時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
猫とコソ泥
風邪の回復が充分でないため、今日は遠出を控える。
読み止しになっていた、モーリス・ルブラン「赤い輪」、平行して読んでいたポール・ギャリコ「ジェニィ」を読了する。前者はぬるいサスペンス・ドラマ。南洋一郎訳では「悪魔の赤い輪」という題名で、もっと血腥い、怖い話だったような気がするが、記憶が美化(?)されているのだろうか。二重人格を扱ったものだが、人格が完全に分裂しているというわけではない。時折、病的な犯罪衝動の発作に襲われるヒロインを描いたもの、といった程度である。事件も大人しめなので、物足りなく思った人は、映画「迷宮の女」などを観た方がいいかもしれない。あちらは本物の多重人格の話である。
「ジェニィ」は交通事故をきっかけに、猫に変身してしまった少年を描いたファンタジー。様々な困難を潜り抜けながら成長していく、ビルドゥングス・ロマンともなっている。立派になった主人公が恋人(猫)を守るため、ボス猫と決闘、刺し違える形で遂に相手を倒した後に、夢オチとなる。これはまあ、致し方ないか。個人的には船旅のシーンがなかなか楽しげに語られており、愉快だった。
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従順な精神の形成
まだ風邪から回復していないのだが、少し気になった事を記しておく。

1.辛坊治郎の件、遭難者を救助するのは当たり前だし、むしろ、手遅れになる前に渡航を断念したのは良かったと思う。謝罪する必要など、特に感じない。だが、彼は高遠菜穂子氏達がイラクで人質になった際、「自己責任論」を声高に振り撒いた張本人である。今回の遭難を謝罪する必要は無いが、人質事件の際に振り撒いた害毒についてはちゃんと謝罪して欲しい。

2.竹花豊が東京ビッグサイトの社長に就任したことは各所で報じられているので、今更解説する事も無いと思う。
本件に関し、様々な揣摩憶測が広がっているが、断定できる材料は無い。中には「肉を切らせて骨を絶つ」的なカウンターとして、肯定的に捉える見方さえある。
だが、彼が社長職に就いているという事実のみで、大きな萎縮効果が生まれることは事実だ。特に弾圧のために何かをする必要すらない。コミケットの参加者は、常に規制派の眼差しを意識しながら開催期間を過ごすことを余儀なくされる。
ミシェル・フーコーは「監獄の誕生~監視と処罰」において、「一望監視方式」というモデルを取り上げている。刑務所などで、中央に刑務官のいる部屋が設けられ、放射状に獄舎が伸び広がるという建築様式である。服役者達は常に中央にいる看守の目に晒されている。この監視モデルはよく出来ていて、しまいには看守が不在の時にも、「見られているかも知れない」という意識を服役者に植え付ける。結果、服役者達はおのずと従順な存在となり、抑圧を受けたのと同じ状態を自主的に作り出す。いわば、凹状に、窪んだ存在となっていくのだ。
コミケの場合にもこれと同じことがいえる。強硬な規制派がトップに置かれる事により、参加者達は自主的に規制を行うようになる。権力は自ら武器を行使することなく、完全なる抑圧状態がそこに完成する。
率直にいって、このような状態で作家達が自らの能力や創造性を充分に発揮できる筈が無い。「重圧に負けるな」などというのは、陳腐な根性主義だ。反撃を行いつつも、開催地の変更など、検討した方がいいだろう。

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少女が戦車でやってくる
アニメ「ガールズ&パンツァー」が自衛隊の広報に使用されているのは知っていた。作品を一通り視聴し、割と肯定的な印象を持っていただけに、残念な思いを抱いていた。どんな作品であれ、公権力の手が忍び寄れば、いかがわしい色に染められてしまうものである。また、これを口実に作品をバッシングする勢力が現れれば、頽廃の極みである。マンガを潰せば戦争がなくなるということは、絶対にない。

内容を簡単に説明する。部隊は架空の世界の「大洗町」。この世界では乙女のたしなみとして、「戦車道」(華道とか茶道とかの「道」)なるものが存在し、健全なスポーツ(?)として認められている。
主人公達の学校は長らく戦車道が廃止され、戦車経験者は主人公のみという、いわば弱小校。この寄せ集め的なチームが戦車道の世界大会へ出場し、優勝する事によって、廃校寸前の母校の危機を救うというもの。

