時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
理性的、現実的
べっとりとした睡魔が粘りつく。今日も不愉快な一日が終わったが、休息まではまだ遠い。

ヘーゲルは現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である、と述べた。私にヘーゲル哲学を理解しえた自信は無いが、世界史を絶対精神の自己実現の過程であると捉えるならば、このような現状肯定論に行き着くのは故なしとしない。
さて、現状肯定論的発想は他人事ではない。こうした思考法は、私達の社会にも幾らでもはびこっている。その根底には「どこかの偉い人が何となくうまいことやってくれている筈だ」という発想があると思う。だが、絶対精神=神の座は空位である。そこに超越的理性は存在しない。
根拠の無い現状追随主義がどこに向かうのか、もはや知らないとは言わせない。
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青年期の残滓
「僕は二十歳だった。それがひとの一生で一番美しい年齢だなどと、誰にも言わせない」
いうまでもなく、ポール・ニザンの台詞である。私が二十歳の時はどんなだっただろうか。つらつら思い出して見ると、PKO、沖縄と、慌しくデモや集会に駆けつけていたような気がする。その結果得られたものが、壮大な無でしかなかったと考えるのは情けない。
無理がたたったせいか、バイト先で腰をぶっ壊したのもこの頃である。人が人を平気で見捨てるという事も学んだ。教訓を全くいかすことなく、同じ失敗ばかりを繰り返しているのはご愛嬌だが。
「挫折こそ青春の証である」と述べたのは高橋和巳だった。本気で物事にぶつかり、挫折し、傷つきながら多くのことを学んでいくのが青年期というものだ。はじめからニル・アドミラリであった人間に、それを論評する資格は無い・・・
多くの人は、ここで生き方の器用さを身につけていくものだと思う。だが、いつまでも青年期の尻尾が切れずに、不器用な生き方を続ける人間も存在する。「もはや憎むことを恐れてはならない」ニザンのこの言葉は、今も私の心を躍らせてやまない。そんな自分自身に対し、苦笑を禁じえない昨今である。

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これは「天罰」ではない
黒沢清の新作が製作中止に追い込まれた。尖閣問題で資金繰りが悪化したためだという。バカが下らん事をやりだしたせいだ。このケジメ、どうつけるつもりなんだ。「俺はもうすぐ死ぬから関係ない」じゃ済まねェぞ。
尤も、私は黒沢清の映画に感心した事が無い。この事はこのブログでも散々書いてきたので繰り返す事も無いだろう。正直、何がいいのかさっぱり判らないのだが、それはともかく愚昧な政治家の思い付き的な行動が、創造活動を妨げていることには怒りを覚える。恥を知れ、といってもあの男は「恥」という観念を一切持ち合わせていないのだろうが。

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仕事もデモもオフだったが、何やら疲れの溜る一日。特に遠出をしたわけでも無いのに何故なのか。やはり夜眠れていないのが原因か。今日も電車の中で爆睡した。詳しくは書かないが、この所心身共に変調をきたしているのは事実だ。色々と無理がきかなくなっているというのもある。
先日見た映画についても書いておきたいが、頭が回らなくなっているので、今日は切り上げる。

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脱被曝へ
幾分調子がいいので、今のうちに昨日のデモの事を記す。
2/23、新宿で行われた福島県集団疎開を訴えるデモに参加。
出発前、同じ場所で集会を開いていた右翼との小競り合いがあったが、そのほかは大過なく進行した。新宿駅周辺を回るコースで、距離的には左程長いものではなく、歩きやすかったと思う。
集会では被災者の方々の切実なアピールが続いた。裁判の行方を注視したい。

直前に参加を決めたため何の準備もしておらず、プラカードも反原発デモの使いまわし。コールの合間にトラメガで自分の言葉でアピールを行っていた。職場が荒んでいたため夜も眠れず、かなりダウナー気味だったが、まあ、参加してよかったと思う。

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福島県民の集団疎開を訴える、新宿のデモに参加。参加人数は600人ほど。
昨日の職場での醜悪極まりないゴタゴタが後を引いて、嫌なフラッシュバックが起きるので、詳細はパス。落ち着いてあれこれ考えていると、却って不安定な精神状態に陥るのである。

