時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
大晦日に思う
年末にあたり、今年を総括といきたいところだが、グダグダでどうしようもない。ちょっと前の話になるが、今年の漢字は「金」だという。どういう経緯でこの一文字に決まったのかは知らない。「世の中に金と女は敵なり どうか敵にめぐり合いたい」といったところか。
恒例の「今年のベスト・ワースト映画」は今年は無し。劇場で観た新作映画が6本ではベストもへちまも無い。ただ、出来栄えはいずれも良質のものばかりである。タイトルを以下に列挙しておく。

・3.11
・海燕ホテル・ブルー
・先生を流産させる会
・宇宙戦艦ヤマト2199 第三章
・11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち
・ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:Q


私生活、社会の両者に及び、今年はかなりきつかった。ただ、その中に貴重な出会いもあったのは事実である。来年も相当厳しくなりそうだが、取り敢えず生きていくしかない。

スポンサーサイト

テーマ:映画関連ネタ - ジャンル:映画

ヱヴァの逆襲
いつまで放っといても仕方が無いので、年を越す前に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の感想を記す。作品の性質上、ネタバレなくして何も語れないので、一通り内容を語ることにする。ご容赦願いたい。
舞台は前作から14年後の世界。前作のラストにおけるシンジの行動により、サード・インパクトが誘発され、人類の大部分が死滅、シンジはそれ以来昏睡状態に陥り、本作の序盤に漸く覚醒する。ミサト達の「ヴィレ」とゲンドウ達のネルフとの敵対、綾波の救出失敗など、シンジは現在起こっている事態に対し満足な説明も与えられず、周囲の冷淡な態度にただ混乱するばかり。決定的に孤立するシンジは、迎えに来た綾波(例の三人目)に連れられ、父親やカヲルのいるネルフ跡地に向かう。
カヲルとシンジは失われた世界を回復するために、セントラル・ドグマにあるロンギヌスとカシウスの槍を回収しようとするが、アスカとマリに妨害される。死闘の末、槍を引き抜こうとするシンジに、カヲルはこれが罠である可能性を指摘する。だが、贖罪の意識に取り付かれたシンジは耳を貸さない。結果、フォース・インパクトが誘発され、カヲルは死亡。駆けつけたアスカとマリにより、フォース・インパクトは辛うじて阻止されるが、シンジはショックで立ち直れない。エントリー・プラグ内で蹲っているシンジをアスカは強引に連れ出し、綾波を含めた3人で去っていく姿で映画は幕を閉じる。

正直、あらすじを読んでもわけが判らないと思う。だが、実際に劇場で観ても、あれよあれよなのだ。これは製作者が、観客をシンジと同じ立場に置こうとする意図が働いていると思える。シンジも現在の事態を充分に把握できないまま、ヴィレとネルフに振り回されていた筈だ。
物語の謎解きをする頭は私には無いし、「帝国の逆襲」ばりに途中で終わってしまっているので、何を語っても憶測にしかならない。よって、ここでは人間劇としての感想を記す事にする。
多くの場合、「エヴァ/ヱヴァ」のファンはシンジ達に自分の似姿を見出していると思う。私も例外ではないのだが、今回の劇場版でも、それは付き纏ってくる。なかんずく、シンジが周囲から徹底的に拒絶されている有様には「あー、こいつまた私と同じことやってるよ」という思いがした。シンジの場合は幾らなんでも理不尽だが、「空気を読めない」ことに対する、むき出しの悪意は私にも覚えがある。明言はしなくても、「イラつく」「何かムカつく」という感情は、必ず物腰に表れる。「知るかバカ」と言い返してやりたいところだが、まあ、それは取り敢えずはいい。
周囲のシンジに対する態度は、あくまでも罪人あるいは被検体に対するもので、対等な人間としてのそれではない。殆どイジメや虐待に近いが、ミサトの場合はやや微妙である。彼女はどうもシンジに感情移入しないように、無理をして突き放している節がある。去っていくシンジを殺せなかったのはその証左で、続編でどのようにそこが描かれるか気になるところである。
気になる点がもうひとつ。14年という時の経過を信ずるならば、アスカは28才くらいになっている筈である。しかし、彼女の性格には成長の後がみられない。「ガキシンジ」と罵倒するほど、彼女は大人にはなっていないのである。肉体的な成長の停止は物語の内部で「呪い」として説明されているが、精神的な成長が止まっているように見えるのはどうしたことか。何か狙いがあるのか、この点も謎のままである。
謎を謎のまま丸投げして終わった本作であるが、作劇にしろ、謎解きにしろ、次回作で纏め切れるとは思えない。さらに延々と話が続いていく可能性もある。個人的には作品のクオリティが下がらなければそれもありかと思うが、表現規制問題でパアにならないことを祈りたい。

テーマ:最近見た映画 - ジャンル:映画

或る異論
「警察庁が「北朝鮮に拉致された可能性が排除できない」として捜査・調査の対象としている人が全国で868人(11月1日現在)に上ることが28日、分かった」(毎日新聞)

