時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
旅路の終わり
だいぶ日が経ってしまい、記憶も薄れてきたので、「宇宙戦艦ヤマト2199第七章 そして艦は行く」の感想を記す。尚、本章のサブタイトルはフェリーニの映画から採られたものであるが、無論直接的な関係は無い。

前章ラストにおけるデスラー砲の直撃をかろうじて免れたヤマト。その威力は惑星を一瞬にして破壊するものだった。砲を放ったのはガミラス星の衛星軌道上にある人工都市・第二バレラスであり、イスカンダルに向かうためにはこれを避けて通る事は出来ない。敵の懐に入り込む以外、攻撃を避ける方法はない。そう判断した沖田艦長の指揮の下、ヤマトはガミラス星に向かう。
ガミラスの首都上空を突き進むヤマトは波動防壁を全開にし、敵を蹴散らしながらデスラー総統府に突入。戦況が不利と見たデスラーはユリーシャ(実は森雪)と僅かな側近を引き連れ、衛星軌道上の人工都市に脱出する。政府高官達は、全て置き去りにされたのだった。
脱出したデスラーは第二バレラスの中心部を除く、大部分を切り離し、ガミラス本星に落下させる。巨大な構造物の落下により、ヤマトを首都もろとも破壊するためである。ヤマトは総統府から人が避難したのを見計らい、建物に船体を突っ込んだまま角度を修正。落下する第二バレラスに波動砲を放つ。いうまでも無く、旧作のバラン星における人工太陽のエピソードを組み込んだわけである。
更にデスラーはデスラー砲を放とうとするが、森雪がガミラスの護衛兵士と共に制御室に侵入。エネルギーを暴走させ、艦は崩壊する。護衛兵士が雪を庇い、身代わりとなって死んでいく姿が哀しい。

ガミラスとの講和を果たしたヤマトはイスカンダルに到達。だが、ユリーシャの報告を受けたスターシャは、コスモ・リバースを渡す事をためらう。ヤマトが波動砲という大量破壊兵器を作ってしまったこと、そして、自業自得とはいえ、思いを寄せていたデスラーを死に至らしめた事が引っ掛かっていたのである。
ユリーシャの助言、ガミラス新政府の推薦を受けたスターシャは、長い逡巡の後、装置を渡す事を決断。その際、波動胞を最初に開発したのはイスカンダルであり、その結果、多くの惑星を破滅に陥れ、自国も滅亡寸前に至った事を打ち明ける。
コスモ・リバースを製作するには基盤となる大掛かりな装置と、意思のエネルギーが必要となる。ヤマトは波動胞を封印し、艦自体をコスモ・リバースに改造する事になった。このあたりの細かい設定は忘れたが、ヤマトがイスカンダルに出向く必然性は、説明されていた。
そんな中、スターシャは古代進を連れ出し、墓地に案内する。イスカンダル人は死に絶え、今やスターシャとユリーシャを残すのみとなっていた。果てしなく広がる墓標群。だが、スターシャが案内したそこには、兄である古代守の名があった。守はガミラスの捕虜となった後、遭難。イスカンダルで保護するが、ヤマトの到着を待たず、命を落としたのだった。

スターシャ姉妹、メルダ・ディッツと別れを告げ、いよいよ地球への帰路に着くヤマトは、途中、遭難船を発見する。乗っていたのはガミラスの最高幹部の一人、ミーゼラ・セレステラであった。異民族である彼女には、デスラー死後、ガミラスにとどまる理由は無かったのである。
その後亜空間ゲートを航行中、ヤマトはガミラスのロボット兵士の侵入を許す。生きていたデスラーの部隊が最後の襲撃を決行したのである。白兵戦の中、セレステラは感極まってデスラーに駆け寄ろうとする。だが、突然の事に驚いたデスラーは彼女を誤射してしまう。とどめを刺そうとする側近兵士から容赦なく銃撃を浴びせられ、セレステラは死亡。彼女を庇おうとした森雪もまた、重傷を負う。真田の秘策により、ロボット兵士の動きを止められたデスラーは自艦に退避。波動砲もショックカノンも使えないヤマトにデスラー砲を放とうとする。だが、三式弾の砲撃を受け、自艦も満身創痍となる。デスラーはそれでも強引に砲を放つが、エネルギーが制御できず自滅する。

