時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
戦争対名探偵
戦後派と呼ばれる作家達にはミステリーマニアが多い、埴谷雄高、花田清輝、平野謙、荒正人、大岡昇平等を思い浮かべれば頷けることである(大岡を戦後派と呼ぶことには異論があるだろうが)。これについて、大江健三郎が興味深い考察をしていた。何故彼らがこれ程までに探偵小説にのめり込んだのか?おそらく彼等は、あの戦争の「犯人」を捜そうとしていたのだ、と。
大江のこの分析は深読みに過ぎるかもしれない。ぶっちゃけた話、当時他にあまり娯楽がなかったというのが正解だろう。それに、仮に大江の説が真実だとしても、「そういう戦争観しか持てなかったのなら、この人達は駄目だったということになるよなぁ」というしかない。どこかに特定の「犯人」がいるというような戦争論は、あまりにも浅薄である。今時マンガでもこんな戦争観を呈示することはない。
寧ろそれは、戦時中の自らの立場を正当化しようとする試みにさえ見える。「どこかに犯人がいる、それは自分ではない誰かだ」と。吉本隆明が、第一次戦後派を「傍観者」だったとして痛罵したことを思い出そう。
特定の権力者を「犯人」として名指しすることは、政治的決着としては必要なのだろう。だが、思想的・文学的営為としては、意味を成さない。その時代の人々が有責であるとして、それはどのような性質の責任であるか、人間的課題として、真摯に考究する必要があるだろう。
ここで一つの問いが生ずる。果たして、その時代において「抵抗」と呼びうる行為とは、何を意味するのか?
例えば殉教主義的に官憲に抗い、逮捕されれば抵抗になるのか?獄中にいれば抵抗になるのか?拷問死すれば抵抗になるのか?
仮に戦時下において、生活者として人間性を保つことが抵抗ならば、先の「傍観」とどう違うのか?
この問いかけに対する結論はまだ出せていない。少なくとも、「私は抵抗した」と自称する人間に限って、何ら抵抗者の名に値しないことは確かである。

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誰のせいでもない・・・わけではない
誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている

いうまでもなく、中島みゆきの歌である。青春期の挫折の経験と、現在の恋人との(或いは夫婦の)危機を重ね合わせて歌った、印象深い作品である。勿論、転向歌の一種には違いないが、よくよく聞いてみると、完全に過去を清算できない、引っ掛かりのようなものを敢えて残していることは興味深い。
それにしても、本当に「誰のせいでもない」のか?本当に「しかたのない」ものなのか?
「そうとでも思っていなければやり切れない」というのが本音だろう。実際、この歌の主旨はそこにある。
昨日も、嫌な雨だった。本当に嫌な雨が降りしきっていた。

きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今頃遠かろうね 寒かろうね
(「誰のせいでもない雨が」)

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上野デ太古ノユルキャラ展ヲ見タルコト
「これは戦争法案ではない」と言い募っているバカ、横浜の殺人用具展示会、大阪市をツブそうとして無様にコケた男等々、不細工な話題が百花繚乱と咲き乱れている昨今である。さらにハワイでは空飛ぶ棺桶みたいな輸送機が墜落して死者が出た。いつまでこんなことを続けるつもりだよ。

そんな中、上野の鳥獣戯画展に行ってきた。いわば、平安時代のゆるキャラ画である。チケットを買って敷地内に入って唖然。博物館の入り口まで2時間待ちの行列だった。さらに鳥獣戯画の展示は甲、乙、丙と三部に分かれているのだが、メインの甲の展示は建物内で2時間半の待機時間を要するという。つまり、待ち時間だけで合計4時間半である。
結局こちらは断念し、乙、丙の展示のみ鑑賞した。それでも鳥獣戯画のエッセンスは感得できたと思うし、他にも明恵上人ゆかりの絵画群に出会えたことで、それなりに納得のいく体験だったと思う。
それにしても、幾らなんでもこの待ち時間はない。私は行列に並ぶことが大嫌いな人種なので、よっぽど途中で帰ろうかと思った程である。
鳥獣戯画の展示は30年ほど前にやはり上野で催されていたと記憶する。滅多に観られるようなものではないし、機会があれば是非とも行ってみたいと思っていた。だが、もう二度と行くものか。