一連の拉致事件が、数の多寡に関わらず、許されない国家犯罪である事はいうまでも無い。だが、今回のこの発表は、いたずらに憎悪感情を掻き立てる役割を果たしている。少なくとも結果論としてはそうといえる。折りしも、朝鮮学校の無償化問題が取り沙汰されている最中である。
不祥事が起こるたびに警察批判を繰り返してきた一部の人々は、朝鮮・中国といった文言が絡むと都合のいい情報を信じたがる。そこにおける批判精神の欠落は驚くばかりである。こういうときだけは信用するというわけである。
毎日新聞のニュースでは、「今回明らかになった868人の中には判断のつかないケースも含まれるとみられる」と記されているが、この但し書きはどこまで人々の意識に届くのだろうか。「868人が拉致された」という、扇情性のみが記憶されてしまうのではないか。犯罪の性質として、数が少なければ減責されるという事は無い。だが、数が多ければ憎悪感情は増幅する。現在も、ネット上では「解決=やっつける事」として、むき出しの憎悪が煽られている。この雰囲気は小泉訪朝の後に私達は散々目にしている。だが、こうした憎悪感情は、真相解明や生存者の帰還には何ら寄与しない。
少なくとも、この問題が解決しない事で、持続的な票を獲得できる人たちが存在する事は間違いない。私達に必要なのは「解決」であり、特定の為政者や権力者を利することではない。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

周囲からのあからさまな蔑みと嫌悪の感情に晒され続けたため、かなり精神的に不安定な状態に陥る。同時に不器用な自分自身に嫌気がさし、グチャグチャになる。折角友人達から忘年会に誘われたのだが、こんな状態のため怏怏として楽しむことなし。眠ろうとするとうなされそうなので、もうしばらく起きていようと思う。
モジモジ先生釈放の件、及び一人起訴された件など、書くべき事は色々あるが、落ち着いてからにしたい。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

「刃物のやうな冬が来た」
もうすぐ仕事納めなのだが、そろそろ職場のパワハラが限界に近付いている。どうしたものか。
それにしても、身を切るような寒さが続く。「きりきりともみ込むやうな冬が来た」というのは高村光太郎の詩句であるが、「冬よ 僕に来い」と言ってのけるような自信は私には無い。
私は高村の良い読者ではないが、印象深く記憶に残る作品は多い。「ぼろぼろな駝鳥」などは、現代でも生々しさを放っている。尤もこれは、私達の社会が高村の青年期と比べて何ら変わっていないことの証左かも知れない。人々の自由な意思を摘み取ろうとする社会構造は、今も尚、存続しているのである。
モダン・ボーイである高村が、「天皇あやうし」の地平に躓いた事は、多くの議論の的となっている。これ程の強靭な意志力を持っても封建制の桎梏は、容易に抜け出せないものらしい。彼がこの「聖なるもののリビド」から抜け出すまでには、尚多くの時間を必要とした。
敗戦後に彼が徹底した自己批判を己に課し、妥協無い姿勢で自己と向き合い続けた事には注目したい。うまくは言えないが、ここには何か人間にとって重要なヒントが示されているように思える。

テーマ:本読みの記録 - ジャンル:本・雑誌

危機への突進
「危機突入内閣」が発足したらしい。参院選を乗り切った後には憲法改悪、国防軍創設に乗り出すという。

だいぶ前に「映画 日本国憲法」(監督:ジャン・ユンカーマン)というものが公開された。地元での上映会を私も手伝ったことがある。内容は憲法を巡る発言集といったもので、映画としての出来栄えはどうかと思うが、語られている内容は凡そ頷けるものであった。
護憲派のご多分に漏れず、私は一条から八条の天皇条項については改憲派である(ちなみに第一条にはさりげなく国民主権が埋め込まれている。これは豆知識)。つまり、下らない「壊憲」をされるよりは現行憲法の方がいいという立場から、これを支持する。むしろ、その他の部分は実によく出来ているのだ。このブログでも、過去に、人身の自由についてのレポートを纏めたことがある。思うに、現憲法は充分に活かされていない。これを私達を守る武器として活用する事の方が、有意義な行為であると思う。
チョムスキーが皮肉を込めて次のような内容を語っていた。「日本は「普通の国」になれる。満州事変のように、自作自演の謀略で戦争を仕掛ける野蛮な行為を行えば、「普通の国」になれる。所詮、「普通の国」などというのは、そういうものなのだ」
普通の国というのは凡庸な国と言い換えてもいい。飛行物体をぶち上げて騒いでいる国とどう違うのか。そして利益を得るのは1%である。貴方達は経団連のために、人としての権利や生命を捧げられるか。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