ヤマト艦内では、軍人の幽霊が出るという噂が立つ。或る日、技術班の新見がそれを目撃、正体が古代守であることを知る。コスモ・リバースに宿っていた意思とは、守の魂だった。
デスラーの襲撃により、生命の危機に陥った雪は自動航法室の生命維持装置に安置される。取り敢えず地球まで命をもたせ、大きな施設で本格的な治療に移行する予定だった。だが、努力も空しく、彼女は唐突に死を迎えてしまう。
わざとらしく元気に振る舞い、加藤と真琴の結婚式を盛り上げる古代進。そんな弟の痛々しい姿を見た守は、「俺がお前にしてやれるのはこれくらいだ」とコスモ・リバースをフル稼働させ、装置のエネルギーを消費しつくしてしまう。これでは地球に戻っても装置が動かない、と茫然とする真田。その頃、自動航法室では、森雪が息を吹き返していた。守からのせめてもの手向けだった。
一連の出来事に気付く事も無く、艦橋ではいよいよ間近に迫った地球の姿に誰もが釘付けになっていた。艦長室では沖田が病身をベッドに横たえている。旧作でも有名な、あのシーンである。写真を手に涙ぐむ沖田。やがて力を失い、だらりと垂れ下がった腕から写真が落ちる。途端、コスモ・リバースが再起動。沖田の魂がエネルギーとして宿ったのである。
再び艦橋で地球を眺める乗組員達。ヤマトが地球に消えて行き、青い地球が甦る。コーラス「明日への希望」をバックに劇は幕を閉じる。


本章では全体として、松本零士、とりわけ「キャプテン・ハーロック」へのオマージュが見られる。ガミラス星における戦闘はアルカディア号のラム戦法(体当たり)であるし、コスモ・リバースの構造はアルカディア号の中央大コンピューターを思わせる。これは松本版で「古代守=キャプテン・ハーロック」という設定があったことへの回答だろう。
コスモ・リバースの仕組がオカルトめいているという批判があるが、これは致し方ない。こんなことに絡んでいたらハードSF自体が成り立たないものだ。むしろ、よくも辻褄を合わせてきたものだと感心する。

旧作と異なり、ガミラス星を滅ぼすことはしないので、「もう神様の姿が見えない」のセリフも無くなった。印象深い一言だったのだが、こんなセリフを言わせる状況になったら終わりである。これまでの本作のストーリー展開からはそぐわないので致し方ない。だが、「平和への意志」という志については充分受け継いでいるといえる。
極力戦闘を避けてきたヤマトでさえも、大きな罪を背負っている事は見逃されていない。同時にそこにはイスカンダル自身の過去の罪業をも示している。
デスラーの性格が判りにくかったのだが、本作で少し了解できたように思う。この偏執狂的な男は、武力による全宇宙の統一、その後に強大な権力による支配と秩序維持により、「イスカンダルの理想」を達成しようとしていたわけである。だが、イスカンダルの目的は「生命の救済」である。デスラーの意思は壮大な誤謬に基づくものであり、スターシャとは相容れる筈も無かった。これはひとつの恋愛悲劇である。また、このイスカンダルの理想は本作の求めるテーマでもあった。尚、スターシャの胎内の子は、守との間に出来たものと推定される。
「古代君が死んじゃう」のセリフも無いが、その代わり異星人であるセレステラを守るシーンに変更された。この改変は悪くない。さらにここで旧作の「僕達は愛し合うべきだった」のセリフが雪の口から飛び出し、巧みに再構成がなされている。桑島法子もよく演じていた。
その他、相原錯乱のエピソード軽く挿入されるなど、心憎いシーンも見受けられる。波動砲口の「前張り」は松本版大ヤマトを意識したのだろうか。終盤のコーラスはサウンドトラックでお馴染みの曲である。続編で使われていたかどうかは知らないが、嬉しいサプライズだった。
一部制作が追いつかず、未公開の場面が残っているが、素晴らしい出来栄えだったと思う。欲を言えば、続編が作られないようにきちんと引導を渡して欲しかったというくらいか。特攻主義の戦争モノと成り果てた続編のリメイクはやめてくれ。


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断片的な感想
日本で「飛翔体」の打ち上げに失敗したとか言うニュース。こんな話、どこかであったよな。

麻生太郎の「ゲンより禁止すべき成人向け漫画がある」発言。検閲・発禁処分を是として毫も恥じないこの無神経さは一体どこから来るのか。「ゲン」さえ守られればいいという問題ではない。日本で春画展が開けない原因の一端は、こういった風潮にもある筈だ。もういい加減にしてくれよ。こんなレベルの低い馬鹿者を支持しているマンガファンは、いい加減に現実を見て欲しい。

