時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
やり切れない
某ノーベル賞作家の小説を読むが、まるで頭に入らない。それでいてこの手の小説は、読み終わった頃には妙に心に残っていたりするものだから、不思議なものだ。

東浩紀が白票を呼びかけて総スカンを食っている。そりゃそうだろう。アカデミック・フールという言葉を久しぶりに思い出した。この男、表現規制問題のときから「あきらめろ、これが世界の趨勢だ」などと舐め切った事をホザいていたが、福一観光地化計画といい、どこまで堕ちるつもりかねえ。
政治活動、特に選挙運動などは、結果が全てである。プロセスが評価されることはまず無いし、評価されたとしても、結果に影響を及ぼすことは無い。「投票率最低?そりゃ残念です。でも私当選しましたから。エヘヘヘ」というわけだ。ひと口に言って、その思想的意義はゼロであるが、土俵に上がらなければどうしようもない。
一方で、そんなもののために、同じ陣営にいる他者を誹謗したり、人間関係に断裂を引き起こすような行為は慎むべきである。都知事選の足の引っ張り合いは最低だった。得票ゲームのために、人間性を犠牲にするべきではない。
政治は愚劣である。だが、愚劣を承知の上で、具体的な参加がなされなければ、狡猾な支配層に全てを奪われてしまう。そこに人間性を賭ける本質的なものは無いことを承知の上で、関わっていくしかない。

正直、こんな窮屈な事を書くのにもうんざりする。実にイヤだ。

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輝けない世代のためにも~再び精神のリレー
およそ、文化活動に携わる人の多くは、自分の作品が後世にどう伝えられるか、ということを考えるものだと思う。私達が去った後にも作品というものは否応なしに残ってしまう。これは宿命的なものである。勿論、公権力の卑劣な手で抹殺される事態は論外である。
私達は、過去と未来の狭間に立ち、そこで足跡を残し、次の世代に繋げようとする。人間というものは、そのような存在であると、素朴に考えられる。

だか、多くの権力者にとってはそうではないらしい。彼等は、自分達だけに儲けが回るシステムを強引に作り、旨い汁を啜り、後世に取り返しのつかない惨禍を残しながら、満足して生涯を終えようとしている。自分が生きている間が安泰ならば、それでいい。死んだ後は関係無い、というわけだ。
比較的良心的な会社経営者の中にもこういう意識が見受けられる。いわんや、政治家においてをや。
私達は、来たるべき世代に責任を負っている。後世に何を残すのか。今一度真剣に考えて欲しい。
・・・未来の視点を獲得せよ。

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過去の手帳より 2014.11.25
この間(かん)見た映画で、レビューを漏らしていたものについて触れる。

「ガールズ・アンド・パンツァー これが本当のアンツィオ戦です!」(監督:水島努. 脚本:鈴木 貴昭)
テレビシリーズで話題になった作品のOVA版を特別上映したもの。音響を確かめたいので、敢えて劇場に赴いた。成程、自宅視聴ではわからないな。これは。
内容はテレビ版で描かれなかった「戦車道大会」の第二試合を作品化したものだが、この手の作品はバカバカしさを楽しむものなので、あまり目くじらを立てても仕方が無い。
「万策尽きた」ためか、一部不自然な止め絵があった。止め絵は上手に使えば絶大な演出効果を発揮するが、失敗すれば只の手抜きである。それを除けば相変わらずの高クオリティで、底抜けに陽気な少女たちの姿は実に楽しい。「カリオストロ」のカーチェイスをオマージュした部分もなかなか愉快だった。

「翠星のガルガンティア~めぐる航路、遥か~」(上)(監督:村田和也 脚本:谷村大四郎)
これもテレビシリーズの延長となるOVAの特別上映で、「未来少年コナン」などの系譜に連なる海洋冒険物。
内容はテレビ版の後日譚で、元軍人の主人公レドが、人々の中に溶け込み、一人の民間人として力強く生きていく姿が描かれる。本作もなかなかよく出来ていて、嵐の場面などは実にスリリングだった。
アニメ版放送中の「寄生獣」にも通じるテーマだが、戦争機械ともいうべき存在が、社会の中で次第に「人間」になっていく有様をえがいた良作である。今回は、ラストにおや、と思う場面が挿入されているので、後編にも期待が持てる。