匹夫モ志ヲ奪フベカラズ
中沢啓治が亡くなった。「はだしのゲン」は小学校の学級文庫にあったと思うが、ついに読まずに来てしまっている。高校生ぐらいの時にアニメ版をテレビ放映で観た程度である。どうも「名作」となると敬遠したがるという天邪鬼な性質は、生来のものらしい。
それでも、幾分かのエッセンスは掴み取る事は出来たと思う。私はアニメ版第二部の少年達の話が面白かった。「ゲン」を「カラマーゾフの兄弟」の少年達のエピソードと重ね合わせていたのは大江健三郎だが、この点に関しては卓見だと思う。ここには力強く生きようとする、少年達の普遍的な世界が描かれていた。映画や小説でもそうだが、ある種の作家達は子供達の話を描くとやたら活き活きするものである。この点は考究の余地がありそうだ。
「映画秘宝」のインタビューでは、確か「ヨーロッパ編」というものも構想されていた筈である。その意味では志半ばといえるのだが、志は次の世代が引き継げばよい。方法は様々である。表現活動を選ぶなり、社会参加を選ぶなり、それぞれの方法で行えばよい。そして、それをさらに次の世代に引き継いでいくことだ。その意味でも、文化活動は資本の道具であってはならない。

チョムスキーの「アメリカを占拠せよ!」(ちくま新書)を購入。読み終えたら感想を書くつもり。
新書で思い出したが、ちょっと前に祖父江孝男が亡くなった。「文化人類学入門」ではお世話になった。それも遥か昔の事である。年を取るわけだ。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

壊れものとしての社会
「巨神兵東京に現わる」という短編映画がある。「ヱヴァQ」と同時上映されているので、ご覧になった方も多いと思う。ストーリーは単純で、「ナウシカ」の巨神兵が突如現代の東京に現れ、町を焼き尽くすというもの。
物語の背景は一切説明されない。不条理な破滅が日常生活の中に突如訪れ、一切の生と希望を叩き潰していく。サード・インパクト後の世界を描いた「ヱヴァQ」の舞台設定とシンクロするものとなっているが、むしろ震災後の私達の記憶と繋がるものがあるように思える。震災直後、私は世界の終わりを感じた。誇張ではない。暗闇の中、ガスタンクの炎上する光景は今も忘れない。勿論、原発事故にまつわるものもこれらの記憶の内に含まれるのは言うまでも無い。
「ゴジラ」が原爆と戦争のメタファーであるなら、「巨神兵」は震災(と原発)のメタファーである。堅固なものと思えた世界が、実は脆弱でもろいものであるという事実。考えてみると、これは物理的な事柄に限らないような気もする。
例えば、民主主義という制度がある。今日、人類にとって最も普遍的に価値あるものとして普及した社会制度であるが、今その原則が根底から破壊されようとしている。どこか別の国の話ではない。この日本という国においてである。「巨神兵」との違いは、これが予め予測され、人々の意識から起こるべくして起こる出来事であるという点である。慌ててからではもう遅い。

テーマ:最近見た映画 - ジャンル:映画

「弾圧を自粛しろ」
二日酔いだが、サワードリンク二杯で今現在も頭が痛いというのは、どうもおかしい。この所急激に酒が弱くなったが、肝臓がやられているのか?普段全く飲まないのだが。

一応、アルタ前の出来事を記しておく。昨日、アルタ前ステージにて福島チャリティイベントが行われた。なにやら騒々しかったので、気付かれた方も多いと思う。
私も反ACTA/TPPチームとして少し遅れて足を運んだ。到着すると、ちょうどいつもの如くACTA反対、TPP反対のコールを上げるパフォーマンスを行っている最中である。皆で熱くコールを唱和した。だが、これが終了した際、「政治的なアピールはやめるように」という指示がなされた。警察の通報により、ステージ管理会社がクレームをつけてきたということである。普通逆だと思うが、最近この手の話が多い。「黒子のバスケ」の時も似たようなものだ。まずは警察が通報し、会場管理者を揺さぶって圧力をかける。直接取り締まれば露骨な言論弾圧となるので、間接的な規制に乗り出すわけだ。モジモジ先生のケースもこれと近い線が考えられる。
取り敢えず、横断幕を下げる形で形式上の妥協はしたが、こんな事は認められないという意思表示を皆で行った。また、その後もクレームなどどこ吹く風と、原発反対、TPP反対、のメッセージソングを歌い続け、私達のチームはイベントを終えた。
選挙で自民党が大勝した途端、これである。嫌な後味が残ったが、私達の訴えてきた言論弾圧の危機が、まさに可視化された場面だった。その意味では収穫はあったかもしれない。危ない核、アブナイカク、アベナイカク、安倍内閣。

CAW29YPF.jpg

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

家畜化を拒絶する
今日は仕事。午前中から雨に見舞われたが、昼過ぎには上がり、寒いながらも落ち着いた天気になったようだ。杉並の「年末ジャンボデモ」も滞りなく行われたらしい。
友人に頼まれて軽く法律事項の調べものをする。この所、日々の業務に追われて全くこういう時間を取れなかった。人としてのあり方において、かなり危機的な状態と判断する。動物的な生活が続いてしまっているので、少し対策を練っておきたい。私に限った話ではない。モノを考える余裕の無い生活が、人々の精神を蝕んでいるのは事実だろう。この国では、「健康で文化的な生活」など、まるで保障されていない。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

