時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
或る死
兄の葬儀に出席する。兄と言っても、半血の兄弟であるゆえ、付き合いは左程多くは無い。だが、突然の訃報には正直、驚いた。
死は不可避の事象だが、時としてそれは唐突に、理不尽な形で現れる。故人はまだ若かった筈であると信じていたが、60代と、思っていた以上に年齢を重ねていた。無論、それでも死ぬには早すぎる年齢には違いない。だが、いつの間にか自分自身が遠くまで来てしまったという事実に、改めて愕然とする。油断をすれば、一足飛びに月日は流れてしまうものだ。暫しの休暇に身を置くためには、私達の生は、あまりにも短い。振り返れば、悔恨の念しか沸き起こらないというのは、あまりにも悲しいことだ。
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美とは痙攣的なものだろう。さもなくば存在しないだろう。
作品は政治的である必要は無い。だが、政治的であることを恐れる必要も無い。
そして、政治的であろうと無かろうと、その価値は「作品」としてのみ評価される。これは当たり前のことである。
だが、この国においてはそうではないらしい。物言わぬ美。それのみが評価される。換言すれば、毒にも薬にもならないが故に、評価されるのである。この度の東京都美術館の撤去騒動は、それを如実に示して見せた。
この国ではドラクロワもピカソも生まれるべくも無い。エドワール・マネにおいてさえ、共和主義へのシンパシーは少なからず見受けられるものである。バラ色の進歩史観を真っ向から否定する太陽の塔は、万博のシンボルとして消費され、徹底的に骨抜きにされた。こうして「文化は政治的であってはならない」という、奇怪な公式が出来上がったのだ。
「吾は人間なれば、人間的な何事も吾に無縁ならずと思う」これはテレンチウスのセリフだが、これを創作家に当てはめてみてもいい。アンドレ・ブルトンのいう「通底器」のイマージュ。作家にとって、題材とは森羅万象、全てである。「あれはいいが、これはダメ」などという公式など、ありうるべくも無い。
文化は、蒙昧な権力者の思惑により、ますます無菌化されようとしている。このまま行けば、果てしなく無機化された、人畜無害な作品が次々と再生産されていくだろう。それは文化の死滅である。
私達は、ここで排除されたもの、性を、政治を、暴力を、作品のうちに取り戻そうではないか。そこにおける、思いもかけない素晴らしい出会いを、解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の美しい出会いを取り戻そうではないか。そんな創造行為こそが、待たれている筈である。

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急げ!
豪雪で交通網がズタズタの状態にある。特に山梨県、および隣接する奥多摩地方が危機的状況であると伝えられる。
にも拘らず、テレビ局はオリンピックにうつつをぬかし、一切これらの被害を報告することは無い。日本政府が何か対策を講じたという話も聞かない。行政とメディアによる棄民政策が続いている。
「入院患者の食材が届かない」等、深刻な訴えがSNSを通じて伝えられている。現地の危機は現在も進行中である。

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都知事選に思う
東京都民は新自由主義と、原子力依存政策を選択した。個々人の思惑がどうということではない。選挙結果では、外形標準原理が適用される。但し、名護市長選を除く、ということらしいのだが。
自民党はこれによって格好のアリバイを得た。安倍政権の政策にお墨付きを得たわけである。勝ったものが正しい、この日本では、力の論理こそが政治的正義となる。
彼らの行為は「有権者の選択」として、正当化される。共謀罪、国家戦略特区(解雇特区)、集団的自衛権等々、あらゆる非民主的、非平和主義的な政策は、「あなた方の望んだこと」と見做される。為政者は白紙委任状を手にしたのだ。だが、本当にそれでいいのか?
「仕方がない」とはよく耳にする言葉である。私達は何十年、何百年とそう言ってきた。そして、その結果がこの体たらくである。
難しいことは言わない。だが、嫌なときは嫌だと言っていい筈だ。無論、個々の日常生活では黙って忍従することも往々にしてあるだろう。しかし、せめて政治的な抑圧に対しては敏感になるべきだ。嫌なときは嫌だと言おう。

