時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
時間が無い
「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」(監督:湯浅憲明 脚本:高橋二三)という映画があった。幼少期にテレビ放送で観たっきりなので、詳細はよく覚えていない。ただ劇中で、人質となった二人の少年の命を救うために、全世界が宇宙人に降伏するというシーンがあり、そこだけは鮮烈に覚えている。命とはそれほどまでにかけがえの無いものなのだ、というメッセージは幼い私の精神に深く刻み込まれた。
無論、リアリズムから考えれば、到底ありそうに無い話である。現実にこんなことが起これば、容赦なくミサイルなり銃弾なりをぶち込み、殺された人質は「平和のための尊い犠牲になった」などと美辞麗句を込めて語られることだろう。だが言うまでもなく、子供向けの特撮映画のことである。教育上の配慮を抜きには語れない。ただ、ここには子供への教育的意図というだけではなく、生命倫理に対する、製作者の祈りのようなものが込められていると考えたい。
日本赤軍の一連の事件が勃発するのは、映画の公開からずっと後の話である。ダッカ事件に際する「人命は地球よりも重い」という福田赳夫の発言は、それ自体に限って言えば肯定するべきと思われた(勿論こんな感想を抱いたのはずっと長じてからの話である)。吉本隆明はこれを「戦後日本が第二次大戦の殺りく加害・被害体験から学んだ、ほとんど唯一の取柄」と評価した。
いうまでもなく、ここで私が言おうとしているのはISISの人質事件についてである。「テロには屈しない」などという、勇ましいばかりの空文句ばかりが踊るが、無能な為政者の言い訳の域を一歩も出ない。おぞましい「自己責任」論は、今も尚この社会で猖獗を極めている。早い話、政治家が何もしない、対策を講じない、ほったらかしにする、というだけのことなのだ。
タイムリミットまで、もう時間が無い。このまま私達の目の前で、むざむざと人が殺されるのを見たくはない。まさか報道に圧力をかけて、結果を知らせないつもりではあるまいな(特定秘密?)。とにかく人質の命を救え。戦争する準備などしている場合ではない。
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遅ればせながら
これまで延び延びになっていた映評を記す。

まずは「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」(監督・脚本:出渕裕)。
舞台はイスカンダルからの帰路。ガミラスとの停戦後、コスモ・リバースを搭載したヤマトは、新たなる敵対者・ガトランティスからの攻撃に晒される。辛うじて逃亡に成功したヤマトは、未知の惑星に到達する。調査に向かった古代達は、そこでガミラスの敗残兵たちと奇妙な共同生活を行う。ガミラス人は、かの七色星団会戦の生き残り、フォムト・バーガーの一行であった。
最終的に全てはアケーリアスの末裔たる異能力者・ジレル人による、集団幻覚であったと判明する。ジレル人は迫害を恐れ、このような自己防衛策を行っていたのだった。

本作のテーマは、対立・恩讐を乗り越えた、和解と相互理解である。戦争の当事国であり、実際に矛先を交えたヤマトクルーとバーガー達、ガミラスから差別と迫害を受けてきたジレル人達。ストックホルム症候群という陳腐な概念が人口に膾炙しているが、共に生活し、相手の顔が見えるようになれば、そこに連帯感が生まれることは何ら不思議ではない。この輪にガトランティスが加われば完璧であるが、ストーリーの都合上、彼らを悪者のままにせざるを得なかったようだ。まあ、短い上映時間のことで、そこは致し方ない。
やたら漢語を振り回す、このガトランティスのイメージは、匈奴などの騎馬民族の姿が意識されていると思われる。古代中国王朝にとって騎馬民族は野蛮な脅威であったが、ガトランティスにも、蛮族としてのイメージは戯画化して投影されている。

旧ヤマトシリーズは、思い出すと悲しくなるような無残な続編群が存在するが、本作はそれらを丁寧に作り直したような気がする。本来あるべき姿で、外伝を呈示して見せたのだ。そう思うと、実に感慨深い。改めて製作スタッフに感謝を贈りたいと思う。


「楽園追放」(監督:水島精二 脚本:虚淵玄)
近未来社会、人類は高度に管理された電脳社会の住人と、外部のアナログな地上社会の住人とに分断されている。主人公アンジェラは電脳社会の調査官であり、ある日、外部からのハッキングを調査するために地上へと降り立つ。
人格を持ったAIたる「フロンティアセッサー」に出会う。フロンティアセッサーは自らの力で外宇宙へと飛び立つという壮大な夢を持っており、一連のハッキングはその同行者を募るためのものであった。