14万8000光年の孤独
選挙も終わり、一段落したところで、暫く放ったらかしになっていた「宇宙戦艦ヤマト2199 第三章」の映評を掲載する。だいぶ前に記したものである。運動がらみの話題ばかりでは、流石に息苦しくなるので(「ヱヴァQ」のレビューも近々掲載するつもりだが、こちらはちょっと消化不足)。

本作は前作の冥王星決戦の後を受けて、太陽系離脱から、次元断層(宇宙のサルガッソー)のエピソードまでを描いたもの(結局「アステロイド・ベルト」は出てこなかった)。全体のストーリーの中盤に相当する。
ロボットであるアナライザーの「人間性」をテーマにしたくだりが要となっている。本作のアナライザーは旧作のようなスカートめくりは行わない(私は全く覚えていないが)。これには下らない「大人の事情」が関わっているらしい。「非実在犯罪はけしからん」というわけだ。代わりに置かれたのが本作のエピソードである。
AIと人間性というテーマはSF作品ではおなじみのテーマ。これらは「科学がどこまで迫れるか」というより、「人間を人間たらしめるものは何か」というのが真のテーマであるので、念のため申し添えておく。
話の内容はガミラスのロボットとアナライザーの交流と悲しい別れを描いたもの。劇中劇を巧みに活かした点もさることながら、アナライザーのちょっとした仕草に寂しさや哀しみがよく表れているところが実にいい。結果的には旧作以上に人間臭いアナライザーを見ることが出来た。

終盤の次元断層からの脱出シーンは、かなり甘いものとなっている。つまり、ワープ中に次元断層にはまり込んだヤマトとガミラス艦が、一時的に協力して脱出を図るというもので、戦争のリアリティーから考えればかなり苦しいものとなっている。
製作者は、純血ガミラス人と二等ガミラス人(つまり植民地人)との確執を根拠に乗り越えようとしているが、書き込み不足の感は否めない。二等ガミラス人が「ガミラスのためには死ねない、地球人と協力する方を選ぶ」とするくだりをもっと強調する必要があったのだ。尤も、この辺りは後のストーリー展開でも挽回は出来そうなので、そちらに期待したい。尚、旧作ではこの場面、窮地のヤマトにスターシャがエネルギーを送るという、御都合主義的な展開になっていたと思う。
重要な点がもうひとつ、ガミラス側の主張によれば、先に戦争を仕掛けたのは地球人であるという。ここが後の話にどのように結びついていくのか、目が離せない。この主張が事実であるとすれば、先の展開も大きく変わってくる筈である。

以前にも記したが、ディテールのこだわりは並大抵ではない。ガミラスが戦死者の遺族に手当てを支給している点など、思わず感心させられる。フレアを波動砲でぶち抜く場面、ガミラスの捕虜を殺害しようとするくだり等、旧作の重要エピソードも本作で(一部形を変えながら)消化されているので、40代前後の旧作ファンの期待にも充分こたえる出来映えとなっていることは記しておきたい(私は再放送で育ったヤマト第二世代)。食わず嫌いは勿体無い。

尚、年末ジャンボデモは体調が充分でないのと、仕事があるため見合わせる。しかしひどい雨だが、高円寺は大丈夫か?

テーマ:最近見た映画 - ジャンル:映画

民主主義の神話
テレビも特番が続いているらしく、年末気分が押し寄せているが、モジモジ先生こと下地真樹氏のの拘留はいまだ解けず。「根拠無き拘留延長」という異常な事態が続いている。この国は擬制としての民主制さえ完全にかなぐり捨てた感がある。
イラク戦争の際に、「日本には曲がりなりにも民主主義の歴史があったので、戦後統治がうまくいった」という言説が流布された。しかし、今考えてみるとこれは疑わしい。「決められた事にはおとなしく従う」という国民性があったから、占領政策もやすやすと運んだというのが正解のように思える。日本の民主化は、まだ途上にある。

不細工な選挙が一段落し、再び反原発、反TPP、反改憲といった「民主化運動」も復活している。勿論、これまでとやる事は変わらないのだが、同じことを繰り返せば参院選で同様の徹を踏みかねない。このままでは「やっぱりダメだった」「何をやってもムダ」、という諦めが益々蔓延していく事になる。運動の流れをどのように発展させていくかが私達の課題である。
私達は、空想的なユートピアを求めているわけではない。反原発にしろ、反表現規制にしろ、素朴かつ当たり前のことを実現したいだけである。それが国を挙げて否定され、犯罪というおどろおどろしいイメージと共に喧伝されてしまう。それがこの社会の姿である。歴史は一朝一夕には動かない。だが、当たり前のことに何百年、何千年もかけなくてはならないというのは、いくらなんでも醜悪ではないだろうか。実にやり切れない。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

マヤ・・・恐ろしい暦!
マヤの暦というものが話題らしい。ノストラダムスに続き、よくもこんな話題を引っ張ってくるものである。ほとほと感心せざるを得ない。
ノストラダムスことルネサンス詩人ミシェル・ド・ノートルダムについては過去に触れた。どうも人間は、やくたいもない終末幻想に心惹かれるものらしい。必要なのはきっかけだけである。マヤ暦とやらは格好の素材を提供してくれているわけだ。
実を言うと、人類が滅亡するイメージを具体的に描く事は左程難しくない。チェルノブイリ、福島級の原発事故が次々に起これば地球は「終了」する。終末というのは人々が想像している以上に身近な問題でもあることは指摘しておく。

