時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
いわゆるヘイトスピーチ規制法について
いわゆるヘイトスピーチ規制法に関し、高市早苗が、「国会周辺の大音量の抗議行動も規制の対象とするべきだ」という趣旨の主張をした。
この高市発言は「ヘイトスピーチ規制+騒音デモ規制」という構図をなしている。だが、ここで、「「ヘイトスピーチ規制」のみに法案を絞るべきだ」と切り返すのは極めて危うい。この議論は、「ヘイトスピーチ」の定義に、反戦運動、反原発運動などといった、あらゆる政権批判の運動が含まれてしまう可能性を完全に捨象している。論として、あまりにも無防備である。
「美味しんぼ」騒動に見られるように、私達は「脱被爆は福島差別のヘイトスピーチだ」という罵言を散々受けてきたのではなかったか。同じロジックで、こうした運動が違法とされる可能性は充分存在するのではないか。何故、政府や執行機関(警察)をそこまで信頼できるのか。これまで差別デモに対し然るべき措置を取って来なかった公権力が、法律ひとつ出来ただけで、何故反差別の味方になると信じられるのか、全くもって不可解である。
集団的自衛権問題に見られるように、この国においては、法解釈を百八十度変えてしまうことも珍しくは無くなっている。白を黒と言い換えることを平気でやるのである。ヘイトスピーチ規制が、反戦、反原発、人権擁護といった、民主主義的社会運動「のみ」に適用される可能性は、極めて高い筈である。
私としては、奥平康弘氏のいうように、ヘイトスピーチには法規制よりも「文化の力」で対抗するべきであると考えている。法律というもののもつ重みに対して、私達はもう少し緊張感を持った方がいい。良さげに見える法律が、必ずしも福利を齎すものとは限らないのである。

この主張は私が随分以前から述べてきたものである。別に特別な論ではない。内容的には単純で、少し論理的に考えれば導き出せる結論である。
にもかかわらず、Yという、人気のあるらしい社会運動家は、私を差別主義者と断定し、ありったけの罵詈讒謗を投げつけてきた。
私は身体的要因から、幼少時より散々差別を受けてきた人間である。糾弾権を被差別者から簒奪し、「自分だけが目覚めた人間だ。自分以外は無自覚な差別主義者だ」と居丈高に叫び続けるこの連中を、私は絶対に許さない。私にはこの連中が、差別問題への寄生者としか思えない。「闘っている自分は偉い」と、自らの肥大した自己愛を満たそうとしているとしか思えない。こうした手合いに対しては、絶対に容赦するつもりは無い。