「マトリックス」的な管理社会と、「オネアミスの翼」的な、宇宙への旅立ちストーリーを組み合わせたような作品だが、虚淵にしては素直で好感の持てる作りとなっていた。主人公はフロンティアセッサーに協力したため、電脳社会という楽園/牢獄から「追放」されるが、むしろ「解放」のイメージがそこには存在する。つまり、地上からの解放と、「楽園」からの解放が重ねあわされるのだ。観終えた後になかなか爽やかな余韻を残す、好作だった。


「ファースト・スクワッド」(監督:芦野芳晴 脚本:ミーシャ・シュプリッツ、アリョーシャ・クリモフ)
少し前の作品だが、「魔法少女隊アルス」や「クロスアンジュ」の芦野監督の作品ということで鑑賞した。元々「アルス」が好きだったので、その軌跡を確かめたく思ったのである。
舞台は大祖国戦争時代のソ連。主人公ナージャは超能力者の特殊部隊で活動する少女であったが、空爆で記憶の一部を失ってしまう。一方、ナチス・ドイツは中世の騎士「ヴォルフ男爵」を死後の世界から呼び寄せ、戦局を優位に進めようとしていた。部隊に復帰したナージャは、戦没して冥界にいる同僚たちと協力し、ナチスの野望を阻もうとする。
ナチスとオカルトを結び付けた、ありきたりなアクション・ストーリー。とはいえ、幾分駆け足気味ではあるものの、なかなか面白い。レニングラード攻防戦、シベリヤ物語、鏡、アンドレイ・ルブリョフ、僕の村は戦場だった等々、ロシア映画をオマージュしたような場面があちこちにあり、実に愉快である。
そう思っていたのだが、この作品、やたらアニメファンからの評判が悪い。どうしたことか、私の感覚がおかしいのかと、再度友人と一緒に視聴した。結論は、「詰め込みすぎだが、それ程悪いものではない」である。
友人「この手の作品を観る人は、歴史の知識を持たない人が多いので、そこで判りにくかったんじゃないか?東部戦線とか、普通知らないから」
私「いや、でも世界史の教科書程度の知識があれば判るんじゃない?」
友人「だから、それが無い人が多いから」
私「…」
ドストエフスキーやレールモントフなどのロシア文学にかぶれて以来、ロシア・ソ連映画を熱心に見てきたクチなので、何の疑問も無く観てしまったのだが、上述の意味であまり一般向けではないらしい。ちなみにDVDでは、登場人物の声は全てロシア語だった。

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平井和正作品の思い出
平井和正が亡くなった。「8マン」は世代的にあまり接点が無いのだが、ウルフガイ、アダルト・ウルフガイ、死霊狩り、幻魔大戦、等々、私達の少年期に大きな足跡を残した人だった。生頼範義の印象的なイラストも忘れがたい。世界を股にかける犬神明の活躍は、少年期の私に鮮烈な感動を与えた。
彼はハードボイルドSFという、独自のジャンルを築き上げたことで知られるが、やはり「幻魔大戦」のインパクトは大きいだろう。とはいえ、無印版の小説「幻魔大戦」は、途中から宗教の話になってしまう。アダルト・ウルフガイも「人狼白書」の頃から作中に天使が登場したり、主人公が「神われと共にあり」とのたまうなど、妙な方向にどんどん突っ走ってしまう。これは当時平井がGLAなる宗教団体に入信していたことが影響しており、教祖のゴースト・ライターなども務めていたという。
「真・幻魔大戦」の収拾のつかなさに辟易し、「もういいや」と離れて以来、彼の作品は手にしていない。後になって、GLAからは距離を置くようになったと聞いたが、その後の作風はどうなったのだろうか。閲覧権を購入するという電子書籍のシステムが嫌いなので、現在も彼の作品からは遠ざかったままとなっている。よって今も、彼の作品は少年期の思い出と共にある。