シリア情勢にアメリカが出しゃばろうとしているらしい。アメリカが唱える「人道的介入」が一体何を意味するのか、彼の国の近・現代史を繙いてみれば、一目瞭然となる筈だ。
一例を挙げよう。人道的介入として知られるセルビアへの空爆によって、彼の地でようやく生まれようとしていた民主勢力は致命的な大打撃を被った。この介入によって勝利したのは他でもない。NATO諸国の軍需産業である。こんな残忍な茶番劇が世界各地において、政治的美辞麗句の下に行われている。
これからも様々な宣伝工作がなされることと思う。私達は、日々のニュースに接する際は、より一層警戒してかからなければならない。これは原発事故についても同様である。

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「はだしのゲン」問題について思うこと
「はだしのゲン」閉架図書問題について、この間色々考えた事を記してみたい。
周知のように、昨年12月、松江市教育委員会は市内の全市立小中学校に対し、マンガ「はだしのゲン」の閉架措置を求めていた。残虐描写があるというのがその理由である。
勿論、撤去の理由となった、「残虐描写」云々は口実である。本音は「1.日本の加害行為を否定したい。2.原爆の被害を隠したい」である。これを承知の上で、論を進めることにする。
仮に、小中学校の図書館に山野車輪の「嫌韓流」や小林よしのりの「戦争論」が置かれていたとしたらどうだろう。同じような問題が、逆の立場から生じるのではないだろうか。少なくとも私は「冗談じゃねえや」と思うだろう。「嫌韓流」は極端だとしても、「戦争論」については決してあり得ない話ではない。つくる会や育鵬社の自称教科書の件を思い出して欲しい。
「読みたければ自分で買って読めばいい」とはよくも言ったもので、「はだしのゲン」が一般に流通する事自体は連中も(今のところは)否定していない。無論、この論理であれば、市立の図書館における閲覧制限は明らかに不当となるのだが、ここにも連中の本音が見え隠れする。堺市のBL本撤去騒動を思い出してもいいだろう。
問題は、学校という部分社会において、検閲類似行為が許されるのかということである。たとえば、「コミックLO」を小中学校の図書館に置いてくれとは流石に言わない。そこに一定の取捨選択の基準がある事は事実である。その判断の指標は、「戦争、暴力、差別を肯定しない」「露骨な性描写が存在しない」という辺りに落ち着くのだろう。だが、世界文学全集などにも良識派連中が眉を顰めるような描写はあるだろう。結構この判断基準もいい加減なところを残しているものだ。
争点は、私達が次の世代に何を残したいのか、何を伝えたいのか、ということにある。公権力にとって都合の良いことだけを教えられてはたまらない。ここを巡って闘いは続けられていくことになるだろう。だが、そもそも「教育」という概念自体、一定のいかがわしさを孕んでいることもまた事実だ。
「学校教育なんて、結構いかがわしいものなんだぜ」というくらいの意識は、私達も常に持っていたほうがいいかもしれない。

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乗り越えがたい幼年期
友人達と「宇宙戦艦ヤマト2199第七章 そして艦は行く」を観る。上映中、涙が止まらなかった。40~50代のいい年をした大人が、一斉にSFアニメで泣いているのも異様に見えるかもしれないが、何せ、40年間の思い入れがある。終了後は自然に拍手が沸き起こった。
背景を記すと、賛否両論の「さらば」は措くとして、「ヤマト2」から「完結編」に至るまでの劣化版の再生産という、痛ましい製作史があったわけである。さらに「2520」や「大ヤマト」は黙殺するとしても、「復活編」、実写版というトンデモ作品が登場してしまったため、ファンの間では相当屈折した思いが広がっていた。そこに一気にカタルシスを与えてくれたのが、本作だったわけである。
幼年期は乗り越えがたい地平である、と述べたのはサルトルだが、我々の中に眠る子供は今もマゼラン銀河に魅せられ、果てしない航海を夢見ている。そんな子供の要請に答えてくれた、出渕監督を始め、関係者一同に感謝したい。
レビューは改めて・・・

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殺すな
エジプト情勢については、「殺すな」という一言に尽きている。当初、中南米諸国で起きた様々な政変を想起した。だが実際には正確な情報に乏しく、どちらがどういう思惑で動いているのか、部外者には判断し辛い。政治的な力関係について判断するにはもう少し時間が掛かりそうだ。
私達が今問題にしているのは、おぞましい虐殺が起きているという事実である。この点だけは動かしがたい。国家の暴力装置たる軍隊が、民衆に銃を向け、流血の惨事を招いているのである。再度言う。「殺すな」、軍は虐殺を停止せよ。