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人魚随想
人魚の起源について、私は詳らかにはしない。有名どころではギリシア神話のセイレーン辺りが挙げられるだろう。ただし、オデュッセウスの一行を悩ませたのは半人半鳥の怪物であり、人魚とされたのは後世の伝承においてであるという。このセイレーンが英語圏ではサイレンとなるのも周知のとおり。船乗りを歌で惑わすというこのイメージは、ライン川のローレライ伝説にも通じている。
古代中国の「山海経」にも人魚らしき代物が登場する。「氐人国は建木の西にあり、その人となり、人面で魚の身、足がない」といった具合で、なるほど、それらしい挿絵が添えられている。
日本においては八百比丘尼の伝承が代表的で、人魚の肉を食した女性が不老不死となり、各地を放浪するというものである。物語の類型としては、仏典の賓頭廬伝説や、さまよえるユダヤ人などに近いだろう。
アンデルセンの人魚姫は声を失った人魚の悲恋の物語だが、既に多くの人が論じているであろうし、長くなりそうなので割愛する。某リトルマーメイドにも何の興味も関心もないのでここでは触れない。
サブカルチャーになると、枚挙に暇がない。池田敏春監督にはATG映画「人魚伝説」が存在する。これは夫を謀殺された海女が、裏で糸を引いていた原子力産業の利権亡者どもを皆殺しにする痛快な話だが、海女=人魚として、海の精霊としてのイメージが被せられている。
高橋留美子の人魚シリーズは、わが国の人魚伝承を下敷きにした連作で、お読みになった方も多いと思う。私が読んだのはかなり昔なのだが、なかなかしっとりした哀しみを湛えた作品になっていたかと記憶する。そうなると、諸星大二郎のマンガにも触れたいのだが、果てしない迂路に入り込みそうなので、ここではやめておく。
さて、折角なので我らが南方熊楠にもご登場いただこう。南方には「人魚の話」という一文があるが、内容は、人魚と性交した話、アカエイと性交した話、マチナ(海獣の一種)と性交した話と、獣姦話が延々と続く。南方のエロ話好きは有名であるが、本稿も例外ではない。混沌とした、カオス的な性世界をひたすら描いた挙句、儒艮と人魚との類似性を挙げ、古代ギリシア人やアラビア人は、儒艮を見て人魚と思ったのだろうと語る。
儒艮といえば、澁澤龍彦の「高丘親王航海記」にも登場し、ユニークで印象深いキャラクターとなっていたかと記憶する…(やれやれ、またしても切りがなくなりそうだ。残念だがこれも割愛するとしよう)。
PCで閲覧すると、このブログでも儒艮が元気に泳いでいるのがおわかりだろう。このように、儒艮/人魚ひとつとっても、これだけ多くの文化的背景が存在するのであるが、この儒艮の生息地が今、野蛮な公権力の手でおびやかされている。何処の事を言っているのかはお分かりだろう。勿論、問題は儒艮だけではない。愚劣な利害、力関係から、人々の生活環境を暴力的に破壊しようとすることが問題なのだ。日本政府よ、もう止せ、こんなことは。

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悪ガキたちの抵抗劇
映画「コッホ先生と僕らの革命」(監督:セバスチャン・グロブラー)を観る。
舞台は19世紀末のドイツ帝国。謹厳居士で、コチコチの権威主義を押し付ける学校に、イギリス帰りのリベラルなコッホ先生が就任する。英語教師として着任したコッホだが、授業の一環としてサッカーを取り入れることを思いつく。初めは未知のスポーツに戸惑う生徒たちだったが、次第に競技に熱中していくにつれて団結心が目覚め、それまでの不和や、イジメが解消されていく。
だが、ことは簡単に収まらない。「サッカーはドイツの伝統をぶち壊す」として、あらゆる策を講じて学校側はこれを全力で潰しにかかる。特に貧困層の生徒を退学処分にするくだりは、お約束とはいえ、ひどいものである。
当然、「首謀者」である、我らがコッホ氏も責任を取って退職となる。だがその当日、イギリスから彼の友人が訪れ、親善試合を申し込む。国からも授業内容を視察にやってくることになり、引っ込みが付かなくなった学校側は、前述の退学、免職処分を取り消し、正式に試合を許可する。
試合が始まり、白熱してくるにつれ、集まった観客はこの未知のスポーツに夢中になってくる。サッカー禁止派だった人々も、全力で自校のチームに声援を送る。この辺り、ワールドカップの熱狂振りを考えれば、不自然なことでも何でもない。試合が終わり、すっかりサッカーの魅力に取り憑かれた学校側は、ようやく授業にサッカーを取り入れることを認めるようになる。

まあ、話自体はありきたりな展開ではあるが、少年たちの成長を描いた映画として、なかなか楽しめる。最後の親善試合は、時代背景もあり、どうしても一種の代理戦争の匂いを感じるが、あまりそこに拘る必要も無い。むしろ、サッカーを禁止しようとする連中に、現代とのアナロジーが見えてしまうことに注目したい。つまり、ダンスを禁止したり、マンガやアニメを取り締まったりしたがる輩共と、同類にしか見えないのだ。現代の日本に住む私達は、この学校の愚劣さを笑えない。
映画自体はほのぼのとした小品であるが、普遍的な批判精神を内包させた、気の利いた良作だった。