「サンゲリア」(監督:ルチオ・フルチ)
孤島に大量発生したゾンビを巡るパニック映画。ルチオ・フルチ特有の惨たらしい描写はあるが、ストーリーが一直線で、「地獄の門」などの作品と比べると物足りない。最後の世界中がゾンビだらけになるシーンには、なかなか溜飲の下がる思いだったが。

「ビヨンド」(監督:ルチオ・フルチ)
盲目の女性、禍々しい呪いの家など、「地獄の門」に連なる独特のケレン味が満載の作品。意味不明なものを残していても、ルチオ・フルチはこういうゴチャゴチャした作風のほうが魅力的だ。ラストに「向こう」の世界に置き去りにされてしまうシーンは実に愉快だった。諸星大二郎の作品に描かれる「黄泉の国」「常世」的な世界である。
人類史の多年にわたる蓄積が、原初の恐怖によって激しく揺すぶられ、全て否定される。こうした作品を鑑賞する醍醐味は、まさにそこにある。

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首相が何を言っているかわからない件
安倍晋三の発言が支離滅裂であると話題だ。この男、何か事あるたびに意味不明な言動を振りかざしてきたが、今回も例外ではない。街の声に対し、「意図的な編集だ」と噛み付いた一件などはその最たるもので、こんな人間が私たちの代表として振舞っているのかと思うと慄然とする。
だいぶ前に、山本太郎が街宣の際に「解散・総選挙もあり得る」という発言をしていた。当時可能性としては半々で、一応頭に置きながら準備をしておこう、という雰囲気だった。今日になってみると、やはりガセネタではなかったのだな、と改めて思う。
さて、なぜ総選挙なのか。既に様々な説が提示されているため、私から改めて分析するようなことは何も無い。基本的には意味不明なのだが、強いて理由を探すとすれば、 消費税をはじめ、安倍政権のボロが漸く認識されるようになった → 野党の足並みが揃わない今のうちに選挙で勝っておく → 向こう四年間の権力の座を確保する、 ということだろう。
そうなると、狙いは白紙委任状である。秘密保護法、集団的自衛権等、安倍政権が行ってきた/行いつつある悪行は様々だが、その全てにお墨付きを得、「何をやってもよい」という保証を得たいのである。
下手すれば、次回の選挙は無いかもしれない。今行かないでいつ行くのか?そのくらいの気構えでいかないと、やばい。

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背中で泣いてる唐獅子牡丹~高倉健逝く
高倉健が亡くなった。83歳という高齢であることを考えると、天寿を全うしたと言えるかもしれない。
高倉健は、とにかく「絵になる人」だった。演技力がどうとか言う問題ではない。むしろそれは大根といっていいだろう。だが、とにかく彼の姿は画面で「決まる」のである。こういう人はなかなかいない。
私が観た彼の出演作品は、今思いつく限りでは以下のとおり。
「網走番外地」「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」「緋牡丹博徒」「緋牡丹博徒 花札勝負」「ゴルゴ13」「南極物語」(「刑事物語」などのカメオ出演は除く)
何だ、これしか観ていないのかと思う。基本的に仁侠映画は好きではない。あの「御存知物」の時代劇に通じるドラマツルギーに耐えられなかったためである。弱いものを苛める悪いヤクザ・権力者を、人格者たる一匹狼のヒーローヤクザがやっつけるというのが任侠物の筋書きである。だが、この主人公像は水戸光圀や、徳川吉宗などの体制側の人間にも置き換えは可能であり、反権力的な特権の座を奪われた。ベタベタに情緒に訴えかける音楽も、正直鬱陶しく思われた。やがてこのジャンルが実録物に移行していくのは必然だったのである。
そんなわけで、「健さんこいつを斬ってくれえ」的な心情を私は共有しない(斬って欲しい権力者は現に存在するが)。だが、先に述べたように、画面に映る彼の姿は格が違う。石原裕次郎よりも、それは遥かに鮮烈だった。その意味で、かれは不世出の俳優だったといっていい。
亡くなってみると、称賛する人の中にも、高倉健と菅原文太を混同するコメントが目立つ。作品をまったく観ていないのが丸わかりなので、せめて作品を踏まえた意見を述べて欲しい。故人もさぞかし困惑している筈である。

