時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
封殺されるのは社会そのものである
「黒子のバスケ」がTSUTAYAから撤去された事件については既に御存知の方も多いと思う。現在、DVDの宅配レンタルも停止となっており、TSUTAYAにはがっかりさせられた。これに対し、ジュンク堂などの大手書店の対応は申し分ないものだった。「本は表現作品であり、書店は読者に届けるために預かっている立場。軽々には撤去できない」という回答には付け加えるところが無い。
TSUTAYAを晒し者にするのはこの辺で控えるが、実はこの問題、一般に認識されている以上にかなり深刻なのではないかと思う。つまり、作品を安易に撤去、封印することが当たり前のように行われる、そうした社会的雰囲気が出来上がっているのではないかということだ。「たかが漫画」ということなかれ。もし仮に「はだしのゲン」が脅迫によって書店から撤去され、DVDも貸出停止になったとしたらどう思う。あり得ない話ではない。閉架どころか、流通しなくなるのである。そう考えると、この問題が決して他人事ではないことが、理解される筈だ。

「風流夢譚」、「政治少年死す」等々、封印作品は数多存在する。もとより私は封印などナンセンスという立場だが、そこに至るハードルが、昨今恐ろしく下がっているのではないかと思える。「何か言われた、面倒だから店頭から撤去します」では、文化の一端を担うものとしての資格を疑われる。営利追求からは、文化の発展は望むべくも無い。
そもそも、何かを隠してしまうこと、封殺してしまうことへの怖さに対して、この社会はあまりにも鈍感になっていないだろうか。勿論、センシティブな個人情報などは除いての話である。封印・抹殺という出来事への生理的な嫌悪感だけは、社会として失ってほしくない。この点は、他の様々な事柄にもいえそうである。
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治安維持法のスケッチ~二度目は茶番として
「世界史に重要な人物や出来事は二度現れる、とヘーゲルはどこかで述べていた。但し、彼は付け加えるのを忘れたのだ。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と」
K.マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」

昨今の情勢を受け、治安維持法について色々考える機会があった。過去に紹介した「治安維持法小史」(奥平康弘著)を手掛かりに、以下、大まかにまとめておこうと思う。同書の要約がほとんどだが、機会があればこの本を手に取っていただきたい。私などの大雑把なまとめを読むよりも、遥かに有益なはずである。

わが国で治安維持法が成立したのは1925年のことである。このことは小学生でも知っている話である。国体の変革又は私有財産を否認することを目的とした結社の禁止、加入したものの処罰を目的としたのがこの法律であった。
「国体」という概念はそもそも主権の所在を示すものであるが、ここにおいてはより広範で、曖昧なものとして用いられている。明確性の原理に反し、およそ法概念にはなじまない性質のものであるが、立法者はこれを「朝憲紊乱」に比べれば「明確な概念」であると強弁し、制限的・限定的に用いられるものであるとした。
そして何よりも、治安立法の成立そのものに反対する勢力が、当時きわめて脆弱であったことは記憶されるべきである。

1928年の再建日本共産党に対する3.15一斉検挙においては、1600名もの検挙者が現れた。しかし、現実に党籍を有するものは極めて少なく、三分の二がまもなく釈放されるに至った。杜撰な見込み捜査だったのである。しかし当局は、検挙されたもののうち、党員でないものは全てシンパだったと強弁したのだった。
当然のことながら報道は、悪意と中傷に満ちたものだった。身近に悪辣極まりない犯罪分子が野放しになっているという、漠然とした不安感が醸成され、特高警察はより一層強化された。この雰囲気は昨今のマスメディアの頽廃振りを目にした方には、およそおわかりかと思う。