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血の忘却
ポレポレで映画「靖国・地霊・天皇」(監督:大浦信行)を観る。「終戦」の日にちなんで、入場無料だったのには驚いた。急遽決まったそうで、なかなかの心意気だ。
映画は右派陣営の弁護士・徳永信一と左派の弁護士・大口昭彦へのインタビューに、金満里の舞踏、さらに様々なイマージュを挟み込む形で描かれている。在特会の桜井の演説シーンには失笑してしまった。
興味深いのが徳永弁護士の発言である。彼は独特のねじれたロジックから現憲法を擁護するのだが、インタビューの中でユニークな揺らぎを見せる。そればかりか、時としてその論理は監督とのニアミスすら発生させる。
立場的には靖国支持の典型的な「右」で、苛立たしい限りだが、被写体としてはなかなか面白い存在ではないかと思う。

印象に残った部分を挙げよう。映画の中で大浦監督は、「靖国の地下には厖大な血の海が横たわっている」という意味の発言をする。そこには大量死がうずもれているのだ。嘗て目取真俊は靖国を「忘却の装置」と喝破したが、この映画でも、靖国の存在がその地下に横たわる血の海の存在を忘却させている、と語られる。
反シオニズムのユダヤ人映画監督・エイアル・シヴァンはイスラエルについて、「記憶することが忘却することのプロセスになっている」と指摘した。つまり、ユダヤ人を記憶することが、パレスチナ人を忘却することに繋がっている、ということである。同様のことが靖国にもいえそうである。「英霊」を記憶することが、地下に眠る夥しい血の海の存在を忘れさせる。
もっといえば、「美しい国」とやらにまつわる記憶が、沖縄を忘れ、広島を忘れ、長崎を忘れ、福島を忘れ、アジア各国に齎した災禍を忘れることに繋がっている。必要なことは、こうした忘却の力学から、これらの記憶を私たちの手に奪還することである。

「9.11-8.15 日本心中」などと比べると、奔放さが少ない。これは「日本心中」が針生一郎といういじくり甲斐のある素材を扱っていたことに起因するのだろう。本作での監督の姿勢はひたすらストレートである。
上映はまだ続くようなので、一度御覧いただきたい。なかなかの力作である。

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巨大ロボットの夢
「パシフィック・リム」(監督:ギレルモ・デル・トロ)を観る。まあ、「エヴァンゲリオン」だ。監督は「エヴァ」を観ていないと言い張っているが、おそらくは嘘である。本作には、「マジンガーZ」から「エヴァ」に至るあらゆるロボット・アニメと、「ゴジラ」や「ウルトラマン」等の特撮怪獣映画の記憶が総動員される。
巨大ロボット物の系譜については、少し本腰を入れて考察してみたいので、詳細は後日に譲る。簡単に言うと、ロボット・アニメには大きく二つの潮流があるということだ。一つには神/悪魔の表象としてのロボットを描くもの、もう一つは、純粋に「兵器」としてロボットを扱った上で、ポリティカル・フィクションを描くもの、である。この辺り、充分に整理できたら、いずれ記事にしようと思う。
「パシリム」の話に戻る。核兵器の扱いがあまりにも杜撰であるなど、突っ込み所が多いのは事実だが、本作は上々の娯楽作品である。文句をつけながら楽しむのも一興だろう。

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あれ?ゴジラは?
ゴジラ(監督:ギャレス・エドワーズ)を観る。正確に言うと、本作はゴジラ対〇〇という、一連の対決シリーズに近い。結論を言ってしまえば、あらゆる意味で物足りなさが目立つ映画である。アクションとしてはそれなりに面白いのだが。