ヴィジョンとしての終末論が、美術、文学作品に多くの素材を提供してきた事は周知の事柄である。
世界の終わりにまつわる幻想は、古より連綿と語り継がれてきた。巨大彗星が舞い来たり、三つの太陽が空に輝き、突然変異の怪物が最後の日が到来した事を告げる。やがて天空の扉が開き、裁きの雷が轟き渡る、云々。
中世・ルネサンス期の文献を渉猟すれば、こうした記述にはしばしばお目にかかる。そもそも聖書の黙示録が、終末論的な幻想を描いた作品だった。
美術的なテーマはともかく、なぜ人々は終末論に走りたがるのだろうか。背景としては、社会の行き詰まりを目の当たりにしたことから、一旦全てを御破算にしてやり直したいという願望があると思う。つまり、破滅と再生というテーマである、宗教的な終末論にはこの系列が多い。一部の戦争待望論などはこのバリエーションといっていいかもしれない。
一方で、うんざりだ、もう終わりにしたいという願望も存在する事は事実である。こちらは自殺願望の変形といっていいかもしれない。世界を道連れにして、何もかも終わりにしたいというところだ。つまり「心中」である。
私は文学的なイマジネーションとして以外にはオカルトには一切関心の無い人間である。だが、「うんざりだ、もう終わりにして欲しい」という終末願望には、生々しさを覚える。虚無の顎はいつも足元に口を開いている。
人類はそろそろ滅亡した方がいいのかもしれないが、汚辱にまみれ、虫けらのように苦しみ抜きながら死んでいくのは悲しいことだ。人生に何か希望があるというわけではないが、差し当たりはまだ終わりたくはないなという思いは残っている。そうやって、今日も生きている。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

「無関係」な人々
昨日の続き。
「ヒロシマ・モン・ナムール」のヒロインは、「私はヒロシマを見た」と語るが、「君は何も見ていない」と指摘される。太陽と死は見つめる事が出来ない。絶対的な出来事は、如何に目を凝らそうとも「見た」という経験には至らない。私達に出来る事は、 只ひたすら対象に近付こうと努めるだけである。福島を観光して、何もかも判ったような顔をしている連中の如何に多いことか。
さらにいうと、人間は歴史からは何も学ばない。或る時代を生き延びたというだけでは、そこから何かを学ぶという事は無い。例えば戦争体験ひとつをとってみよう。戦争経験者が戦争の恐ろしさを知っているというのは誤りである。多くの場合は、自分が苦しんだという事を記憶しているだけである。極端に言えば、自分に累が及ばなければ、どんどんやってくれて構わないということである。
タカ派の極右政治家がこれら戦争経験世代からも一定の支持を受けているのは、彼らの行う戦時体制の構築が、自分とは無関係な話と信ずるからである。そして、そこから何がもたらされるかは、一切思考の対象とはならない。ここでは徹底的に想像が拒絶される。一口に言えば、どうでもいい事柄となるのである。若い連中は勝手に戦争に行けばいい、勝手に死ねばいい、自分達はもうすぐ死んでしまうのだから、そんな事を考えるのはバカバカしいというわけである。
ここに決定的に欠けているのは「世代的な責任」という観念である。歴史から何かを学ぶためにはこれと真っ向から対峙する必要がある。次の世代に何かを残していきたいと望むならば、まずは出来事と真摯に向き合うことから始めなくてはならない。「関係ない」と白を切るのであれば、けだものと同じである。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

漠然と思う
具合が悪いので、早めに帰宅しようと思ったが、なぜか普段以上に残業する羽目になった。
眼鏡が壊れ、修理に出しているため、能率もだいぶ落ちる。コンタクトは長時間装着しているとだんだん曇ってくるし、外したら外したでまるで焦点が合わない。
そういえば確か星新一が、目が悪くなったため、見えないものについて色々想像力を働かせるようになった、それが創作の源泉になっている、という旨を書いていた。与太話である事は疑いないだろうが、見えないこと、判らないことについて色々思いをめぐらせるというのは悪くない考えである。私は自分が何も知らないという事を知っている-この「無知の知」というソクラテスの気取った言い方は好きではないのだが、見えているようで、見えていないということについては多少なりとも自覚的でありたい。引き摺るつもりは無いのだが、先程の選挙の結果にもそれはいえると思う。
頭が回らないため、わけのわからない文章になった。こんな時もある。

※追記:よくよく考えたらこれはアラン・レネ/マルグリット・デュラスの「ヒロシマ・モン・ナムール」のテーマだった。「ヒロシマを見たわ」「いや、君は何も見ていない」

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

その後
昼近くになって、風邪の具合が悪化する。どうも昨日のショックが体に来たらしい。理性的意識においては切り替えが出来ているのだが、無意識の部分で動揺が大きかったようだ。最近まで、試験が終わるたびに風邪を引いていたものだが、今回も同じようなものである。
「風邪など風邪薬を三倍飲めば治る」などとぬかしたバカが知事についたが、間違っても真似してはいけない。「生兵法は怪我のもと」という古人の智恵の方が、我執に満ちた権力者のさかしらよりも、遥かに重い。
取り敢えず、今日は寝る。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