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或る殺人を巡る考察
過去に記したノートから。


刑事犯罪を巡る近代の裁判制度は、「弁護の余地のない犯罪というものは存在しない」という原則のもとに成り立っている。無論、被害者にしてみれば、殺してやっても飽き足りない感情というものはあり得る。だが、なべて被害者というものは、被害の軽重にかかわらず、殺してやりたいくらい加害者を憎みつづけるものである。筆者はなにも被害者や遺族を愚弄したいわけではない。人の感情というものはそういう動きをするという一般論である。私自身、いじめを受けた相手を今でもぶち殺したいと思っている。
だからこそ、被害者、遺族へのケアが必要となる。私は、死刑によらない被害者のケアは可能であると考えている。むしろわれわれの社会は死刑制度の存在により、被害者の救済活動を怠ってきたのではないか。

われわれは被害者に成り代わることはできず、その気持ちを代弁することはできない。存在論的に不可能なのだ。被害者を僭称し、やっつけてしまえ、殺してしまえと囃し立てることは、野次馬の自己満足に過ぎず、被害者や遺族を侮辱する行為ですらある。この人たちは傷ついているのだということを忘れてはならない。

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「「カワイイ」と言うのは差別的でけしからんが、朝鮮人差別は大いに結構」、というのがこの国の行政の本音らしい。
気に食わないものを見つけると差別だ差別だと金切り声を上げるバカが罷り通る一方、深刻な社会的差別の現状は一切省みられない。「我々に従わないものは(在日だろうと障害者だろうと)みな差別主義者である」などと公言する狂信者共が目立つばかりである。
「俺は偉いのだ病」を増長させやすいテーマであるのは事実だが、以下の記事は流石に気持ち悪い。何とかならないのか、この市長。
 川崎市の阿部孝夫市長は19日の定例記者会見で、市内の朝鮮学校2校に対する今年度分の補助金のうち未執行の計約300万円で、北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(行方不明時13歳)の父滋さん(80)と母早紀江さん(77)=同市川崎区=の著書などを購入し、現物支給することを明らかにした。北朝鮮の核実験を受けての措置という。(毎日新聞)

※尚、「カワイイ区」に対する私の意見は「くだらん」の一言に尽きている。

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隕石落下地点の近くには、原発があったのか。直撃したら完全にアウトだったろう。
無論、「隕石が落ちるから原発を無くそう」などというつもりはない。それをいうなら、「何かあった場合に、取り返しのつかない大きな災厄をもたらすから、原発をやめよう」とするべきである。尤も、目の前の災厄よりも株価の数字や、無人島の出来事が気になって仕方が無いのが、この国の国民性であるらしいのだが。

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「物自体」を求めて
目は野生の状態で存在する、とはアンドレ・ブルトンの言葉である。厳密にいうと、この洞察は正しくない。まなざしとは、ある種の意味を伴うものである。対象は何らかのシニフィアンとして認識されるといってもいい。「物自体」は認識されないものである。ブルトンの言葉は、こうした意味付与の層を極小化させる「意志」を示したものと理解されるべきである。
すなわち、対象物が通常の「意味」として認識されず、ぐにゃぐにゃした無気味な形態の物体として捉えられる状態、サルトルの言い回しでいえば、「嘔吐」を催す状態である。精神疲労が蓄積した時にこうした状態に陥りやすい。
これを創造活動と結び付けていこうとしたのがダダやシュルレアリストである。その試みは、「意味の恣意性」を問い直す試みでもあった。マルセル・デュシャンのレディ・メイド、マグリットの諸作品はその典型である。「裸体画は女性をモノとして見ている」などと罵言を投げつける連中がいるが、今さら何を言っているのだ。万物をモノの次元に立ち返って意味を再検討するのがこうした運動の動機なのだ。一切を政治的物差しでしか測れない政治主義者のしゃしゃり出る余地など、ありはしないのである。
さらに、「もの」との直接の対話を志向するというテーマを追求すれば、我らが「もの派」の基本理念についての考察を迫られる事になるが、話が大きくなってきたので差し当たりここまでとする。