こうした背景のもと、1928年、緊急勅令による治安維持法の改悪が、強引に行われた。ここでは国体変革の目的を持つものへの厳罰化(死刑導入)、「結社の目的遂行のためにする行為」の犯罪化がなされた。後者は警察権力に広範囲な裁量権を認めたものであり、具体的にいうと、日本共産党と何らかの繋がりを持つ(と当局が決めた)者の行為を処罰できるようにしたものである。つまり、何か事を起こすたびに、それは「結社の目的遂行のためにする行為」であると言いがかりをつけ、逮捕できるわけである。
現実には、既に日本共産党は壊滅状態にあった。だが、この目的遂行罪は現実の共産党の脅威を必要としなかった。あくまでも「究極的に」結社の目的遂行に資する行為であると言い張れば、適用が可能だったのである。
1930年代後半、治安維持法の適用範囲はさらに拡大された。逐一事件を記していてはきりが無いが、合法的な社会学の研究団体、単なる理論研究の団体、民主主義を擁護する団体もまた、共産党の「外郭団体」として検挙の対象となった。出版物は全て当局の検閲のもとに出版され、合法になされていたにもかかわらず、法解釈の変更により、違法とされたのである。こうした強引な遡及処罰はその後も続いていくこととなる。
弾圧は宗教団体にも適用された。大本教に対する弾圧は、「国体変革」を口実としてなされ、もはや対象は共産党の活動には限らないということがここで公然と示された。この弾圧劇には、大本教が右翼団体的な性格を持ち、無視できない勢力となっていたことが関わっているといわれる。つまり、共産主義に限らず、政敵を潰すために治安維持法は格好の道具となったというわけである。こうした裏事情はともかく、宗教団体が治安維持法の対象となったことは重要な転機である。
1941年の治安維持法改悪では、更なる厳罰化、外郭団体への適用拡大(もはや何でも禁止)、「国体変革」の処罰対象が結社のみならず、個人の活動に至るまで拡大された。しかも、ここでも目的遂行罪が規定されている。もはや共産党とは無関係な個人でも、堂々と弾圧できるようになったわけである。
さらに新法では、これまでの宗教弾圧の結果を受け、「国体を否定」する集団をも処罰の対象とした。これは具体的な「変革」を目的としなくとも、「否定」という観念的な精神活動がそこで行われているだけで弾圧の対象となることを意味する。「転向」の概念が示すように、治安維持法は精神活動の弾圧と、切っても切れない関係にあった。本改悪法は、それを鮮明に打ち出したといえる。
「転向」とは3.15弾圧あたりから定着した概念であり、革命思想の放棄である。これに対しては刑の猶予などの恩典を与えることが出来た。改悛の情ありというわけである。だが、何を以って思想の放棄となすのかが問題となる。或る行為をしないというだけにとどまっている限りは、まだわかり易い。事実、当初の転向基準では、そのようなものでも認められた。だが、当局は時代を追うごとに思想弾圧に躍起となってゆく。やがて「共産主義を放棄した」ですら転向とは認められなくなり、最終的には「日本精神を体得して実践躬行の域に到達せるもの」という、まったくわけのわからない概念にまで昇華するに至った。
さらに、41年治安維持法には予防拘禁という制度が導入される。これは刑期を終えた受刑者が再犯の惧れありと見做された場合、さらに拘留を継続できるというものである。また、既に釈放され、社会に復帰した者もまた、この制度を根拠に再拘留が可能となった。再犯の惧れというのは、つまり転向が不充分である、ということである。特定の精神活動を犯罪と見做し、これを国家が作り変えようとする(もはや妄想めいているが)ことが是とされた。まさにそれが治安維持法下の社会であった。
このように立法と運用が暴走を続け、戦中期には企画院事件や、横浜事件が勃発する。共に強引な横車を押した冤罪事件で、調べてもよくわからない内容だが、政治的な権力抗争が背景にあったとも言われる。少なくとも治安維持法が、権力抗争の道具としても非常に便利なものであったことは確かである。
敗戦後も、治安維持法は存続した。三木清が獄死したのはこの時期である。公権力はこの法律の存在に何ら疑問を持つことは無く、思想弾圧を当然のものとしたのである。治安維持法が廃止されたのは10/4に占領軍の覚書が出された後の15日のことであった。

およそ、公権力に携わるものにとって、体制批判的な言動は目障りなものである。よって彼らにとっては、これをどしどし取り締まる法律があることが望ましい。こうした流れから治安立法が今日も企てられることとなる。治安維持法は、私たちにとって決して過去の話ではない。
これまで見てきたように、私たちの社会には取り返しのつかないような重大な前科がある。同じことを繰り返せば、後世の人間から完全に笑いものになることは間違いない。