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幾たびもの「風流夢譚」
「風流夢譚」という戯作小説がある。作者は深沢七郎。内容を説明すると、ある日、主人公が奇妙な夢を見る。その中では、革命…のような騒動が勃発し、天皇一族があっけなく皆殺しにされる。主人公はそこで彼等の辞世の句についてあれこれ考察するうちに、目が覚める、というものである。
わずか数十ページの作品だが、この小説が波紋を広げ、殺人事件にまで発展したのは周知の通りである。シャルリー・エブド事件に際し、私はこの小説のことが思い出されてならなかった。
この手の事件が起こるたびに言ってきたことであるが、仮にムハンマドを天皇と置き換えてみたらどうなのか。「天皇をコキ下ろすのはいいが、ムハンマドを悪く描くことは許されない」では論理的整合性が取れない。安易な第三世界主義に乗っかると、墓穴を掘ることになるだろう。
にもかかわらず、多くの自称左派は、「それとこれとは別だ!」と言い張る始末である。そこでは差別問題に始まり、西欧中心主義を口実とした不毛な言説が垂れ流しにされ、最終的には、スターリン主義文化論と第三世界主義を結合させた、醜悪な混合物に帰結する。「無自覚な差別」という概念は、「自分だけが悟った人間だ」とする傲慢な独善主義を伴い、「自分以外の他人は皆、差別主義者だ」という人間蔑視に転落する。
結局は、「当たり障りの無い表現を目指す」という結論しか残らないのでは、あまりにも貧しくないか。

率直に言うと、今回の件に関し、風刺画家と新聞社を見くびっている人が多すぎると思う。「なぜ彼等があのような作品を発表したのか?それはバカだからだ、差別主義者だからだ」と、短絡的に決め付けて理解したつもりになる。こうした投射型の思考法は、まさに論者の頭の貧しさを示している。「何故、如何に」を問う分析的思考がそこには無い。対象を矮小化して陳腐なストーリーを描き出し、それに向かって罵詈讒謗を投げつけ、自分は何事かを成し遂げたと思い込む。結局は、「闘っている俺は偉いのだ」と言いたいだけなのだ。「他人というものは、自分が考えているほどバカではない」という原則を思い知るべきである。
本件については、いくつかの示唆的な報告を耳にしている。すなわち、宗教と表現を巡る、かの国の文化人の熾烈なたたかいの歴史に関してである。そこには単純なマルバツの図式では括れないような、精神と精神の真摯なせめぎ合いが見受けられた。明確な確証を得たわけではないので、詳細は差し控える。だが、今起こっている事態は、巷間語られているような単純なものではないのではないか、その点についてじっくりと考えてみて欲しい。

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箱の中の羊
毎年干支の話題で恐縮だが、今年は未年である。「羊たちの沈黙」、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」など、羊をタイトルに冠したユニークな小説作品は、まま存在する。
サン・テグジュペリの「星の王子さま」では、羊は箱の中の存在として描かれる。お読み頂ければお分かりの筈だが、主人公が絵を描けないため、苦肉の策として箱の絵を描き、「君の羊、この中にいるよ」と差し出したというものである。これで納得してしまう王子の存在に、幼少時の私は不可解な思いを禁じえなかったものだった。
勿論この主人公は、箱の中に無限のイマジネーションを内包させているわけである。このイマジネーションは直截に対象を描かない事で成立する。だが、作品への評価とは別に、このやり方はかなり危うい要素を含んでいる。同じロジックが、表現規制-特に性表現の規制論者によって活用されているからだ。そこでは、覆い隠し、不可視にし、描かせないことが表現技法としても「正しい」こととなる。論者たちはいう。「性描写においては、隠したほうが、露骨に表現するよりも効果的になる、優れた表現物となる」と。
おためごかしであることは言うを俟たない。嘗て加藤芳郎がこうして表現規制の尻馬に乗ったとき、なんと卑劣な男かと怒りを覚えた。勿論、こんなものは悪質な公式主義以外の何者でもない。どのような意図で、どのような表現を目指していくかは表現者の選択である。極言すれば、加藤達は「隠したほうがエロスを感じる」という、嗜好の問題を公式として定めようとしていたわけである。
美に画一的な公式を定めようとする議論は全て駄目である。そんなものが成立するのなら、作家が自分に適した表現を模索する意味がなくなってしまう。また、「美的」であるかどうかが表現規制を正当化する根拠になるなどいう寝言は、許されてはならない。ろくでなし子の作品が、芸術であるか、プロテストであるかどうかなど、ここでは何の意味も持たない。彼女が自分の表現方法として、それを選択した以上、それは尊重されるべきなのだ。
羊の話からだいぶかけ離れてしまった。だが、表現規制問題が持ち上がるたびに、頭に浮かぶのがこの箱のイメージなのだから致し方ない。箱の外側しか見えないような作品は、うんざりだ。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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