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<変貌の魔>
日曜だが、急な仕事が入った。行きがけに買い物をするため、早めに家を出る。ふと気付くと、だいぶ時間が余っているため、渋谷の国防軍反対デモに参加。私が駆けつけた時は丁度SKi(制服向上委員会)の歌が終わったところだった。病み上がりでまだ喉が回復せず、また、突発的な参加で何の準備もしていなかったため、黙々と歩くだけの参加者となった。沿道から自称愛国烈士サマが罵声を浴びせかけてきたが、あの後大久保でもなにかやっていたらしい。私は右翼的な心情にはシンパシーは無い。だが、この手合いが国を愛しているのではなく、自分を愛しているだけであるというのはよく理解できる。「エセ右翼」と非難されるのもむべなるかな、である。よくも生きていて耻しくならないものだ。

昨日の隕石話の続き。
埴谷雄高に「隕石」という詩がある。本人は詩的随想として発表したようだが、普通これは詩に分類される作品である。
内容は、埴谷のおなじみの観念、「事物の変貌」の不可避的な宿命を隕石に託してうたったもの。事物は創造的に変貌して行く可能性を秘めており、それは未来へのかすかな希望をも意味するのである。
野暮ったく解説する。埴谷によれば、永劫の虚無も自らを持ち切れずにやがては微光する。同じように、現在ある社会体制も絶対のものではなく、やがては変貌し行く契機を秘めている。「放っといても変わるからいいや」というのではない。「絶対的に磐石なものではない」という趣旨である。
尤も、こんなくだくだしい解説を気にするよりも、埴谷の詩的イマジネーションをまずは感受した方がいい。詩を読むというのは本来そういう行為だからである。

燃えがらよ
燃えがらよ
いま在るべきものの来たるべきかたちの
孤独な、小さな予言者として横たわっている
燃えがらよ
(埴谷雄高「隕石」より一部抜粋)

130217

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まぼろしの空爆
風邪引きから二週間経過。熱は引いたが、まだ喉が痛い。

ロシアに遊星爆弾が落ちたとか。破壊力は相当なものらしい。図らずも「宇宙戦艦ヤマト2199」のリアリズムが立証されてしまった。
隕石といえば、モーリス・ルブランの小説で隕石が題材に使われたものがあった。これを詳しく話すと激しくネタバレになるので、詳述できないのが残念だ。
・・・と言ってみたものの、このブログは基本ネタバレ上等だし、思わせぶりに記してもどうせ誰も読まないだろうから思い切って解説する。タイトルは「二つの微笑を持つ女」。南洋一郎訳では「まぼろしの怪盗」となっている。多くの観衆の見守る中、一人の歌手が射殺される。迷宮入りとなった事件を、遂にルパンが解決。真相は・・・あり得ない偶然による、小型隕石の衝突による事故死だった。
小学生の頃に南訳で読んだ時は、かなり鮮烈な印象を持ったものだが、元の作品はあまり評判が良くないらしい。南は大胆に余計な部分を削除、編集してしまったようだ。その結果、少年期の私の心を強く捉える事となったのだから、皮肉なものだ。読み返す度に空が不気味に思えたくらいである(「空が笑っているようだった」という記述があった)。やはり冒険小説の大家・南洋一郎は偉大な人なのだなと改めて感心する。

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気だるい起床。体温を測ると38.2℃。よって薬を飲んで出勤。解熱剤の効果は覿面で、仕事中は全く症状が気にならず。ただ、頭が全く回転しないので、立て続けの失敗をする。仕事が片付かないため、今日も深夜0時近くまで残業。実質残業代無しと同じなので、とっとと辞めてしまいたいが、再就職の目途が全くつかないため思案中。
帰宅中に再び悪寒がぶり返す。緊張感が解けたせいか。大きな反動が来そうな気配。

高見順の劣化版みたいな記事が続くが、改まったことを書くほど頭が回らない。

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昨晩に引き続き、深夜の帰宅。仕事がいつまでたっても終わらない以上、どうしようもない。
昼過ぎから微熱が起こる。断続的な咳が続いているのは相変わらずだが、本当に風邪なのか。
少しでも休息を取りたいので、もう寝る。

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残業で先程帰宅。給料には影響しないのがバカバカしい。
特に書き記す事も無いが、風邪が治らないのはどうしたわけか。