一度目は悲劇として、二度目は茶番として・・・

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雑想
何かしら、一日中気怠い感覚が抜けない。
あまり頭も回らないので、さしあたり、この間書きそびれたことをいくつか記す。

先日紹介したドキュメンタリー映画「標的の村」が、山形国際ドキュメンタリー映画際で市民賞と日本映画監督協会賞を獲得したという。ドキュメンタリーの登竜門といわれる山形だ。賞の権威に縋ろうという気はさらさら無いが、まずは嬉しいニュースである。

友人と「劇場版 とある魔術の禁書目録 エンデュミオンの奇蹟」(監督:錦織博 脚本:吉野弘幸)を観る。明らかにマクロスを意識したストーリー。事実、脚本はマクロスFを執筆している人だが、同じことを今更ここでやる必要も無いだろう。
舞台は立川市をモデルにした「学園都市」。SFでお馴染みの「軌道エレベーター」をめぐる陰謀物のストーリーだが、色々詰め込みすぎて中途半端な凡作になった典型。登場人物もオールキャストでなく、もう少し絞り込んだほうがいい。作りようによってはもっとよい物になったかもしれないが、残念な結果に終わっている。

上橋菜穂子「闇の守り人」を読む。「精霊の守り人」の続編。「精霊」はアニメ作品にもなったので、今更紹介するまでも無いだろう。チャグム少年を守り育てる、女用心棒・バルサの力強い姿に感銘を受けた人も多い筈だ。
本作はバルサの里帰りの話である。久しぶりに帰郷したバルサは、育ての親が裏切り者として貶められ、そこに権力をめぐる醜悪な陰謀劇が渦巻いていることを知る。そして自らも「反逆者」として、謀殺の危機に陥ることとなる・・・ファンタジーの中に、人間の業のようなものを描き出した良作。
この間、軽い小説ばかり数十冊読み飛ばしてきた(それはそれで魅力的なのだが)。本作もすらすら読める性質のものであるが、なかなか骨のある作品で、強く心に残るものとなっている。

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オリンピックなんか、やめてしまえ
オリンピックに対する抵抗感は、少年期に安部公房の随筆や対談を読んで以来だろうか。確か彼は、「擬似集団化と異端への排除」というグロテスクな構図を批判していたと思う。
山本太郎がオリンピック成功決議案に反対した唯一の議員となったとき、このグロテスクな構図が、まさに国会内で実現したわけである。果てしない同質性を求める圧力。メキシコ・オリンピックにおいては反対派の学生達が殺害されたが、この殺伐とした雰囲気は他人事ではない。
現在、オリンピックは国家間の代理戦争であり、資本による簒奪の場所である。寺山修司の言葉を借りれば、「クーベルタンは「国家の尊厳」に殺されてしまった」わけである。よって、オリンピックといえば、自国のメダル獲得数と、バラ色のユートピアとしての「経済効果」とやらのみが話題に上る。長野オリンピックの反省はどこかへ消えてしまったのだろう。
文化面からいうと、オリンピックとはリーフェンシュタールの映画に象徴されるように、「純正芸術」である。換言すれば、それは建前の文化であり、官製の美学である。「希臘人は外面を信じた」。環境浄化政策が採られるのは必然の結果だった。
浄化とは排除や封殺と同義である。十九世紀のナポレオン三世によるパリ大改造以来、今日に至るまでそれは変わらない。以前に述べたヒゲオヤジのエピソードは典型的な例だが、「限界芸術」(鶴見俊輔)的なものは影を潜め、観光客用の「ジャパン文化」が幅を利かせるようになるだろう。
華々しい雰囲気作りの影に仕組まれているものは何なのか見据えよう。踊らされるな。踊るなら自分のダンスを踊れ。