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雪語り
ひどい雪だった。などと書くと、雪国の人達に笑われそうな気がする。
ものは試しと、用もないのにわざわざコンビニまで出向いてみた。結論を言うと、下らないことをするものではない。
ここで思い出すのだが、若松孝二の映画「情事の履歴書」ではヒロインが雪の中を素っ裸で駆け抜けていくシーンがあった。よくもまあ、無茶をやったものである。尚、映画ではこのヒロインは最終的に、自らを苦しめてきた男性社会に復讐を果たすこととなる。若松は創作の上では、政治的に生真面目な人であったと思う。官能への陶酔や、殺戮と淫蕩のブラックユーモアとは、若松は異なる位置にいた。これはよい悪いではなく、あくまでも資質の問題である。
真っ白な雪玉で始まり、真っ黒な毒の丸薬で終わるのがジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」である。賛否分かれる劇場版は未見だが、一切の規範から逸脱し、野放図に暴れ、はしゃぎ回る少年少女の姿は、まさに現代における、神々の饗宴であった。
国境の長いトンネルを抜ける話については既に述べたのでここでは取り上げない。さて、一たびロシア文学・映画に目を転じてみると、雪について語ることすら馬鹿馬鹿しくなる。もはや一々取り上げていてはきりがないだろう。
ここで、エレンブルグに「雪どけ」という作品がある。こちらは私もまだ読む機会を得ていないのであるが、これがスターリン時代の抑圧から、一定の解放が見られた時期を象徴する言葉となっているのは周知のとおり。その後、ソ連の文化政策は混迷を深めて行くのだが、党や国家の論理で文化が振り回されるのは嘆かわしい。これは人間を振り回すということと、同義だからである。さて、この「党や国家の論理」を、「資本や道徳の論理」と置き換えると、どこかで見たような構図となる。私達の社会に、「雪どけ」は訪れるのだろうか。

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倒錯の縮図
佐村河内守という人物のことを初めて知った。作品も私は知らない。よって、彼のものとされていた一連の作品について語るつもりはない。正直、別人騒動についてもあまり関心が無かった。だが、次第に看過できない要素がそこに見受けられるようになった。何かが歪んでいる。
今回の事実が公になった途端、評者、鑑賞者達は悉く手の平を返した。対象となる楽曲が変わったわけではない。だが、同じ作品であるにもかかわらず、一夜にしてそれは唾棄すべき代物となった。一体何が起こったのか?
「好きな曲なんだけど、ミソが付いちゃって、素直に聴けなくなった」という程度であれば、理解する。人は対象を何らかの意味として理解するものだ。それを取り巻く意味が変われば、受ける印象にも影響は与えうる。これは認識論の初歩である。だが、現在溢れている怨嗟の奔流は、そうした性質のものではない。
結論を言おう。上述の鑑賞者達にとって、音楽などはどうでもよかった。少なくとも、作品自体は二の次だった。ただ、聾者が作曲したという物語が重要だったのだ。優れた音楽を享受していたのではない。あくまでも「障害者が作曲した音楽」を貪っていたのである。彼らは「障害者でもこんなに頑張っている」という、傲慢な感動を消費していたのである。
よって、障害者が作った作品でなければ、そこには何の価値もないことになる。作品自体への関心が無いからだ。裏切られただの、詐欺だのといった罵言はそこから発生する。ここには障害という事実を「感動的な娯楽」として享受しようとする、健常者達の浅ましい姿が色濃く浮き彫りになっている。
一体、病んでいるのはどちらなのか。今一度問いかけたい。

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予言者になんか、なりたくなかった。
「図書館戦争 革命のつばさ」(監督:浜名孝行 脚本:古怒田健志)を観る。テレビ版の総集編かと放置していたのだが、実際はテレビ版の続編だった。
メディア良化法の制定により、表現活動の規制・弾圧を押し進める「良化隊」と、これに対抗する「図書館隊」の武力衝突が続く世界。ある作家が執筆権を剥奪されそうになり、主人公達図書館隊がこれを庇護することとなる。法廷闘争の結果、作家は敗訴、海外への亡命を決意する。だが、身柄拘束を画策する良化隊の襲撃により、死に物狂いの攻防が展開される。

舞台設定上の荒唐無稽さはひとまず措く。むしろ本作は、児ポ法、青少年条例など、表現規制の一連の流れを知っている人にとって極めて生々しいテーマとして受け止められてきた。この数年間、事あるたびに本作の名が挙げられていたのはこうした事情による。原作者は「私は予言者になりたくて図書館戦争を書いたのではない」と、規制の動向を嘆いていた。先刻のNHK会長の「政府が右ということを左というわけにはいかない」発言といい、情けない時代になったものだ。
「検閲はうまくくぐり抜ければいいものだと思っていたが、決してそうでは無かった」という一言は、表現活動に携わるものは肝に銘じたほうがいい。弾圧は、結局は全員の身に降りかかってくるのだ。「よい検閲」など存在する道理は無く、妥協に妥協を重ねた結果、何も言えない、何も書けない状況に辿り付く事は理の当然である。そんな社会で生きる人生は、果たして「生」と呼ぶに値するのだろうか。


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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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