじったものである。高名な作家なので、判る人にはすぐ判る筈なのだが。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

飢者の影
この間読んだ本。レビューを書こうと思ったのだが、延々と切りがなくなってしまったので、タイトルのみ記す。この吉村昭のすぐれた作品については、別途触れてみたい。
田中文雄・菊地秀行「戦艦大和 海魔砲撃」 
牧野修「呪禁官 百怪ト夜行ス」
山田正紀・北原 尚彦・フーゴ・ハル「ホームズ鬼譚~異次元の色彩」
吉村昭「戦艦武蔵」

さて、映画「野火」である。塚本晋也は「HAZE」、「妖怪ハンター ヒルコ」などに感心して以来、気にかけていた。「鉄男」、「六月の蛇」はいまひとつピンと来なかったのであるが。
今回の「野火」のストーリーはほぼ大岡昇平の原作を踏襲。とはいえ、神と人間を巡る、主人公の錯乱した思弁までは描かれない。この描写は小説ならではの特権であり、両者の表現媒体としての性格の違いがここに表れている。
ならば、映画で描かれている事柄は何だろうか。この作品では、フィリピンの青空と緑豊かな大自然が克明に描かれ、その下で行われる大量死との対比が鮮烈に浮き彫りにされる。敗走する兵士たちは機銃掃射で五体をバラバラにされ、脳や内臓をぶちまけながら惨たらしく死を迎え、飢えに苦しむ兵士たちは蛆にたかられ、虚ろな表情をしたまま落命する。ヴェーユが言うように、兵士たちは大量死の場に送られたのだ。
このあたりの描写がToo much と米国の評者から批判されたのだが、この批判には歴史修正主義的な意図を感じざるを得ない。大岡の「レイテ戦記」などに少しでも触れたことがあれば、それは理解される筈である。歴史を偽造したがる勢力は、かの国にも存在する。
市川崑版(未見)では描かれなかったという人肉嗜食の場面は、「猿」と称して干した人肉を口にする件りをはじめ、やはり原作に沿った形で描かれる。登場人物の永松は、殺したばかりの同僚を貪り喰らい、鮮血で口を真紅に染める。凄惨極まりない場面だが、これを人外への転落と見るか、人間の秘められた真実と見るかで印象は変わるだろう。
本作で徹底的に描かれるのは、戦争の獣性である。過酷な状況下において、人はモノとなり、破壊され、毀損され、食される存在となる。シベリア抑留経験者が、「極限の状況下では、人間が動物となる」と語っていた。或る状況下では、人間は当然に獣となり、モノとなる。本作で彼らをそうさせたのは何か。無論、戦争である。
少なくとも、或る状況下に置かれれば、人は「獣以下」と称される行為にすら平気で手を染めるものである。尚、後述するが、私個人は「この垣根は案外低いのではないか」と睨んでいる。