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断崖
昨日の報告。人気のない官庁街での脱原発デモ。こうしたデモは昔から時折あるが、デモをやるなら人通りの多いところで行うのが筋だろう。せめて銀座を歩くコースを企画して欲しかった。まあ、全国紙に載っただけのアピール効果はあったといえるが。
この点、山本太郎の全国キャラバンはよい企画だったと思う。人のいるところに自ら出向いていく。色々と考えさせられることは多い。
で、この特定秘密保護法。まだまだ知名度が低いと思うが、まずくないか。権力側の情報操作の成果といえるが、「気付かれないうちに変えてしまおう」という、某ナチス閣下の思惑通りというのはちょっと情けない。
何度もいうが、権力の透明性のない社会は、民主主義社会というに値しない。そして、黙って言うことを聞いていても、よい社会は生まれない。これも、また事実なのである。

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大地の歌
午後から用事があったため、朝一の回で映画「標的の村」(監督:三上智恵)を観る。
序盤は今村昌平の「神々の深き欲望」を思わせる家族生活の風景が描かれる。神話的ともいうべき世界。だが、ここにも基地問題が密接な出来事であることが明らかにされる。米軍基地再編、オスプレイ配備。そして抗議行動に対するスラップ訴訟といった具合に。
そして問題の米軍基地抗議に参加した男性の発言から、「ベトナム村」の記憶が辿られる。ベトナム村といっても殆どの人には馴染みがないだろう。ベトナム戦争の頃、米軍は沖縄で対ゲリラ戦の軍事訓練を行うことを決定した。そのため、高江市民を仮想のゲリラ部隊として徴用し、敵役として訓練に協力させたのである。返還前の沖縄は、今日にもまして「何でもあり」の状態だったことが窺われる。
その後、抗議に参加する地元の人々の思いが切々と語られ、また、ニュースを聞いた沖縄県民が次々と集まってくる様子が描かれる。親から子、地域から地域へと闘いが繋げられる様子に、沖縄闘争の層の厚みを見る思いがした。
座り込みによる抵抗と、排除の様子は私たちが動画配信で何度も目にした光景である。暴力的な排除が強行される中、安里屋ユンタが歌われる場面には目頭が熱くなった。
情勢の見通しは明るくない。本作で「私たちは座り込みによってB52を追い出した」との発言がなされていたが、今日の時代は、ベトナム戦争時よりもさらに悪化してしまっているのかもしれない。リベラル勢力はほぼ全滅し、見てくればかり勇ましいタカ派的な言説が幅を利かせる昨今である。

「ドキュメンタリーは作家性の枯渇である」とはアラン・バディウの世迷言であるが、作家性のないドキュメンタリーが創造性の枯渇を意味することは事実だ。漠然と撮られただけの、垂れ流しドキュメンタリーがいかに多いことか。
まず、ドキュメンタリーを和訳すれば記録映画ということになる。ならば、作品としてそれを提示する場合、「自分はどう思うのか」が製作者に対して一層問われることとなる筈だ。「創」の記事で三上監督は「両論併記は公平性の成りすましである」、と指摘した。正しい。当たり障りのない「中立性」など犬にでも食わせてしまえ。



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靄の中の世界
深夜残業が続いたり、体調を崩したりで暫くブログを休んでいた。病院は金と時間を無駄にさせるだけで、碌に診断もしないので話にならない。二度と行くもんか。何だこのバカ高い初診料は。ふざけんな。

安倍とか言う人物によれば、「水俣病/水銀による被害は克服された」らしい。既視感のある文言だと思ったら、「原発事故は収束した」という世迷言とそっくりだった。この国の宰相は、自らの頭のおかしさを表明せずにはいられないようだ(ならば拉致問題は?ああ、あれは人気取りに使えるから「克服されない」のか)。
「無いことにしよう、終わったことにしよう」という、この精神性にも見覚えがある。都合の悪い事は隠してしまえばいい、それで高支持率キープ、万事よし、すべてよし。ああ、秘密保全法だ。全て繋がっているわけだ。今、既に行われている事を、法的に強制、拘束力を持たせようということだろう。権力者達にとっては、「我々が終わったといっているんだから、国民もそれに納得するのは当然の義務だ。疑問を持つなど、狂っている」という事なのだろう。
禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、 パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨と さまざまの穢(けがれ)とに満つ。
すべてよし・・・


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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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