・まず、ゴジラが徹底的に脇役である。スピルバーグの「ジョーズ」を意識して、ゴジラを小出しにしたというが、敵役の怪獣である「ムートー」があれだけ出張ってしまっては、ゴジラへの期待感が薄れてしまう。これは想田和弘監督も指摘するとおり。
・原発や核を取り敢えず出してはいるが、設定上の位置づけがゴチャゴチャしてよくわからない。この辺りが明確にされないまま、ストーリーがどんどん進んでしまい、中途半端な印象を受ける(何故か日本の原発に冷却塔が立っているが、これはまぁ御愛嬌である)。結局は、「核」をテーマ性として位置づける信念もないまま、味付け的な、小道具として使っているせいではないか。この中途半端さはいただけない。
・ベタベタとした家族主義を、やたら強調するのが鼻につく。アメリカ映画のお約束といってしまえばそれまでだが、それを差し引いても押し付けがましい嫌らしさが目立つ。仕舞いにはムートーの夫婦愛まで描かれるのだが、もういい加減にしてくれないか。

映画は社会問題を訴える道具ではないし、核問題にこだわれと言うつもりは毛頭ない。だが、とにかく中途半端で物足りなさの目立つ映画だった。もう少し何とかできた筈なのだが・・・



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手元のメモ録から(2)
ロマン・ロラン「アンネットとシルヴィ(「魅せられたる魂」第一巻)」読了。手元にある「魅せられたる魂」は全十巻の旧版で、本書はその第一分冊に当たる。
前半の異母姉妹の物語はなかなか活き活きと描かれており、読ませるものがある。だが、後半の主人公の結婚話になると実につまらない。人物像がことごとく作り物めいてくるのだ。進歩的な、女性の自立を主張する主人公と、旧態依然たる家制度に縛られる恋人との対決が描かれるのだが、いずれも理念の書割りでしかなく、活きた人間として描かれていない。結果として、主人公の人間像も、下らない屁理屈をこね回す、小うるさいだけの存在になってしまっている。
人物の性格付けを、「こいつはこういう奴なのだ」と作者が説明するくだりは、鬱陶しい限りである。あまりにも浅薄なのだ。
正しいことを描こうとしても、魅力的な作品にはならないということが、よくわかる読書体験だった。

続きを読むべきかどうか、検討中。読むにしても、もう少し先の話になりそうである。

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手元のメモ録から(1)
しばらく期間が開いてしまった。書くべきことはいろいろあるのだが、まずレビュー関係から。

「ジャーロ」(監督:ダリオ・アルジェント)を観る。猟奇殺人鬼を扱った映画で、大御所ならではのエグみのある作風に期待してしまったが…まあ、つまらないということは無いが、傑作というほどではない。面白くないわけではないが、左程でもない。実に平凡な作品だった。期待し過ぎるとがっかりすること請け合いなので、要注意である。

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あまりにも不毛な話題
やれスーツがけしからんだの、ブルドーザーがけしからんだのといった、愚にもつかない議論があほらしい。
これらを活用したデモの是非を言いたいのではない。立論の方法が洒落臭いのだ。
如何に屁理屈をこね回そうとも、スーツやブルドーザーにイデオロギー的属性など存在しないし、し得るべくもない。それが何らかの思想的意味として機能するのは、何らかの関係性の中に置かれた時である。それをあたかも確定的な、普遍的属性であるかのように言い募る。このように、関係性をモノの属性のように錯視することを物象化的錯認という。
具体的な話をしよう。例えば前記のデモは、左翼的なロジックに仮託していえば、「権力の武器を人民の手に!」ということになる筈である。これは関係性を組み替えることにより、物の持つ意味を変えていく、転化していくということである。権力側の属性が備わっていると考えられていたものが、関係性の変換により、逆の意味を持つものとして機能していくわけである。件の糾弾者には、こうした発想は無いのだろうか。
私自身はこの種の大仰な物言いは好きではないし、下らん寝言で騒ぐこと自体がばかばかしいと思っている。だが、「○○は●●に決まっているのだ!」といった、硬直した物言いで他者を恫喝する輩には軽蔑しか感じない。百害あって一利無しである。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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