いうまでもなく、戦車とは殺人兵器である。壁を粉砕し、アスファルトを踏み砕き、後には廃墟と屍が残される。いわば、戦車とは破壊と殺戮のシニフィアンなのだ。「鬼戦車T-34」、「馬鹿が戦車でやってくる」等々、戦車を扱う作品は様々だが、その位置付けは変わりない。
この殺人兵器に嬉々として美少女が乗る。解剖台の上のミシンと蝙蝠傘どころの騒ぎではない。そもそも「戦車道」という設定からして、真面目に考える事を予め拒否していることが窺われる。実弾による熾烈な砲撃戦でも死者は一人も出る事はない。死傷者が出れば、この世界は成り立たない。目的はギリギリまでリアルっぽい戦闘を空想することだ。しかし、リアルそのものになってはならない。それは逸脱行為だ。リアルな戦闘など求めていない。求められているのは、究極の戦争ゴッコという空想なのだ。(この記事続く・・・と思う)

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あーあ
ヤボ用で夜遅く帰宅。まあ、ひどいもんだね。勿論、都議会議員選の話である。予想した結果とはいえ、投票率の低さは眼を覆うばかりである。日共が議席を伸ばしたのが幾分明るいニュースか。
この国では民主主義が標榜されているが、何かしら、民主主義を成り立たせる諸制度が、目の敵にされているような気がしてならない。うさんくさい、怪しい、気持ち悪い云々といった具合に・・・
もしかすると、選挙に行くことに対し、「いい子ぶりっ子」的ないかがわしさを感じているのだろうか。為政者の選択が、これ程私達の生活に、危機的な形で直結している時代は他に類を観ないのであるが。ヤバい時代なんだよ。実際。

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藪よ、お前はどこへ行く
(承前)ユリーシャと誤認され、拉致された森雪はフラーケンの次元潜航艇に護送され、収容所惑星に赴く。イスカンダル人はガミラスにとって崇拝の対象であるため、特別待遇だ。収容所長は面白半分に囚人を撃ち殺して遊ぶという、人としての風上にも置けない人物。雪の到着時に人種を巡る諍いがあり、フラーケンがなかなかいい所を見せている。
一方、この捕獲作戦による銃撃戦の最中、ヤマトでは本物のユリーシャが覚醒。雪が拉致された直後に皆の前に姿を現す。この辺は珍しくご都合主義的だが、許容範囲だ。
甚大な被害を受けたヤマトは補給のため、地球と環境の近い、とある惑星に向かう。ガミラス勢力圏である事から、古代は偵察機に乗って様子を調べるが、勝手にユリーシャが同乗し、雪はあの惑星にいる、と伝える。状況を考えれば、左程不自然な展開ではない。人間が居住可能な惑星は、かなり限られているものだ。ここで、破壊された営倉から脱出した伊東と藪が姿を現す。古代達に銃を向け、再び反乱を企てるが、銃が暴発、計器を破壊してしまい、不時着する。
四人はガミラスに拘束されるが、丁度その頃収容所で反乱が勃発。混乱の中、伊東は戦死、拘束されて転がっていた藪は銃を手渡され、反乱に参加させられる。
そこへ現れたのがメルダ・ディッツ達のグループ。収容所の反乱を側面支援していたことが判明する。反乱は成功を収めるが、危険を察知したフラーケン達により、雪はそのままユリーシャとしてガミラス本星に連行される、
収容されていた、ドメル夫人、ディッツ(父)らはヤマト側と会談。和睦とまでは至らず、物別れに終わるが、メルダが連絡要因としてヤマトに残留。ディッツ(父)達は他の収容所惑星の解放に向かう。なぜか藪は収容所惑星に残留。幾ら鈍いとはいえ、古代が藪を見捨てていくとは考えにくい。藪本人の意思が働いている可能性が高いだろう。
ガミラス本星に到着した雪は、セレステラに正体を見破られるが、デスラーは意に介さない。偽者であってもかまわない。ユリーシャを手中に収めたことにすれば、イスカンダル統合のための政治的アリバイが成立するのだ。
ここでシュルツの娘や、ドメルの愛鳥と戯れていた少年達、花束の童女(回想シーンではミレーネルも)が再登場するなどのサービスも用意されている。さながらガミラスキャラクター総動員といったところだ。また、セレステラのデスラーに対する想いが暗示され、次章への伏線にも余念がない。
ヤマト側ではユリーシャやディッツからガミラス側の重要情報を入手。二重惑星である事、イスカンダルとガミラスの関係等を知ることになる。ここで女子会など、ほのぼのした場面が挿入されるが略す。いよいよ目的地を前にするが、波動砲を思わせるガミラスの超兵器(旧作のデスラー砲か)がヤマトに向けて放たれ、本章は幕を閉じる。