人肉食について
食人は近親相姦と並び、人類における普遍的なタブーとされている。勿論、前者では儀式等の場合、後者では何親等まで許されるだのといった、細かな例外規定はあるが、原則的には禁忌とされていることに違いは無い。
とはいえ、時折これを踏み破った事件を耳にすることがある。「人食いアミン」事件は政治的謀略、早い話、デマゴギーだったといわれるため、あまり参考にはならないが、佐川一政事件などもあり、今日でも、ごく稀にこうした事件は存在する。
人肉嗜食は幾度と無くフィクションの題材にもなっている。
サド侯爵の「悪徳の栄え」にはアペニンの食人鬼ミンスキーなる登場人物が現れるが、これには実在のモデルがいたという。18世紀の欧州であれば、そのような有力者がいたことは充分考えられる。作中の「食人鬼」は主人公ジュリエットが国外逃亡中に出会った悪人であり、人肉でジュリエット一行を歓待する。
ジュール・ヴェルヌにも「チャンセラー号の筏」という作品がある。こちらも現実に発生したメデュース号の遭難事故がモデルになっている。漂流中に飢えに苦しみ、ついに食人に走ったという事件であるが、同様の事件はまま見られる模様である。スタインベックの小説を映画化したヒッチコックの「救命艇」もまた、同じ形式が取られている。食人こそしないが、飢えと乾きに苦しむ人間の姿は克明に描かれている。
わが国に目を向けてみると、新藤兼人の映画「人間」では、漂流した登場人物が飢えと疲労で追い詰められた挙句、殺人を犯し、食人の一歩手前まで到達する。救助された登場人物は、自らの罪に慄き、自殺してしまう。
アニメ「グリザイアの果実」の最終エピソードは、谷底にバスごと転落し、脱出困難となった少女たちが、飢えに苦しんだ挙句食人に走る、というものである。かなり無理のある設定であることはひとまず措く。少女たちは亡くなった友人の死体を食べることによって野蛮な鬼的存在と化し、見境い無く主人公たちを襲う。些か陳腐であるには違いない。だが、本作もまた、従来の諸作品(サドを除く)の倫理性を踏襲していることは事実である。尚、人肉を「鹿の肉」と偽る件りは、明らかに「野火」を意識したものである。
船戸与一の「満州国演義」では中国の人肉市場が普通に描かれる。「精がつく」食物として人肉が好まれるのだが、船戸が差別意識からそのような描写をしたとは考えられない。私個人の印象を言えば、そういう事実もあったんだろうな、である。中国人が野蛮だというのではない。「人間はそういうことをするものだ」という意識が私には常にあるからである。
尚、船戸の「新・雨月」では、戊辰戦争における官軍が、やはり「精力をつけるため」と称して会津藩兵士の肝臓を貪り喰らう場面が描かれている。
「野火」の食人を取り上げるのであれば、武田泰淳の小説「ひかりごけ」に目を向けなくてはならない。こちらも遭難船の話だが、食人によって生き延びた主人公が、法廷において「自覚せる罪人」として、人々を救済に導く存在となる。ここにおいて、食人とは一種の原罪観念と重ね合わせられる。我々は人の肉を食い得る存在であり、既に食った存在と考えてみたらどうなのか。間接的、直接的、抽象的、具体的な全ての意味において。さらにこの作品では「食人」は戦争そのものの寓意として暗示されている。断っておくが、これは寓意としての一つの例証である。他に様々な解釈が可能な筈であり、それは読者に委ねられている。この点は「野火」にも共通する筈である。
大岡昇平の「野火」は私が中学三年生の時に読んだ小説である。その後、繰り返し読んでいるが、その輝きは色褪せる事が無い。本来ならばこの小説作品にも触れておくべきなのだが、ここまで書いてきて根が尽きたのと、本稿では塚本版の素晴しさを提示しておきたいことから、別の機会に譲ることとする。



テーマ:最近見た映画 - ジャンル:映画

断片的な批判
政治家が「いじめ」を自慢するというのは、「私も貴方たちと同じように、やんちゃをしてきた(いじめを行ってきた)フツーの人間なんですよ」と、親近性をアピールしたいのだと思う。
「いや、普通の人間はそんなことやらねーよ」という反応が返ってくるとは予想もしなかったのだろう。この鈍感さは想像を絶する。どこまで莫迦なのだろうか。言うだけ虚しくなる。

私は肉体主義は大嫌いだ。樽の中の哲学者を気取るつもりは無いが、「街頭で何かやっているオレは偉い」と思うようになれば、それは既に頽廃の只中にある。

「政治の幅は生活の幅より小さい」と埴谷雄高が記したとき、それは「人間の問題こそが重要だ」と宣言したのだと思う。政治は人間の活動であるが、政治こそが人間の活動なのではない。

私を含め、多くの大衆は、虫けらのように地べたに這いつくばって生きている。目を背けたくなるような醜い姿と映じることもあるだろう。キモい、ウザい。だが、それこそが人間性の真実である。スター気取りの活動家共の思い通りになるようなことではない。

正義のデマゴギーなどは存在しない。自分だけの正義を振りかざし、「われわれは正義なのだから、嘘で他人を陥れ、抹殺しても良い」、そんな屁理屈が罷り通ることは許されない。自称反差別主義者からネトウヨにいたるまで、この種の蛮行には枚挙に暇が無い。繰り返すが、良いデマゴギーは存在しない。目的は手段を浄化しない。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記



プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



のわーるのつぶやき



最新記事



カレンダー

07 | 2015/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -



最新コメント



過去記事のアーカイブ



カテゴリ



最新トラックバック



2010年「国際ジュゴン年」



検索フォーム



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



RSSリンクの表示



全記事表示リンク

全ての記事を表示する



FC2カウンター