※後になって、深作版「ジャコ万と鉄」、スコットの「ブラックレイン」を観ていたことを思い出した。人間の記憶など当てにならないものらしい。

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ゴジラは再びやってくる
諸星大二郎に、「ゴジラを見た少年」というマンガ作品がある。
主人公は、頻繁にゴジラの夢を見るという少年。夢の中でゴジラが暴れた箇所を実際に訪れると、そこには決まって崩壊した家屋の跡があった。だが、大人たちは少年の証言を一向に取り上げようとしない。
諸星流の怪奇マンガのスタイルで叙述は始まるが、読み進むにつれ、舞台が東北の被災地であることが明らかになる。少年の夢は、震災の恐怖が生み出した幻想であったことが暗示される。
そんな或る日、亡くなった筈の従兄弟の浩一が少年の前に現れ、ゴジラの持つ象徴的な意味について、語り始める。「緩慢な死の象徴」、「放射能の象徴」、「自然災害の象徴」と、様々な意味を付与されながら、ゴジラ映画は作られてきた・・・このように鋭い分析を見せる浩一の貌は、いつの間にか、初代ゴジラ映画に登場する芹沢博士のそれになっていた。
浩一/芹沢博士と別れた後、気がつかないうちに帰宅した少年は、点けっぱなしのまま放置されたテレビを漠然と見やる。画面では識者と称する大人たちが原発の再稼動にまつわる討論を繰り広げていた。番組を見ながら少年は呟く。
「原発…原発…再稼動…再稼動…放射能…再稼動
そうか!!
ゴジラは これから来るんだ。」

諸星大二郎は、「マッドメン」などの例外はあるものの、ストレートに時事問題をとりあげることがあまり無い人だと思う。だが、本作を一読すると、この人物が優れた社会分析能力を併せ持っていることが窺い知れる。反原発に多少なりとも関わってきた身からすると、「やられたな」という思いだった。うまくは言えないが、作品力とでもいうべきものに、ガツンとやられた。ファンとしての思い入れがあるのかもしれないが、なかなか愉快な思いだった。
ニュースでは「かわうち原発(!)」が再稼動に向けて暴走していることが伝えられる。サンゴ騒動(「辺野古のサンゴ破壊はどうでもいいが、小笠原のサンゴ密猟は国家の存亡に関わる一大事」らしい)で薄まっている気配はあるが、到底誤魔化しきれるものではない。
3.11の際、フランスのブロガーから「日本はゴジラから何も学ばなかった」と指摘され、私はとても恥ずかしい思いをした。忘れてはならない。ゴジラはこれからやって来る。

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銀幕のゲリラ戦
期間が開いてしまったが、先日ポレポレ東中野にて催された、若松孝二特集の話をしよう。結局観たのは「血は太陽よりも赤い」「ある通り魔の告白」「日本暴行暗黒史 異常者の血」のみだった。資金と時間の都合である。致し方ない。またの機会を待とう。若松の特集はそれなりの頻度で行われているし、そのうち発掘されるであろう行方不明作品とともに、観る機会もあるだろう。

・「血は太陽よりも赤い」 これは素晴らしい。助監督の足立正生が大チョンボをやらかしたことで有名な作品で、寺山修司が絶賛したことでも知られている。
主人公は受験を控えた高校生。ある日、父親の組合潰しが原因で恋人との別れを余儀なくされる。その後、家を飛び出した主人公は、フーテン共同体での怠惰な日々を過ごした後、ヤクザに加入しようとする。だが、ヤクザ達が、嘗ての恋人を破滅させた一味と知り、幻滅。組員達を殺害し、逃亡した主人公は、暁の陽光が差し込む中、「俺は太陽になってやる」と叫ぶ。
複数の登場人物の動向が、結末に向かって勢いよく収束していく様子が素晴らしい。かちりと決まった、名作である。

・「ある通り魔の告白」 詩人の福間健二が脚本・主演を勤めた作品。まともに恋愛も出来ず、悶々とした主人公が、強姦と殺人を繰り返していくというもの。今風に言えば、リア充に対する憎しみをひたすらぶつけ続けていくわけである。リア充/非モテを巡るこの確執は、今に始まったわけではなく、この頃から既にテーマ化されている。
「バカにしやがって!」と、主人公が女を襲撃する姿は、若松作品ではお馴染みだろう。見下され、蔑まれ、笑いものにされる主人公が、この世界に対して牙を向くのだ。正義もへちまもあるものか。武器を取れ、憎しみを持て。若松映画のテロルが、ひたすら爆発する。