ユリーシャによる冒頭の一連の台詞からも窺われるように、本章でもまた、「ヤマト及び人類の原罪」がテーマとなっている。「彼らは来た、戦いと共に」の一言は、直接的には「ガミラスが七色星団にやってきた」ということであるが、同時に「地球人が戦いと共にやってきた」という意味を含んでいる事は押さえておきたい。メルダと同様、ユリーシャもまた、地球人を「好戦的な種族」と見做しているのである。
ガミラスサイドで唯一、必要以上に戦争を望んでいるのはデスラーなのだが(ギムレーのようなバカは別だ)、彼の性格がよく掴めない。これは製作者側が意図的にわかりにくくしているもので、最終章でどのように描かれるのか、眼が離せない。
また、古代守がイスカンダルに居るのか。現在のところは謎のままである。まさかキャプテン・ハーロックとしてデスシャドウ号を乗り回している事は無いだろうが(時代設定がまるで違う)、いずれにせよ色々辻褄を合わせる必要があるだろう。

さて、本作で一番気掛かりなのは藪の今後だろう。旧作ではイスカンダルのダイヤモンド鉱山の下に埋もれていった彼であるが、本作では誰もが予想しない道を辿る事になった。新見のような特殊能力もないので、今更「どの面下げて」戻ればいいのか判らない。死亡者扱いになっていることもあり、天涯孤独の身の上、新しい世界で生きることを決めたのだろうか。
本人の台詞にもあるように、彼は伊東達の口車に乗って散々振り回された存在である。結果、一番の貧乏籤を引くことになった役回りだ。反乱の首謀者だった新見の待遇に比べると、割に合わない。視聴者にとって最も等身大の存在であるだけに、行く末が気に掛かる。

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七色星団に墜つ
「宇宙戦艦ヤマト第六章 到達!大マゼラン」のレビューを記す。
相変わらず情報量の多い作品で、旧作を知らない人にはわかりづらい説明になるが、全力でネタバレレビューを行う。何しろ、日が経つにつれて、記憶がどんどんあやふやになっているのである。これ以上延期するわけにもいかない。

ガミラスではゼーリックの死後、ドメルが拘留を解かれ、デスラーの謝罪を受けている。デスラー(影武者)暗殺、ドメルの逮捕は全て政治的な芝居だったのだが、結果、ガミラスは主要艦隊の大部分をバラン星宙域に置き去りにするという、計算外の事態に陥った。そんな中、ドメルは自らヤマト討伐の任を再度願い出る。
一方、大マゼラン銀河を前にしたヤマトの艦内では、岬百合亜に憑依したユリーシャが沖田艦長に警告する。「波動エネルギーは武器ではない。武器として使用してはならない」と。そしてさり気なく、コスモ・リバース(旧作の放射能除去装置)を直接輸送しなかった理由について、熟考するように促す。沖田はそれを「地球人への試練と考えている」と答え、人類が救うに値する存在か見極めて欲しい、と語る。
七色星団の決戦は旧作とほぼ同じ。但し、ヤマトの航路上に星団が位置していること、ガミラス側が絶対的な戦力不足にあること等が旧作と異なっている。物資の不足のため、急遽、採鉱用の掘削機を改造して作ったのがドリル・ミサイルというわけで、そのため起爆装置の解除・反転も容易に行われることとなった。ただ、ガミラス側が「なぜさっさと爆破してしまわないのか」という疑問は本作でも拭えない。失敗に気付いた時点で手動爆破するべきなのだ。
先走りすぎたので話を戻す。本格的な戦闘に入る前に、植民地出身のガミラス兵が特殊部隊としてヤマトに潜入。見た目が地球人と変わりないことを生かした作戦で、目的はユリーシャ・イスカンダルを拉致する事だった。無論、ユリーシャは自動航行装置の中で昏睡状態にあるため、早々見つかるわけもない。結果、誤って瓜二つの森雪を攫ってしまう。
ユリーシャ捕獲の報告を受けたガミラス側は瞬間物質輸送機でヤマトを攪乱、航空隊による攻撃で、甚大な被害を与えていく(この辺りは旧作と同じ)。当初、有利に闘いを進めていたドメル側だが、経験者の不足(若者と老兵ばかり)、艦隊の絶対数の不足から、次第に追い込まれていく。ドリル・ミサイルも、懲罰を解かれた新見とアナライザーの活躍により、前述のようにあっけなく排除される。
戦局が厳しい事から、ドメル艦は自らヤマト攻撃に乗り出すが、七色星団の複雑な重力場、予想外のガスの構造につかまり、逆に追い詰められてしまう。全て沖田の策略によるものだと知ったドメルは敗北を悟り、ヤマトの第三艦橋に張り付いて自爆(爆破による一連の描写は敢えて無音でなされ、哀しい余韻を残している)。ヤマトは間一髪波動防壁を張り巡らせ、大破を免れた。
七色星団の描写は、あまり宇宙空間らしくない。強烈なガス帯という設定から、むしろ地球上の雲海を思わせるような、明るい背景で描かれている。これはかなり意識的に行われている筈で、「戦争」に対する製作者の拘りが窺われる。
ゲールはバランに取り残されているので、側近のハイデルンがドメルと運命を共にするのは順当な役回りか。ただ、部下の一人であるバーガーの死が確認されていないので、次回の鍵となりそうである。
宇宙葬の場面は旧作を踏襲。本作でも、最大の死傷者を出す決戦となった。地球人、ガミラス人区別なく丁重に葬る様子はやはり物悲しい。
(この記事続く)