蹉跌は証だ
選挙結果はご存知の通り。毎度毎度、選挙の度にガックリを繰り返してきたので、ある程度想定はしていた事態である。だが、これだけ極端な結果に至ったことに対しては、考えを改める必要がありそうだ。
民主党から鞍替えして、自民党を支持した人は、80~90年代の「あの時代」をもう一度取り戻したいのだと思う。だが、戻ってくるのは間違いなく30~40年代の「あの時代」である。「日本を取り戻す」ということの実態は、亡者共が主権を国民から取り上げる、ということである。私達はまぎれも無く「前夜」を生きている。

蹉跌は証だ。
真なるものは必ず蹉跌す。
蹉跌の深みに転落せぬもの、
己はそいつの友ではない
(高村光太郎 「街上比興」)

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

君が生きるためなら選挙行け
古いアニソンのもじりだが、覚えている人もいないだろうなぁ。
風邪気味は相変わらず。仕事は必要な作業を早々に切り上げるが、寒空の下、突っ立っていれば確実に体調が悪化するので選挙運動は自重する。この所ずっと微妙なバランスの中で不健康管理をしているのである。

嘗ては代議制民主主義を批判するという動機から選挙を拒否するという態度も存在したが、なりふり構っていられない状況になってきた。使える手段は活用するに限る。現行の代議制が絶対正しいというつもりは無い。正しいのであれば、なぜこんな世の中が出来てしまったのか。逆説的だが代議制民主主義は、少なくともそれだけでは民主主義が機能し得ないことが証明されたと思う。
ならば、所与の枠内において、少しでも民主主義を機能させていく事が必要となる。選挙に行くというのは充分条件ではないが、必要条件であることは確かだ。この社会は、戦後の長きにおいて、民主主義を機能不全にしようと様々な画策を行ってきた。それはかなりの程度、成功してしまっている。そのとどめが、どこぞの政党の出した憲法改悪案である。
私たちは、来るべき次の世代に対して、責任を負っている。何度もいうが、浮かれない、はしゃがない、そして絶望もしない事が必要だと思う。選挙が終わった後も、まだ闘いは続く。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

9番目の男
どうも風邪気味らしいが、仕事を止めるわけにはいかず、結局いつも通り残業生活が続く。気が付いたら年末とかであるらしいが、実感が全く無い。
荻窪にて山本太郎の応援に沢田研二が訪れるという事前情報を得ていたが、到底駆けつけるわけにはいかなかった。「太陽を盗んだ男」との共演を目の当たりにしたかったのだが。
長谷川和彦監督は、あの作品以降映画を全く撮っていない。ATGの「青春の殺人者」に続き、「太陽~」で頂点を極めてしまった男の悲劇なのか。何といっても、日本映画の最高峰を争う作品である。無理もないといえるかもしれない。悲願の「連合赤軍」はいまだに手をつけていない状態であり、若松孝二に先を越されている。どうもこのまま終わってしまいそうなのが残念だ。
仮に原発事故が無かったとしても、今の映画界にあれだけとんでもない作品を作ることが可能だろうかと考える。おそらくは不可能だ。バスジャックの場面ひとつとっても、同じようにはいかないと思う。タブーが多すぎるのだ。あの犯人が天皇裕仁に何を言おうとしたのか、非常に気になるのであるが。
ビクビクしながら当たり障りの無い代物を作っても、後世に残るようなものは生まれない。作品と商品が別物であることは、記憶しておいて欲しいと思う。

テーマ:映画関連ネタ - ジャンル:映画

息もできない
自殺した角田被告は窒息死であるという。自殺の方法としては奇妙な気がするが、何を語っても憶測にしかならない。
そういえば、未完に終わった埴谷雄高の「死霊」では、最後に主人公の三輪与志と婚約者の津田安寿子が呼吸を止めて自殺(心中)することになっていた。確かマンホールの中で、与志が安寿子に仏陀と大雄の対決の話を語って聞かせ、大雄的理念の実践として呼吸を止めて自殺するというものだったと思う。
ドストエフスキーの大審問官の大向こうを張った構想であったが、とうとう書かれることなく終わってしまった場面である。尤も、あのまま書き続けていたとしても、晩年の筆力の衰えを考えるとかなり厳しかったのではないか。例えば第七章の「最後の審判」を取り上げてみても、それは窺われるだろう。きりが無いので、具体的に欠点をあげつらうのは差し控える。また、幾多の欠陥にもかかわらず、私はこの作品を愛惜おくあたわざる書物として考えていることは事実である。
ちなみに前述の心中の場面の一方では、少女「ねんね」が強姦されて殺害、筒袖の拳坊が仇を討とうとして相討ちとなる筈だった。妹の「神様」がどうなったかは判らない。若いうちに完結させて欲しかった作品である。
ところで、何の話だったっけ?