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私たちは歴史の中にいる
ヘーゲルは世界史を絶対精神(神)の自己実現の過程と規定した。歴史がそのような合目的的なものとして形成されるのなら、こんなおめでたい話はない。現世に存在するあらゆる矛盾、対立も全て、神の属性であり、一切は神の自己実現のうちに回収され、歴史の終末にはミネルヴァの梟が飛び立つ、というわけだ。
一方、歴史には法則も因果も無く、ただ残虐な世界がひたすら繰り広げられていくだけである、とするのがニーチェに代表される歴史観である。換言すれば、歴史を否定する考え方である。
勿論、後者の考えを実際に採用することは難しい。とはいえ今日、私たちは歴史に対し、神の存在を前提とすることはできない。喜びも、争いも、全て包含する絶対者の姿を現実に想定することは不可能である。今や歴史とは、「人間」に属する事柄である。
私たちは歴史の傍観者ではない。仮にそう(傍観者と)思っているとすれば、それは重大な錯認である。どのような形であれ、人は世界に、歴史の中に投げ込まれている。ハイデッガーのいう「世界-内-存在」である。否応無しに、既にそこにいるのである。
今日では、地位、資金、人脈、宣伝媒体等があれば、ある種の方向に歴史を動かすことは、実に容易い。それはわが国の昨今の動向により、既に証明されている。そして私たちは生まれる環境を自ら選ぶことは出来ない。社会の大多数の人々は、地位も金も持たず、埋没した個人として存在する。
サルトルならば言うだろう。人はどのような条件の下に生まれたとしても、その条件に意味を付与するのは彼自身だ、と。
「みずからを諦めた人間として選ぶか、革命家として選ぶかによって、間断ない屈辱の未来かそれとも征服と勝利の未来を自由にプロレタリアに与えるものは彼である。そしてこの選択に対してこそ彼は責任があるのだ」(サルトル「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞)
サルトルの恫喝めいた言い方はあまりフェアではないかもしれない。また、人間は歴史に対して責任を取りうる存在なのか、どうなのかは意見の分かれるところだろう。だが、四の五の言う前に、ひとつ考えて欲しい。あなたはどうありたいのか?
勿論、わが国の多くの人が社会的な事柄に対して、「棄権」したがっているということを、私たちは知っている。だが、再びサルトルの言葉を借りて言うならば、何もしないことも一つの選択であり、選択自体を棄権することは出来ない。
そこで繰り返して言おう。あなたはどうありたいのか?今一度自分に問いかけて欲しい。

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宴のとき
「カフェ百日紅」で催されたダーティー松本氏の上映会に行ってきた。
内容は氏が監督した唯一のAV作品と、アニメ版「堕天使たちの狂宴」の二本立て上映。
AV作品はどちらかというと、様式化されたアート系ビデオの香りがした。勿論、お約束のバレリーナも登場する。ビデオの後半は生卵千個を使用した絡みが展開されるが、個人的にはバタイユの「眼球譚」を連想した。床一面に点在する黄身が、何とも不気味に思えた。
「堕天使たちの狂宴」の方はだいぶ以前に原作を読んでいたと思うが、詳しい内容はあまり良く覚えていなかった。ストーリー自体は若松孝二のピンク映画を思わせる筋立てである。「胎児が密猟する時」などに近く、ヤクザに監禁され、凌辱される少女が、ラストに復讐を遂げるというもの。
一般にアダルトアニメは低予算で質の低いものが多い。そのためピンク映画と同様、一転突破主義的に良い所を探すのが正しい見方だと思う。ただ本作を観た印象では、アニメ自体の質は思った程低いものではなく、まずまずの出来栄えではないかと思えた。

由来、すぐれた創造行為は堕天使たちによってなされるものである。

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探偵小説の夜
ここ数日の読書ノートから。

・古野まほろ「天帝のはしたなき果実」を読む。
二つの殺人事件を扱ったミステリー小説。この人の作品は中井英夫と小栗虫太郎の影響が濃厚で、本作も独特のよい雰囲気を持った一編である。「あっは!」という笑い声は埴谷雄高からだろうか。文体では堀口大學を意識した節がある。
吹奏楽部の音楽用語が全く頭に入ってこないので、そこは少々忍耐を伴う所だった。どちらかというと「セーラー服と黙示録」シリーズのほうが、カトリックの宗教的禍々しさ(勿論フィクション上のカトリックだが)を感じ取れて面白かったのだが、こちらもなかなか読ませてくれる。主人公の正体など、続編に色々含みを持たせているので楽しみである。

・古野まほろ「背徳のぐるりよざ」を読む。
「ぐるりよざ」とは、長崎の隠れキリシタンの間で伝えられてきた聖歌である。グレゴリオ聖歌「O GLORIOSA DOMINA」が元となっているらしいが、本編の内容とは直接関係が無いため詳細は省く。あくまでも全体の雰囲気を象徴する言葉と理解すればよい。
さて、本作は前述した「セーラー服と黙示録」シリーズの二作目だが、こちらは前作の前日譚にあたる。陸の孤島となり、戦時中から外界と隔絶されていた山村が舞台。この地に迷い込んだ主人公たちが、連続殺人事件に巻き込まれる。一読すればわかるように、「八つ墓村」をはじめとする横溝正史の作品をオマージュした作品で、「よし、わかった!」というあの決め台詞も登場する。
「正直村と嘘吐き村」という有名な論理パズルを巧みに取り込んだ一編であり、モーセの十戒の使い方もなかなか見事だった。だが本作の魅力は謎解きよりも、「カトリック(あくまでもフィクショナルな)」と土俗的因習のグロテスクな混交による、独特の作品世界を構築して見せている点にある。神学的ペダントリーも、うまくそれを補強している。
とはいえ、本作は決して小難しく込み入ったミステリー小説ではない。「天帝」シリーズにしてもそうなのだが、「私にまたキュベレイで闘わせるのか!」「ヴァチカンに下品な女は不要だ」等の台詞には吹き出してしまった。ガンダム、エヴァ、ヤマト2199等の小ネタをあちこちにちりばめているので、探してみるのも一興だろう。

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凡庸な俳優たち
「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」(監督:ベン・スティラー )を観る。
内容は、ベトナム戦争の映画を撮影していたダメ俳優とスタッフが、本物の麻薬ゲリラに捕まってしまい、そこから脱出するという話。スラプスティックコメディであり、一口に言って、どうってことのない映画には違いない。だが、演技のリアリズムに関する考察や、芝居が人々に齎す感動について触れた箇所には、頷けるものがあった。
それにしても、この内容で二時間は長い。せいぜい90分位に収めて欲しかったと思う。


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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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