この件について、フィフィという外国人タレントが、日本人の無関心の理由を「戦後教育で牙を抜かれたせいである」との主旨を述べた。戦後教育とは、戦後民主主義教育と言い換えても良い。これは橋下徹の「全ては憲法九条が原因だと思っている」というのとほぼ同じ内容である。思い余っせいかどうかは知らないが、理念的な誤謬に甘い点をつけるわけにはいかない。私はこの発言を厳しく批判する。

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まぼろしの映像
下北沢で、「恐るべき遺産 裸の影」(監督:若松孝二)を観る。
何でこんないい作品が埋もれてしまったんだ?というくらい、良い出来栄えだった。
経緯を記すと、本作はフィルムが行方不明で、半世紀もの間幻の作品となっていた。監督没後、若松プロの人たちがフィルムセンターから見つけ出してきたのがこの作品とのこと。
劇団ひまわりの子役達の入浴シーンがあり、初公開時には児童福祉法違反として、散々叩かれた曰くつきの映画である。実際に観てみると、監督本人の言うとおり「どうってことない」シーンなのだが、「はだしのゲン」の一件もあるのでまた色々と蒸し返されないか心配だ。
フィルムは傷だらけで、画面の乱れがかなり多い。手間をかければデジタル修復も出来そうな気がするが、予算が無いから仕方ないか。

内容は監督が生前話していたものとだいぶ異なる。
幸福な家庭に育ったバレー部所属の女子高生。或る時期を境に原因不明の体調不良に襲われるようになる。
そんな中、誕生日の夜に「実は今の両親は本当の親ではなく、伯父夫婦であり、本当の両親は原爆投下が原因で亡くなっている」と告げられる。被爆二世であることを知った主人公は、自分が原爆症ではないかと不安を抱き、自暴自棄になっていく。
主人公の病気が決定的なものとなった時、周囲の理解が広まり、ギクシャクした関係が漸く解けていく。バレー部の合宿所を訪れ、仲間達と再び打ち解けていく主人公。だがその晩、彼女は合宿所を抜け出し、海に身を投じていく…

お分かりのように、かなり生真面目な反核青春映画だ。前述のスキャンダルの最中、映倫からは「青少年向きに推奨しようかと思ったほどの作品だ」との証言が得られている程である。特に広島の原爆資料館の場面は、新藤兼人の「原爆の子」よりも長く時間を割きながら描かれていたように思う。土門拳の写真集の扱い方といい、若松孝二はこの頃から直球勝負だ。
勿論、ヌードモデルのシーン、強姦未遂のシーンなど、「性」を描き続けた若松らしい場面も随所にある。しかし、最も若松的なのは最後の海辺のシーンだろう。海を描くことに拘った若松孝二にふさわしい、見事な場面だった。


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果てしなき転落
「戦友」という軍歌がある。「ここはお国を何百里~」で知られる歌である。この歌が日中戦争勃発後、軍部より批判を受けたという。
問題とされたのは「軍律厳しい中なれど/これが見捨てて置かれうか/”しっかりせよ”と抱起し」の一節である。軍律違反を煽る、厭戦感情をそそのかす、ということらしい。現場の兵士にとってみれば、戦友を助けるのは当然の感情であるだろう。事実、この歌は広く愛唱されたわけであるが、先のような非難がなされるというのは常軌を逸しているといっていい。
松江の「はだしのゲン」閉架図書問題についても同じことが言えると思う。こんな血迷った事を言い立てるのは、右翼の中でもかなり病理的な部分だと思うが、そうした意見が通ってしまう。まさに、来るところまで来たなという印象だが、正直、よくわからないことも多い。
在特会が教育委にネジ込んだのが一年前。同じ趣旨の陳情が市議会で一旦不採択になったにもかかわらず、市教委が閉架を決定したのが12月。ニュースになったのが昨日、といった具合である。なぜここまで報道が遅れたのか、時期を考えると色々と勘繰りたくもなる。正確な情報が欲しい。

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「人の命は一銭五厘」
昨日の戦没者追悼式で、安倍晋三の式辞から、加害責任への言及と不戦の誓いがすっぽり欠落していたという。
形だけの謝罪なら意味が無いのは事実だが、これは不作為による意思表示である。「反省なんかしねえぞ」というわけだ。私は細川政権を当時、極右として散々批判していたのだが、更にその右をいくのがこの人物である。ネトウヨ政権というにふさわしい。