テーマ:本読みの記録 - ジャンル:本・雑誌

冬の花火
メディアは一日中北朝鮮と自殺の話で大騒ぎ。バカなのかと思う。ロケットだか何だか知らないが、一体何を騒いでいるのだろう。たーまやー!
そういえば昔、スプートニクに犬を乗せて打ち上げた事があったが、あれは動物虐待だな。空飛ぶ棺桶は、ちょっといただけない。動物好きな人には尚更だ。
角田被告の自殺の件は、情報が少ないのでよく判らない。ただ、異常趣味から過剰に騒ぎ立て、「祭り」を演出するのはバカバカしい。本件に何か裏があるのかどうか知らないが、号外まで出して騒ぐ性質のものではない筈だ。

熱狂的に国防だの治安だのとワメき立てる先に、一体何があるのか。その向こうにある意図、あるいはそこで利益を得る者について考察する事は、決して無駄ではないと思われる。ミサイルが来た、ミサイルが来たと騒ぐことで、一番喜ぶのは誰なのか。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

忙中閑なし
少し風邪気味なので、簡潔に。

ルブラン「ルパン最後の恋」ようやく読了。本来ならば1時間もあれば読み終わるようなボリュームだが、読書の時間が全く取れないため、やたら手間取ってしまった。イギリスの特務機関との対決の話だが、内容的には「いつものアルセーヌ・ルパン」である。推敲前の荒削りな出来栄えにもかかわらず、なかなか楽しめた。妙な機械仕掛けが登場するのはご愛嬌だが、ファンであれば、読んで決してがっかりする事は無いだろう。

投票日が近付いているが、楽観できない状況である。運動の中にいると、自分の望み通りの状況分析を行おうとしてしまう。決して驕ることなく、地に足をつけた闘いが求められている。結果がどのようなものであれ、闘いは続く。

テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

醜悪な、あまりに醜悪な
モジモジ先生はまだ釈放されない模様。自宅にガサまで行われたらしい。運動関係の交友関係を調べ上げるためである事は間違いない。本人もおそらく目一杯拘留される事だろう。本人の声が聞けない以上、事実関係について正確なところはわからない。だが、少なくとも警察情報を根拠に「自業自得」などの糾弾ゴッコに興じるような真似は慎むべきだと思う。
警察がJR西日本に、告訴するよう示唆したということは充分あり得る。「苦情」などを口実に、表現活動に弾圧を行うのはこの間常套的に行われてきた手段である。本日の都知事選挙ビラ撒き事件はその典型である。こちらも「住民からの通報」を理由に、住居不法侵入罪が適用された。
「脇の甘さ」を得意げに批判するのは醜悪である。まずはあからさまな弾圧に対する抗議の声をあげることが先決だろう。「あいつも悪いがこいつも問題がある筈だ」といった、両論併記主義のいかがわしさを省察して欲しい。

こうした動向に対し、「権力が焦っている」という見解があるが、私は少し違うような気がする。むしろタカ派勢力の勢いに乗じ、箍が外れてきたという感じがする。何をやってもいいというお墨付きを受け、身も蓋もない逮捕劇に乗り出しているのではないか。民主主義そのものが葬り去られようとしている。「いつか来た道」というより、「かつてない道」なのかもしれない。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

十二月の狂詩曲
秋葉原で反ACTA/TPP周知アピール。反対側では「維新の会」とやらが街宣をしていたらしい。今日は少人数で行ったので、派手さはないが、何とかやり通した。終了後は高円寺で「選挙に行こう」とビラ配り。とにかく寒い。冷気に震えながらの活動となった。

大阪で瓦礫問題に取り組んでいる人が逮捕された模様。運動圏では有名な人である。情報を総合すると、昨日述べた事柄が、ほぼ同じ形で具現化したといっていいと思う。ちょっとした口実を根拠にした弾圧が、野放しになっているということだ。もはや中国や北朝鮮を引き合いに出して批判できる状況ではない。この日本が弾圧国家の代名詞になろうとしている。私たちは、この事実をもっと認識するべきである。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

怒りを示せ
宇都宮けんじや山本太郎の街宣を応援したいのだが、如何せん仕事がある以上、致し方ない。遠くからエールを送る。

「黒子のバスケ」脅迫問題がコミケにまで影響を及ぼしてきた。関連書籍やグッズの取り扱いは中止になるらしい。この発端となった脅迫事件については動機が全く不明なのだが。この所、表現活動を巡る環境が著しく脆弱になってきたことは気にかかる。ちょっと何か横槍が入れば、すぐ土下座主義的に自粛、といった現象が頻発している。
勿論、何かあっては困る、という言い分は充分理解するし、決死の覚悟でやれというつもりもない。しかし、「危険に対処する」という具体的な理由を越えて、「自粛、中止は当たり前」といった社会環境が形成されるのは極めて危機的である。これでは、デモやジャーナリズム活動も、ちょっと何か言われれば一切不可能となってしまうだろう。実際それに近い事態が形成されつつある。