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これが俺達の世界
考えるとバカバカしくなってくるのだが、一応記しておく。
昔、フランス核実験の抗議デモに参加した際、なぜか同時期に行われた中国の核実験には言及する事が無かった。おかしいんじゃないかと提起したところ、「あらゆる国の核実験に抗議するぞ」というコールが加わった。このスタンスは正しい。良い核実験など存在すべくも無いし、全ての国の核実験に反対し、抗議するというのは当然である。
だが、よその国の出来事には半狂乱になって(喜び?)踊り騒ぐ一方、自分の国の莫大な核汚染についてはパッタリと口を閉ざすのが今日の日本における責任ある態度であるらしい。さらに、あらゆる社会問題に先だって、有罪かどうかも判らないセコい脅迫文事件が天下の一大事であるらしい。猫カフェに行ったことや、PCを自作する事が、人類に対する敵対行為に匹敵する事柄であるらしい。
社会が壊れるとはどういうことか、情けないことに、その一例を私達は目の当たりにしている。

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近代的理性の桎梏について
3日前の記事の続き(?)
いつの時代にも、美の公式を定めたがる者たちは存在する。例えば、道徳律に則った「美の秩序」といった具合である。そこでは規格に合わない新しい方法論や、個々の作家達の意思は徹底的に排除すべきものとされる。あくまでも、定められた価値体系だけが重要なのである。それは近代的理性と同義であった。
教条主義者たちは、これらの価値体系は人類が長年にわたって作り上げた成果であって、揺るぎない真理であるとする。だが、「支配階級の思想が支配的である」というエンゲルスの言葉に見られるように、これらの「真理」は極めて恣意的なものである。あくまでも約束事なのだ。それは近代的理性に対する根本的な問いかけをも意味した。
例えば、「性」とは近代的理性に対する侵犯行為である。それは人間が予定調和的に、合理的に設計された存在ではないという事を明らかにしてしまう。究極的にはサドの作品に観られるように、壊乱のアナーキズムにすら繋がるだろう。だが、文化活動に必要な事は人間を知る事、考察する事であり、人間を規格化する事ではない。

この時期の作家達がこうした思想的潮流にどの程度自覚的だったかは判らない。だが、その時代の雰囲気を鋭敏に感じ取り、体得していた事はまぎれもない事実だったのである。

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頽廃しているのは誰か
仕事の後、2時間ほどダベくって帰宅。体調は幾分いいが、まだ完全ではない。

会田誠展を巡る言説に、この国の文化レベルの貧困さを思い知らされる。
まず、出来の良し悪しに関わらず、創造活動の自由は保証されなくてはならないということがひとつ。そしてもうひとつは、美術、芸術というものの根本的な理解に纏わる事柄である。
清く正しく美しいのが美術ではない。芸術は嫌ったらしくなければならないと述べたのは岡本太郎だが、「何だこれは?」「どうなっているんだ?」と心の底から震撼させるもの、平たく言えばガツンとくるものが芸術である。これを理解しない道徳教徒が「芸術の概念が右傾化によって歪められている」などと、訳知り顔にワメき散らす。この者達にとっては、良いプロパガンダこそが良い作品であり、そうでない物は全て「反動」ないし「反革命」と言う事になるのだろう。卑劣極まりない公式主義者の残党共、恥を知れ。

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昨日の続きをのんびりと書こうと思ったが、仕事のため夜遅く帰宅。体調も回復しないため、後日に委ねる事とする。19世紀から20世紀初頭における、近代主義批判のようなことを書こうと思ったのではあるが。
下らない内容なので、書かなくてもいいという批判はごもっともであるが、いわば、精神の均衡を保つための運動のようなものである。ご容赦願いたい。
尚、土日の仕事はクビになりそうだ。

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神話から現実へ
たまたまモディリアーニについて少し調べていた。特に理由があったわけではない。だが、次の伝記的記述が目をひいた。晩年の事、彼が初めての個展を開こうとしたところ、裸婦画に陰毛が描かれていたことが原因で警察の取り潰しにあったという。何だよ、ここでもそんな話ばっかりか。
一般にヨーロッパ古典美術において、裸婦を描く時は大抵神話的なモチーフや、オリエンタリズムの伝説的世界の中に題材を求めたものである。つまり、これらを一種の隠れ蓑として、アリバイ的に利用していたわけである。エドワール・マネが「オランピア」で叩かれたのは、娼婦を描いたためであった。ゴヤの「裸体のマハ」という先例もある。こうして19世紀においては、神話的な衣裳を取り払った、生身の存在としての裸婦像が描かれることとなったのである。
神話化は、出来事を彼岸化する。私達の現実とは異質の存在として、絶対的な断層がそこに設けられる。安全圏の彼方にあるというわけだ。だが、こうした分断操作が臨界点に達したのが19世紀においてであると思われる。美術の主題に「現実」が立ち表れたのだ。鋭敏な作家達は、いち早くそれを嗅ぎつけた。マネの「アプサントを飲む男」はその一例である。
(この記事続く・・・と思う)

