時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
遅れてきた読者として~鶴見俊輔逝く
鶴見俊輔が亡くなった。震災以降は発言を聞くことが少なくなっていたので、覚悟は決めていた。だが、よりによってこの時期に亡くなるとは、さぞかし無念だったかと思う。

私は鶴見の遅れてきた読者である。鶴見俊輔といえば、進歩主義的知識人のボスのような存在であった。そのため、近付くのを少し躊躇っていた。概して、ご立派な進歩主義者など、碌なことを言わないものである。
読んだものといえば、限界芸術論、アメノウズメ伝、対談集、その他の短文をいくつか、だろうか。あとは、夢野久作論を少し眺めたくらいか。いくつかの書籍についてはこのブログでレビューを試みたこともある。あまり誠実な読者とはいえないが、それなりには気にかけてきた存在であった。

「正義はハタ迷惑なものだ」と、彼は「死へのイデオロギー 日本赤軍派」(P・ スタインホフ)の解説に書いている。これは私が鶴見に大きく共感した一節であった。連合赤軍事件とは大雑把に言えば、肥大化し、純潔主義化した正義の観念が同士殺害へと至ったものである。少なくとも私はそう考えている。妄想めいた正義の観念が、民衆への弾圧に向かう事例は、身近な表現規制問題でも私達は目にしている。そんな息苦しい思いをしている中、鶴見のこの発言は、まさにわが意を得たり、だった。
ただ、ここで一つの疑問が生じる。鶴見が行ったベ平連などの活動は、この正義観とどう整合性をつけるのだろうか。そこで調べてみると、実は「ベ平連の八年間は苦痛だった」と彼は述懐している。「ほんとうにまいった。運動に押し込まれちゃって。自分が正しくなっちゃうのはこわいことなんです」(鶴見俊輔・小林よしのり「勇気ある卑怯」)
鶴見が提唱したのは「がきデカ民主主義」である。権力者の利害と民衆の利害(欲望、自由)が対立したとき、欲望の側から権力者を批判していく、というものである。吉本隆明は、「大衆の原像」という概念から同様の結論に達していた。この二人が、同じ場所に辿りつく様子は愉快だが、とにかく硬直した大義性のようなものを、嫌った人であった。

対談の名手でもあった鶴見だが、そこには相手から最良の部分を引き出し、一歩でも二歩でも生産的な方向に論を進めていこうとする姿勢が見られた。これは、司馬遼太郎や小林よしのりなどを相手とした時も同様である。鶴見の司馬遼観については過去の記事で触れたので、繰り返さない。その独特のフィルターから過大評価になっている嫌いもあるが、少なくともこちらの司馬遼観に再検討を迫るだけの刺激性はあった。
印象深いのは、手塚治虫との対談である。メキシコの骸骨文化から鎖国論へと、さかんに手塚を振り回しながら、最後には手塚以上にマンガ表現の可能性を力説していた。手塚が、マンガに小説や詩や評論や啓蒙書の役割を担わせることは難しい、と語ると、鶴見は、そうではない、言語は日常のものだが、それを使って小説や詩は書かれている。マンガの場合も同じで、描くという行為があれば、その可能性は開かれているんだ、寧ろそこをすっ飛ばして、優れたものを無理矢理作り出そうとすることに文化の危機があるのだ、と回答していた。密度の濃い対談であり、一読をお勧めしたい。

アカデミズム界隈では、横のものを縦にしただけのような知的輸入業者が後を絶たないが、私が読んだ範囲では、鶴見にはそうした無様さが見られない。月並みな言い回しだが、地に足の着いた、自己思想を確立した人であった。こんな時代だからこそ、彼から学ぶべきことは多い。
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二度目は茶番
その昔、満州国時代のこと、「河豚(フグ)計画」というものがあった。発案者は陸軍の安江仙弘大佐と海軍の犬塚惟重大佐。内容は、「ユダヤ資本は河豚と同じ。商売上手なので気をつけなければならないが、うまく扱えばこれを満州に取り込める。そのためにヨーロッパで迫害されているユダヤ人を、大量に移民として満州に受け入れる」というものである。
結局はその後の三国同盟により、この計画は雲散霧消していくのだが、さてどうだろう。この譬え話に既視感は無いか。そう、つい最近、「集団的自衛権は河豚と同じ」とのたまった人物がいた。内閣法制局長官・横畠裕介である。
おそらく彼は河豚計画のことを念頭においてこのレトリックを用いていたに違いない。本人は気の利いたことを言ったつもりだったのだろう。だが、戦争下請けに直結する概念を、河豚料理などに譬えられたら溜まったものではない。まさに「煮ても焼いても食えねぇよ」という他なく、散々な批判に逢い、墓穴を掘ることとなった。
八紘一宇の時もそうだったが、何だろう、軍国時代のキーワードをレトリックとして用いるのが流行っているのだろうか。別に言葉狩りを提唱するつもりはない。だが、一万歩ほど譲ったとしても、こういうのは「言えばいい」ってもんじゃないだろう。カッコいいつもりかどうか知らないが、あまりにもセンスが無い。