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なまず動くな
昨晩早めに就寝したせいか、泥沼のような睡魔からは解放された。だが、粘りつくような疲労感は続いている。とにかく鉛のように体が重い。

アウヘハント「鯰絵」(岩波文庫)を購入。鯰絵については震災直後にこのブログでも軽く取り上げたことがある。安政大地震の直後に多く描かれた鯰のイラストで、諧謔、ユーモアに富んだ作品が多く生み出された。まさに民衆的バイタリティーの賜物といえる。3.11の震災直後にも、多くのイラストサイトで今風の鯰絵が描かれた。実際、絵でも描いていなければやってられないものである。
最近は本を読む時間もなかなか取れないのだが、収録されたイラストを眺めているだけでもなかなか楽しめそうだ。興味のある方は、吉田豊「江戸のマスコミ「かわら版」」を合わせて読まれるとよいだろう。こちらにも様々な鯰絵が紹介されており、なかなか楽しめる。

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混沌
昨日の事から。新座市の脱原発デモに参加。あまり寝ていないせいか。歩きながら「寝落ち」しそうになる。参加人数は62人。まあ、こんなものか。ただ、やたら歌唱にこだわるデモのあり方には参加者からも批判があった。おそらく「うたごえ運動」的な名残があるのだろう。ここでは批判的な言辞は差し控えるが、もっと活力が欲しいのは事実だ。

同日、大久保でレイシストの大規模な行動がある事は聞いていたが、帰宅してニュースサイトをみると、レイシスト、カウンンター双方に逮捕者がでるなど混沌とした様子。公安絡みの報道にはバイアスが掛かるので、早急な判断は差し控え、事態を注視していきたい。まずは逮捕された人達への支援が必要だ。レイシストの救援は自分達で勝手にやってくれ。

そろそろ、先日観た「宇宙戦艦ヤマト2199第六章 到達!大マゼラン」のレビューをしたいところだ。この調子だといつになるか判らないが。

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めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな 紫式部
あー、よかった。やっと見つかった。何が?永遠。海と溶け合う太陽が・・・じゃなかった、探していた書物が見つかったのである。
大した書物ではない。中学生時代から手元にある、小倉百人一首のテキストである。今でも時折引っ張り出しては眺めているのだが、先日、どうしても見つからず、難儀していた次第。やたら頻繁に無くすので、もう一冊予備を置いておくのも検討した方がよさそうだ。
百人一首は一度一通り暗記したものだが、今では大半は忘れてしまった。無論、西行や和泉式部などのあまりにも有名な歌や、一枚札の「むすめふさほせ」位は覚えている。ただ、カルタ取りとなると自信が無い。とっさに下の句が出てこないものである。これだけの記憶力を要求するゲームもなかなか思いつかない。
ちなみに戦時中は「愛国百人一首」なるものが存在した。斉藤茂吉などが選者として関わったものである。北杜夫に言わせれば、企画の意図はともかく個々の歌自体はそれなりのクオリティーを持っているという。ただ、やたら堅苦しく、親しみが湧かないというのもあって、当時から評判は悪かったらしい。確かに、ざっと並べてみるといかにも窮屈だ。
澁澤龍彦によれば、この愛国百人一首の一枚札は「たむけにゆうひ」であるという。試みにひとつ挙げてみよう。

旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら)

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不細工な話題を色々
この所やたら疲れが溜りやすい。昨日、今日と大分へたばっていた。
さて、先日の渋谷でのTPP反対行動の一幕が、今も話題となっている。
自分に反対すれば「左翼」認定するというのは、気に食わない人間を「在日」認定する輩共と同種のメンタリティーを示している。こういうレベルの低い総理を私達は戴いてしまっているということは、もう少し認識されて良い。
渋谷といえば、もうひとつ。例のDJポリスだが、騒ぐのもいい加減にしないか。そりゃ警官も人間だ。気の利いたことを言う時もあるだろう(私は特に感心はしなかった。また、デモで同じことを言われたら「ウルセー、このヤロー」だ)。しかし、この騒ぎ方には何か意図的なものすら感じてしまう。
警察とは物理的強制力を備えた、行政の執行機関である。一歩間違えれば途轍もなく暴走し、市民の諸権利を蹂躙する潜在力を秘めた存在である。安易に一体感を煽り立てるべき対象では無い筈だ。公権力に対する距離感が、報道から失われている事は由々しき問題である。
ついでにもうひとつ。例の「シャラップ」の問題。日本の刑事司法の劣悪さが問われている筈だったが、この国がもうどうしようもなく、末期的な状態にあることが露呈されてしまったように思える。そして、これが殆ど報道されない事については何をかいわんやだ。

不細工な話題が続いてしまった。いい加減、もう少し高尚・・・とは言わないまでも、マシな話題を取り上げたい。

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シャラップ!
例の「シャラップ」の問題・・・
どうもこういう絵ヅラしか浮かんでこないんだよな。

SHUTUP2.jpg

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再生無き転落
西東京の脱原発デモに参加。田無から北上するコースで、距離は長めだが、なかなか良いデモになったと思う。
渋谷では反TPP街宣行動があったのだが、膝関節の状態が悪いのと、体力切れの関係(偏頭痛あり)で、断念する。安倍晋三の街宣とバッティングするということもあり、かなり盛り上がったようだ。尤も、蛙のツラに小便といった感が無いでもないが。
憲法改悪の問題も含め、現在日本で起こっている事は「右傾化」とは少し違う。右側の論理からしても、これが異常である事は自明の筈だ。「先祖帰り」という表現もまだ甘い。むしろ、「劣化」である。憲法学者・奥平康弘の言葉を借りれば、「二〇一三年の日本は、一九九九年(註:国旗国歌法制定時)の日本に比べてさえ、ずるずると堕ちていっていることがわかる」ということである。

書店で「創」「世界」を購入。安倍自民党のメディア戦略の記事が掲載されているが、流石に読んでいるうちにイライラしてきた。ひどいもんだ。

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よく眠れない日が続く。今日もよく眠れたとは言いがたく、睡眠と覚醒を繰り返し、昼過ぎに漸く起床する。それでもやたら眠いのはどういうわけか。
ぶらぶら出歩いて一日を終える、相も変わらず非生産的な日だった。尤も、人生において、一日を有意義に過ごすことなど、そうそうあるものでもない。大抵は、何事かをなそうとしてまごまごしているうちに年老いていく。あと一歩、半歩にさえ手が届かないものだ。