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頭痛が酷いので、今日は寝る。それにしても、島根県のダビデ像騒動。「パンツをはかせて欲しい」とは恐れ入った。サルマタをはいたダビデの姿は、さぞかし健全かつ文化的なことだろうと思う。

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「創」三月号が発売されていたが、レジの行列に並ぶ気力が無かったため、購入を断念。
ちょっと見たところ、AKB写真集騒動の記事と、昼間たかしの「黒子のバスケ」の記事が目をひいた。いずれも、規制、取締りを自明とする風潮に異を唱える内容である。

過去のユートピア主義者達のテクストを繙くと、完璧な理想社会の姿は徹底した管理体制と、モノを考えない人間の大量生産によって成立しているものである。これについてはいずれ詳述したいが、このアイロニーは決して他人事ではない。「あいつらはバカだから失敗した。自分達はお利口だからうまくいく」などと大きな口を叩く運動家に未来などありはしない。

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断章
風邪が長引いている。ちょっと無理をしたためか、症状が悪化した。うまくいかないものである。


猥褻なる物が存在するわけではない。猥褻と思う意識が存在する。世に言う猥褻とは、或る種の社会的関係である。関係性の内で規定されるとなれば、それは極めて恣意的な概念とならざるを得ない。よって「猥褻、なぜ悪い」という問いかけには明確な回答は存在しない。

絵画史上、女性を最も冒瀆的に描いた画家といえば、パブロ・ピカソを措いて他に無い。「アヴィニョンの娘たち」以上に攻撃的、かつ冒瀆的なタブローが他にあろうか。そしてそれは、偉大なる讃歌でもあった!
あるいは近々展覧会が催されるフランシス・ベーコンでもいい。人体を醜悪に歪めて描くこの作家に、件の自称人権主義者共が噛み付いたという話を寡聞にして私は聞かない。

政治主義者達は、自分達の活動があらゆる価値を規定する資格を持つと思い込む。つまり彼らは、人間の諸活動全てを統御する叡智に達したかのように振舞う。だが、我々は埴谷雄高の言葉を噛み締める必要がある。「政治の幅は生活の幅よりも小さい」

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諧謔の小宇宙~会田誠展
レスリー・キー逮捕の話も語りたいのだが、今日は会田誠展の感想を記す。
諧謔とユーモアに溢れる、人をくった様な展覧会で、なかなか楽しめた。この精神は「天才でごめんなさい」という表記にも表れている。自分から天才と名乗るのはバカか冗談かに決まっている。とことん挑発的にふざけきって見せている作者の姿勢は明白だろう。

或る意味評判になった「犬」シリーズは作品数も多いわけではなく、澁澤龍彦文化圏に触れた人なら、なあんだと拍子抜けすること請け合いである。「バイオレンスジャック」の「人犬」を思い出した人も多いだろう。佐伯俊男の作品にも通じるものがある。このように先例のある主題だが、別にその事は作品の価値を下げるものではない。どちらかというと私の好きな作品でもある。
この展覧会で印象深いのは大作絵画で、評判の「滝の絵」や、「ジャングル・オブ・100フラワーズ」は、確かに圧巻だった。「巨大フジ隊員」、「美しい旗」、「ジューサーミキサー」も忘れがたい。
マンガ作品「ミュータント花子」は駕籠真太郎のマンガ(「アイコ十六才」とかあの辺)みたいだったが、どちらが先だったろうか。
風刺、ユーモア、遊戯性、エロス、どこかに定位置を定めることなく、逸脱を続けるのがこの人の特質といえるだろう。ある意味空虚ともいえるその特質が、これから先も持ちこたえうるものであるかはわからない。だが、この息詰まるほど窮屈な時代に対抗しながら、よく頑張っていると思う。例の騒動はその副産物ではあるとしても。

kangaenai

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正義の人々
会田誠展の感想をまったりと書こうと思ったが、色々雑音が激しくなってきたので、こちらを先に記す。