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この不条理な時代に
「人生はシュールなんだ!シュールに負けるな!」
これは現在公開中の、「リアル鬼ごっこ」(監督・脚本:園子温)の台詞である。
滝口修造ではないが、この「シュール」という略語は私も好きではない。超現実を表す「シュールレアリスム」という言葉をつづめたものであるが、sûrという言葉は英語で言えばonに当たり、「~の上に」という意味になる。率直に言って、どうしてもしっくり来ない略語である。意味としては、「不条理」ということだろうが、こちらもシュールレアリスムとは少し食い違う。
閑話休題。映画の方であるが、これがなかなか面白い。デヴィッド・リンチを思わせるような迷宮的な世界であり、次の展開がまるで読めず、終始ドキドキし通しだった。種明かしめいた描写も決して整合性が取れているわけではない。この種の映画の見方としては、ストーリーの整合性を求めるのではなく、映画の流れに身を任せながら、その核心を掴み取っていくというのが正しいだろう。
主人公は大量死の只中に投げ込まれながら、自らの置かれた不条理な状況に抗う。黒幕は絶対的な力を行使しながら、ゲームとして主人公たちの生死を弄ぶが、彼女たちは「思い通りになってたまるか」と、最後まで抗い、その思惑を打ち砕く。
ここで私たちの置かれた現実に立ち返ってみよう。現在、私たちにとっても極めて「シュール」な事態が立て続けに起こっている。危険極まりない法案が、数の力を背景に、あっさり成立しようとしている。暴力的とさえいえる強行採決の実態を公共放送が報道しようとしない(結局渋々放送したが)。法案が危険であるばかりではない。憲法とは何か、適正手続きとは何か、そういった社会原理の根幹が、徹底的に蹂躙・破壊されようとしているのである。こうして私たちの生死が、愚昧な権力者たちによって弄ばれていく。
私たちは、まさに「シュール」な時代を生きている。これに負けずに抗い、生きることは可能か。今日、それが一番問われている。

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映画のある風景
映画のブログだった筈なのに、この間殆ど映画を観ていない。どうもぐうたらで気まぐれな性分のため、映画から遠ざかる羽目になってしまった。映画を観るにも気力と根性が要るものである。
たまたま、ここ一、二週間の間に何本かの映画を観る機会があったので、忘れないうちにここに記す。

・肉弾鬼中隊(監督:ジョン・フォード)
両次大戦間に製作された古い映画だが、時代を感じさせない作品である。舞台は第一次大戦下のメソポタミア。今日のイラクあたりか。ストーリーは単純で、道に迷ったイギリス軍の偵察部隊が、アラブゲリラからの攻撃を受けるというもの。一人、また一人と兵士が抹殺されていくあたりは、なかなかスリリングな展開となっている。
兵士たちはゲリラの影に怯え、追い詰められ、精神的にズタズタになっていくが、こういう場面は例えば「リダクテッド」(監督:ブライアン・デ・パルマ)などでも観たような気がする。「ブラックホーク・ダウン」(監督:リドリー・スコット)にしてもまたしかりである。戦場の有様は時代を超えて普遍的なのだろう。「ゲリラの人間像が見えてこない」という不満はあるかもしれない。だが、敢えてイギリス兵の姿に焦点を絞ることによって、戦争の非人間性を浮かび上がらせることに成功した作品だった。

・ウェーク島攻防戦(監督:ジョン・ファロー)
大戦中に製作された、米国製の戦意高揚映画。タイトルの通り、ウェーク島における日本軍との攻防を描いた作品である。作中の「なんちゃって日本語」は聞くに堪えず、古い映画とはいえ、粗さが目立つ。
映画がプロパガンダ性を含むのは左程問題であるとは思わない。問題は、その作品がプロパガンダの域を超え、普遍的なものに達しているかどうかである。本作からは、残念ながらそうした意義深い要素は見出せなかった。米軍兵士達の日常生活・喜怒哀楽の姿は丁寧に描けていたと思うが、見方によっては型通りの典型ともいえる。
勿論、こうした人間性の描写は作為的な意図を含んだものである。人間味溢れる米軍兵士に対し、日本軍兵士は不気味なエイリアンそのものとして描かれる。あたかも昆虫か何かのように、一切の人間味を感じさせない。この手法からは、プロパガンダがどのように作られ、演出されていくかをまざまざと思い知らされる。昨今でも「テロリスト」を描く映画・ドラマなどでもこのような悪質な手法が踏襲されている。その意味では、色々と勉強になった映画だった。

・ラブライブ!(監督:京極尚彦 脚本:花田十輝)
所用で外出した際、ちょうど時間が余ったため、いいタイミングで観ることができた。内容は、思わせぶりに終了したテレビ版の続編である。出来映えはまあ、「それなりに楽しくは観られる」といったところか。決して傑作というほどではないのだが。
前半が米国行きのエピソード、後半は国内ライブを成功させるために奮闘する話。アーティストが必ず向き合う、「自分は何のために活動をしているのか」という問いかけをぶつけてくるあたりは悪くない。単純であるが、いつの時代にも問い直されるテーマである。
海外に発つ場面は、丁度こちらも慌しい海外出張を済ませたばかりだったので、色々と感慨深かった(米国ではない)。それにしても、ニューヨークを「世界の中心」と絶賛するあたりは田舎者根性丸出しである。どこのお上りさんだろうか。観ているこちらの方が恥かしくなってきた。花田よ、爺さんが嘆くぞ。

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のわーる

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首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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