先日購入した本。奥平康弘他著「改憲の何が問題か」。なかなかいい。

以下はおまけ





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粗野で無思想な倫理主義
今朝の朝日新聞において、北原みのりが相も変わらず頭のおかしさを表明し続けている。正直、ヘドが出そうだ。
何度も言うが、「だらしない」からロリコンが生まれる、などということはあり得ない。折り目正しくしていようが、だらしなかろうが、性的傾向は否応なしに人それぞれ存在する。北原は人間観が徹底的に駄目なのだ。この人物は、自分が散々罵詈讒謗を投げつける相手が、どれだけ深刻に自己のセクシュアリティに対する葛藤を抱えているか、想像したこともないし、するつもりも無いのだろう。結論は最初から決まっている。「駄目な奴」だ。それ以上の思考は存在しない。人格への断罪が全てである。
北原にとっては「鍛え直せば変態は無くなる」のだろうか。ならば、フルメタル・ジャケット式の訓練を受けた海兵隊は、さぞかし模範的な「性」を体現しているのだろう。
人間は社会的諸関係の総体である、と哲学者は言った。この「諸関係」とは、無数の関係性が網の目のように複雑に入り組んだ構造体であり、さらにそこには蓋然的な諸要素までもが含まれる。「よいイデオロギーを持てばよいセクシュアリティが決定される」などというのは公式主義者の妄想である。
文化が<性>に度外れた関心を寄せるのは政治的な頽廃の象徴だ、としたのはレーニンである。これに対し、私は断言する。文化が<性>を拒絶するのは社会の反動化の象徴だ、と。<性>とは人間にまつわる事柄だからである。機械的な理念の物差しがしゃしゃり出る余地は無い。

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これは薬罐ではない
ヒトラーに似た(?)薬罐の広告が話題になっている。写真で観ると、ちょっと吹き出してしまうようなユーモラスな姿をしている。一種のトロンプ・ルイユ(騙し絵)といったところか。この技法を採用した絵画といえば、ルービンの壷、ウサギとアヒルの図(耳が嘴に見える)、少女と老婆の図(これは文章ではちょっと説明しづらい)、アルチンボルドの一連の作品など、枚挙に暇がない。
少し凝ったところでは、うら若い女性が化粧台の前に座っている姿が、実は巨大なドクロの図になっている、というものもある。言うまでもなく、メメント・モリを意識したもので、「美のはかなさ」を示す、絵画の主題としてはおなじみだろう。
ここでは、あるきっかけが意味を転倒させるのだ。堅固な「意味としての世界」が崩壊し、予想もしない姿を垣間見せる契機。この意味の恣意性を追求すれば、「嘔吐」のマロニエの根の話になるだろう。これは意味付けの崩壊に対する不安感であり、絵画でいえばマグリットの「パイプ」シリーズが想起される。
また、多義的な姿を同時に被らせることに着目するのであれば、和歌における掛詞の世界を思い出しても良い。ダブル・ミーニングは音楽の世界でも多くのアーティストが採用している。意味の多層性は、今日の創造行為においても重要な意義を持っている。
さて、件の薬罐の広告だが、流石にこれは幾らなんでも偶然というしかない。「許せない」というような性質のものでもないだろう。「やめてくれ」と一言いえば済んでしまいそうな気がする。

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NO NUKES DAY
6/2はNO NUKES DAY。芝公園と明治公園にて集会とデモが催された。私が訪れたのは日共系の明治公園集会だったが、別に彼らにシンパシーがあるわけではなく、浜松町からテクテク歩いていくのがイヤだったのと、人の多い原宿や六本木界隈を歩きたかったのがその理由である。
デモが終わると、国会前に移動。「大包囲」であるが、中心部から遥かに外れた場所でボケーッとしていても仕方がないので、暫くグルグル歩き回った後に帰宅。
自民政権成立後、「時計の針を逆戻り」というより、尚一層悪い方向に向かっている。これは原発問題だけに限った話ではない。

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課題の貴賎、あるいはブランド力について
なぜ原発に反対するのか。人間の生の営みを圧迫し、危機に陥れるからであるからである。「脱原発」の空手形に踊らされ、某市長のような、いかもの政治家に期待してしまう人が後を絶たないが、そもそもこの点が等閑視されていないか。
例えば、原発さえなければ専制国家でも受け入れるのか。お断りである。私達は原発の無い民主的な社会を求めるだろう。私達はどのように生きたいのか、そこに全ては繋がっている。
TPPに反対する事、戦争に反対する事、生活保護削減に反対する事、児ポ法改悪に反対する事、これら全ては「公権力の都合により、生を圧迫される事」に対する異議申し立てである。
銘柄に惑わされるな。それぞれの課題には固有の切実な問題が孕まれているのであり、決して鼻であしらうべき性質のものではない筈だ。異議申し立ての根幹にあるもの、そこを見据えなくてはならない。
「我は人間なれば、人間的な何事も我に無縁ならずと思う」と述べたのはテレンチウスである。無論、私達は全ての課題に関心を持てるわけではない。だが、「下らない」と決め付けている課題に、極めて大切なものが孕まれている事は往々にしてあるものだ。何度も言う。銘柄に惑わされるな。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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