靖国というテーマパークについて、目取間俊は「忘却の装置」と記述した。都合の悪い歴史を悉く忘却し、自らの正当性を誇示しようとする。その結果が、つくる会から在特会に至る、醜悪な歴史修正主義の蔓延である。
日本の戦後のあり方を「加害者であるのに被害者のように振舞っている」と指摘したのはJ.G.バラードである。とはいえ、被害の記憶を「戦争一般は悪だ」とする意識に結びつける事によって、この国が一定の戦後総括を行ってきたのは事実だろう。そこから、アジア諸国との関係を歴史的に省察する道もあり得た筈だ。だが、「戦争=悪」とする意識はそこから先に進む事は無く、徐々に後退していった。今日では、この被害の記憶すらも忘却の淵に流されようとしている。
被害者意識すら忘却するというのはどういうことだろう。一口にいうと、「お国のために犠牲は付き物」ということである。ここでは人々の死は、「辛い事だが必要な犠牲」であり、「被害」というものではない。そうしたイデオロギーが、再び流布されつつある。だが、ちょっとまってくれ。例えば、ワタミの会長が亡くなった社員について、「これらの尊い犠牲の上に、今日の我々の繁栄がある」などと述べたらどう思うだろうか。ふざけるな、の一言だろう。
戦争によって兵士や市民を大量死に送り込むのは為政者である。この為政者達は、決して自ら傷つく事は無い。彼らは大量死の責任者であるにもかかわらず、犠牲者を祀り上げ、人身御供として活用する。
騙されるな、踊らされるな。あなた達の命はあなた達自身のものだ。

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夏の日の断章
お盆休み、とかであるらしいが、一日中色々歩き回っていた。8.15とは関係が無い。家の近所を行ったり来たりで、文字通りのヤボ用である。
懸案だった書き物が先ほど終わり、少しホッとする。おかげであまり休んだ気がしないのが残念だ。
・この間読んだ本。
 笠井潔「吸血鬼と精神分析」。笠井のミステリー「矢吹駆」シリーズの一冊。「オイディプス症候群」の次作に位置する。ジュリア・クリステヴァとジャック・ラカンが名前を変えて登場。勿論、鏡像体験論やアブジェクシオン理論などが盛んに語られる。レビューはじっくり読み直してからにしたいと思う。だいぶ先のことになると思うが。
 笠井潔「サマー・アポカリプス」。これは同じシリーズの第二作で、だいぶ以前に読んだものの再読であるが、読み直してみると今ひとつの印象。S・ヴェーユ(劇中では「リュミエール」)との対決部分にもっと頁数を裂いて欲しかった。
笠井が主人公に「カケル」の名を与えたがるのは、荒岱介のPN「日向翔」を意識したものだと聞いたことがある。真偽の程は知らない。二人が党派を超えて近しい間柄に会ったのは事実のようだが。

運動圏において、分裂や対立など、スターリン主義の亡霊があちこちで復活している事にやり切れない想いがする。「自分たちは真理を体現した無謬の党(団体)だ」という妄想を捨て去らない限り、こうした運動は破産に追い込まれる。同じ過ちを繰り返すな。この文言は原爆の問題だけには限らない。

スターリン主義といえばもうひとつ、文化スターリン主義というものがある。早い話、プロレタリア文学論に代表される、政治主義的文化論だ。
だいぶ以前にE・サイードのエピゴーネンたちが、スターリン主義文化論に第三世界主義の衣を着せ、新たな装いの元に売り出した時にはあきれ返ったものである。「西洋中心主義」を「ブルジョワ的」と置き換えれば、ソ連製の文化理念がそのまま甦る。この種の置き換えは、多くの文化論においても見受けられるので注意するべきである。文化をちゃちな政治的公式で計ろうとするな。理解したいと思ったら謙虚に学べ。それ以外に道は無い。

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真夏の死~佐渡川準逝く
佐渡川準が亡くなった。自殺だという。
初めて雑誌上で「無敵看板娘」を読んだ時の印象は忘れがたい。確か主人公の鬼丸美輝がブクブク太ってしまう話だった。家業そっちのけで格闘に明け暮れる主人公のバカバカしさに、腹を抱えて笑ったものである。
「公序良俗」「正当業務行為」等々、時折見せる法律用語もなかなか愉快だった。この人の経歴については知らないが、傷害罪の定義など極めて正確であるところから、どこかで法律学を学んでいた事は間違いないと思われる。
「パニッシャー」の不人気による打ち切りなど、創作上の悩みも多かったと思う。商業誌という性格上、不本意なものも描かなくてはならないことはざらにあったろう。手塚治虫といい、鳥山明といい、多くの漫画家がこの商業主義の壁に突き当たっている。
自殺の真相は知る由もない。だが、せめてこの人には、もっと描きたいものを自由に描かせてあげたかったと思う。