澁澤龍彦によれば、ポルノグラフとはそもそも語源的には売春研究家もしくは売春学者の謂いであるという。そこには道徳的に貶下するような意味合いは無い。やがてこの言葉の定義は時代と共に変遷する。今日、ポルノグラフィーという場合、それはエロティックな表現ジャンルを意味し、それ以上でも以下でも無い。そして、あらゆる創造活動と同様、優れた作品は優れているし、つまらない作品はつまらないというしかない。これはオスカー・ワイルドの指摘するとおりである(尚、本日の私の記事は創作物に関するものである)。
しかるに一部の論者においては、ポルノグラフィーとは人類の根源悪であり、必ずや根絶やしにし、痕跡すら残さないまでに撲滅しつくさなくてはならない存在であり、地球上のありとあらゆる悪を凝縮した存在であり、思考の片鱗にすら残してはならないものらしい。
私はこの種の論者に<狂気>を感じずにいられない。丸山圭三郎の言い回しを借りれば「強すぎる物象化によって表層意識に停滞する状態」であり、「硬直した価値体系に閉じこもって自己懐疑の回路を断ち切っている人びと」である。丸山はこうした状態を「第三の狂気」と呼んだ(第一、第二については煩雑になるので略す)。「この狂気は、一切の批判、一切の価値基準の変革、一切の体制への変革を認めない硬直化をその特徴とし、自らを伝統擁護者と信じ込む」(丸山圭三郎「言葉・狂気・エロス」)
「伝統擁護者」を「人権擁護者」と置き換えれば、丸山の指摘は会田誠騒動にそっくり当てはまる。自らのうちにソ連の収容所体制や、カンボジアのポル・ポト体制の戯画を見出せないようなら、運動に携わる資格などありはしない。もっとも自らを真理の体現者と信ずる当人達は、鼻で笑い飛ばすのだろうが。

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風邪を引いたためか、朝方から悪寒がする。昨日勤務中に体調が急変し、大事をとってはいたのだが、ダメな時はダメなものだ。とりあえず薬を飲んで仕事に向かう。殆ど仕事らしい仕事にはならないのではあるが。
ついでに六本木まで足を伸ばし、会田誠展を観る。感想は体調が回復してからにしたいが、なかなか良い展覧会だった。
悪寒がおさまらないので、今日はこの辺にする。

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一抹の不安
キャプテン・ハーロックがCGアニメ映画として製作されているらしい。今秋に公開されるという。この所、頻繁に松本零士の話題を取り上げてきていたのだが、どうも人の考える事は同じようなもののようだ。
マンガ版のハーロックはトチローの墓参りを終え、マゾーンと決戦に打って出るところで未完。アニメ版は大山まゆを軸にうまく作って完結させていた(このまゆというキャラクターについては大いに語るべきところがあるのだが、別の機会にする)。
尤も、マゾーン虐殺の件りは両者共にいただけない。ミシェル・セールの言い草を借りれば、この手の作品には「右のページ」と「左のページ」が共に存在するものである。愚昧な教育論者は、それを根拠にこうした作品に規制をかけようとして憚らない。ファシズムや残虐性の温床になるというわけだ。だが、文句をつけながら楽しむのも作品鑑賞のあり方である。そしてその上で作品を「善用する」地平に至れば、もって瞑すべしである。
で、なぜこのたびフルCGアニメという冒険に打って出たのか全く理解できず、こちらとしては当惑するばかりである。率直に言って、ただただひたすら危険な匂いをかぎつけてしまうのだが、どうしたものか。CGをやたら売り物にすると、FFだのキャシャーンだの、ゴエモンだのといった珍作が想起され、監督の荒牧伸志はともかく、脚本の福井晴敏には「うーん」という、ネガティブなイメージが先行してしまう。
私はハーロックシリーズは「SSX」、OVAと、殆ど全て観ていると思うが(「ラインの黄金」はマンガ版のみ)、とにかく残念な結果だけは残さないように願いたい。文句しかつけられない作品というのは流石に願い下げである。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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