・「日本暴行暗黒史 異常者の血」 明治時代から現代に至るまで連綿と続く、暴行殺人鬼の血統を描いた作品。足立正生が脚本をものし、天皇制を意識して作られたというが、私の見る限りそこはあまり感じられなかった。むしろ、抑圧され、蔑まれたものの怨念が延々と社会を呪縛する姿として映じた。足立がそこまでを含めて天皇制と重ね合わせているとすれば、それはなかなか意味深であると思うが、そこにこだわる必要もあまり無いかと思う。
若松が評価するように、かなり練りこまれた脚本で、個々の時代のエピソードが有機的にうまく繋がっている。この構成力は見事だと思った。
(尚、個人的には松本零士の「無限海漂流記」を思い出した。あちらは、差別され、抑圧された者の血の系譜を描いたSF作品である。最後に結末を加筆した結果、台無しになった感があるのだが)

足立正生のトークショーでは面白い話が聞けた。「若松は自分の世界を作ることにしか興味がないんだ、あの男はリアリズムなんか、正直どうだっていいんだ」という指摘には、さもありなんという印象を受けた。
例えば、「キャタピラー」では評判の悪い嘘が幾つかある。具体的には、あんな状態の兵士を帰宅させるわけがないということ、いくら武勲を立てたとしても少尉にまで昇進するのは無理があるということ等である。「実録・連合赤軍」でも「関東派」という、実在しないフラク名が登場した。
悪い例を幾つか挙げたが、なりふり構わず自分の世界を作り上げるエネルギーが、若松の魅力でもあった筈である。このある種のふてぶてしさについては、もっと評価されていいだろう。

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思想的変質者は奮起せよ
赤瀬川原平が亡くなった。
私が彼の名を始めて知ったのは、長井勝一の回想録「「ガロ」編集長」だったと思う。そこには「おざ式」と題された、彼の作品の一部が掲載されていた。一口に言うと、つげ義春の「ねじ式」のパロディなのだが、何故か少年期の私にその名は心に残った。千円札裁判なるものがあったことを知ったのは、もっと後のことである。その後、ガロ系(後にアックスに向かう方)の作品に接する機会が多くなり、彼のマンガ作品を目にすることが増えていった。私にとって赤瀬川原平とは、まずマンガ人であり、イラストレーターであった。若松プロが製作した映画「赤軍―PFLP 世界戦争宣言」のポスターも忘れがたい。
一時期、彼が映画評論を務めていたことがある。どんな視点で論じているのか興味があり、評論集を手に取った。だが、そこには尊大な身振りで他者を口汚く罵倒する、見苦しい論者の姿しか見られなかった。それ以来、私の意識は赤瀬川から遠のいていった。後に彼がそうした自分自身を自己批判しているのを読む機会があり、おやと思った。この人の省察力はなかなかのものだな、というのが率直な印象である。こうして私の意識は赤瀬川と和解を遂げた。
「反芸術アンパン」「東京ミキサー計画」などの著作に触れたのは、だいぶ後のことである。これらは讀賣アンデパンダン展の暴走から、ハイレッドセンターの奔放な活動ぶりを回想的に記録したものであり、貴重な資料というばかりではなく、今読んでも極めて刺激的である。千円札裁判を面白おかしく振り返るくだりには、ニヤニヤさせられた。
「櫻画報大全」には、今更ながら笑い転げた。硬質な劇画タッチで、馬と鹿を描くという、莫迦なことをするのはこの人くらいのものである。泰平小僧と馬オジサンという、ユニークなキャラクターが、世相をおちょくり回す姿はこの上なく愉快だった。

カウンターカルチャー(対抗文化)という概念が、打ち捨てられて久しい。「文化はイデオロギーの道具ではない」という正当な概念が、「文化は自分の思想や意見を訴えるものではない」「文化は自分を表現するものではない」というように奇怪な変容を遂げ、当たり障り無く、ウケる創作活動をすることが是とされている。60~70年代の作品を再評価する際も、毒気を抜かれた、お洒落な作品として受け止められる趨勢である。
嘗て赤瀬川達は、当局より「思想的変質者」としてマークされていたという。別に公安の監視対象となることを勧めるつもりは無いが、今日の表現者たちには、ガツンとくるような、自己自身を思い切り叩きつけた作品をもっと創造してほしい。
やはり作品は自分を出して何ぼ、である。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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