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早朝5時頃に嫌がらせ電話で叩き起こされ、普段以上に寝不足を抱えながら出勤。
原爆忌に際し言いたい事は色々あるのだが、ちょっと限界なので後日に回す。

そういえば、週刊新潮とかいう紙束(自称雑誌)がまたやらかした。詳細はご存知の通りである。
ついでに言うと、コミックLOを卑劣にも追い出したAMAZONが、週刊新潮を今もって取り扱い続けるというのも、奇怪極まりない事柄である。類は友を呼ぶで、悪意を込めてみれば当然ともいえるのだが。

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イカロス・コンプレックス
先日、「風立ちぬ」(監督・脚本:宮崎駿)を観た。庵野秀明の吹き替えが聞き苦しいが、まずまずの良作。
ファンタジーは作らないと宣言した宮崎だが、彼自身の作家としての方向性が、狭義のファンタジー性からかけ離れていった事は確かだろう。ハウルやポニョに私が感じた違和感はそこに由来するのではないだろうか。今思えば、無理をしていたのだろう。

ストーリーについては大方の想像通り。飛行機への情熱を抱き続けた少年が、長じて設計士となり、理想の飛行機作りの夢を追い続ける。主人公は大学時代、関東大震災に見舞われ、一人の少女と女中を救うが、時を経てその少女・菜穂子と軽井沢で再会。恋に陥る。だが、菜穂子は既に結核を病んでいた。
時は十五年戦争期、主人公の夢は高性能の戦闘機の製作という、グロテスクな結末へと変貌していく。或る登場人物の口を通し、満州国建設とこれに続く侵略戦争への批判が語られる。この辺りはなかなかの凄みがあって、悪くない。宮崎駿が戦争に拘り続けるのは「コナン」の時以来一貫している。「ハウル」では安直な描き方をしたため、唖然とさせられたものだった。あれはひどい。
死期の近い菜穂子と結婚した主人公は、いびつに歪められた夢を追い続け、遂に飛行機を完成させる。口々に称賛を受ける主人公。だがその時、菜穂子の死亡が暗示される。
末尾の夢の中で、主人公は自分の追い求めた夢の結末は惨々たるものだった、と述懐する。結局は破壊と殺戮にしか至らなかったのだ。やり切れない思いを抱える主人公に、夢の中の菜穂子は「生きて」と告げ、映画は幕を閉じる。

主人公の「堀越二郎」は実在の人物だが、これは宮崎駿自身の精神的な投影と考えて差し支えない。宮崎が飛行機マニアである事は明らかだが、飛行機を映画と置き換えるともっと判り易くなる。
ここで主人公が彼女を蔑ろにしている(病気の菜穂子を無理に同居させる等)という批判を思い起こそう。要は、夢ばかり追っているダメ人間なのである。これを断罪するか、人間的な弱点として肯定的に捉えるかで主人公の評価は変わってくる。製作者は後者の側に立っているが、主人公の欠点については自覚していると思う。
ついでに宮崎監督は、どれだけの人を傷つけたのだろうかと、意地悪なことを考えてみたくもなる。ならば、この映画は自己弁明の映画という事になる。だが、この種の断罪は悪意的に過ぎるだろう。宮崎をマグダラのマリアに見立てるつもりはないが、こうした断罪が常に自分自身に返ってくる事は自覚した方がいい。

ギリシア神話のイカロスは太陽を目指し、天高く飛び続ける。不可能な夢を追い求めた結果、翼を固めていた蝋が溶け、地上に転落する。夢の結末が必ずしも幸福に繋がらないというのは今も昔も変わらない。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは生きていさえすればいいのよ」(太宰治「ヴィヨンの妻」)


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水晶の夜
麻生発言など氷山の一角に過ぎない。私達はまぎれもなく水晶の夜を生きている。おをらく、虐殺の対象は私たち自身なのだろう。自らが、嬉々として自分自身に手を下す。そんな時代を私達は作り出してしまった。
内輪揉めに汲々としている輩は捨てておけ。私達は、とにかく生きなければならない。


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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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