「創」1月号を購入。佐野眞一の橋下徹レポートを巡る騒動が特集されている。これも同じ問題である。自粛して幕引きを図ることを続けていては、自殺行為だぞ。

※蛇足ながら、コミケ準備会に落ち度があるわけではないことを申し添えておく。ただ、妨害者に対する抗議の意思は示さないと、今後もつけ込まれる可能性はある。表現活動全体の問題として考えていきたい。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

またしても奇妙な報道
夕方の地震は大きかった。一瞬ヒヤリとしたが、取り敢えず大過なく落ち着いたように見える。情報隠蔽の可能性が無いわけではないのだが。

12/2の桑名市における市長選挙では、民自公維相乗りの現職市長が大敗。嘉田由紀子の未来政治塾出身の新人が当選した。衆院選を間近に控え、ニュースバリューは決して低くはない。現職市長の得票数16,254票に対し、42,352票と倍以上の圧倒的な得票による勝利である事など、実に興味深い事実である。
これだけ重要な事実にもかかわらず、この選挙結果を報じたメディアが全く無いということは、更に興味深い。それどころか、全国紙の一面には奇妙な「世論調査」の結果が一斉にトップを飾った。このタイミングは何を意味するのか、実に興味は尽きない。
あたかも何事かを葬り去り、或る種特定の印象を植え付けようというかのようにそれは映じた。これは私の妄想であろうか。真相は何処にありや。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

おだやかな人々
エジプトでは新憲法の制定を巡り、衝突が続く。革命いまだならず、である。「誰がトップに立とうが、独裁者はいらない」。民主主義を巡る攻防は、今も尚、現在進行形である。歴史は一直線に進む事は無い。必ず紆余曲折を経るのが常である。独裁者がが台頭すれば、また倒すだけである。エジプトの人々は、それを学んできた。
翻って、日本はどうか?どうもこちらは一直線に破滅に向かって突っ走っているように見える。社会に対し、動かない事、アプローチしない事が、徹底的に内面化されてきた。まさに「国策」としてそれは行われたのである。政治を語るのは、居酒屋の愚痴だけにしろ、街頭に出るなどハレンチだ等々。
結果として現れたのは、完全なる沈黙である。ヴェルコールの「海の沈黙」は、雄弁な「沈黙」だった。そこには怒り、憎しみ、恐怖、絶望と哀しみなど、様々な感情が内包されていた。私達の社会の沈黙は、「無かった事にしよう」と「長いものには巻かれよう」である。完全なる順応主義。危機など存在しない、何かあったとしても、うまく立ち回って、少しでもいい思いをするようにすればいい…
歴史、社会は前に進む事は難しいが、後退したり、奈落に転落するのは実に容易い。そして、紛れも無くこの社会は崩壊しかかっている。何が必要なのか、私たちは論理的に見据えていく必要がある。戦争体制を作り出したり、基本的人権を撤廃する事に活路を見出すような馬鹿者にはなるな。奈落を理想郷と錯覚するな。この社会に希望を作り出せ。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

エリスの末裔
中村勘三郎の訃報については、特別な感想はない。私とは縁のない世界であり、どうしても階級格差のようなものを感じてしまう。「ガラスの仮面」の冒頭を思い出してもいい。歴史を繙いてみれば、歌舞伎の世界に対して階級格差というのも皮肉な話であるが。
嫌な話だが、この所、誰か有名人が活躍するのを応援している最中、「こいつは1%だよな」という意識が芽生えてしまうことが多い。この人はどちらを向いているのだろう。私達99%の方を向いているのかな、そうした事が気になってくる。熱狂しかかった途端、「1%」という文言が頭に浮かび、急速に醒めてしまい、みじめな気持ちに突き落とされる。太宰治に「トカトントン」という小説があるが、あんな感じに似ている。
僻み根性といえばそれまでだが、どうもそれだけでは済まないような気もする。昨日も出勤途中に自殺現場に出くわした。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

策謀喪志
炎上騒ぎも少し落ち着いたようなので、この間、一部の運動圏に抱いてきた違和感について考えてみる。
だいぶ以前、「デモ行進を何度も行うより、ロビーイングを行う方が効果がある」という趣旨のことを宮台真司が語っていた。実際、目的論的に考えれば、より効果のある方を選択する方が望ましい。それがリアリズムというものである。
だが、運動において、うまく効果を上げることを優先するあまり、「志」を忘れてしまえば本末転倒である。そもそも、権謀術数を弄するのであれば、体制側の連中のほうが遥かに巧妙であり、年季も入っているものだ。いくら世渡り上手になろうとしても、たかが知れている。
立ち回りの巧みさに溺れ、作風の違う相手を誹謗中傷するのであれば、そもそも何のために運動に参加しているのかわからない。唯一の前衛などとホザく連中と、思考法が一緒である。自分が本来持っていた熱意とか、情熱を思い出して欲しい。なぜ参加するのか、それが最も重要である。原点を見失うべきではない。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

さまざまな悪意
山本太郎が東京八区で出馬するらしい。「脱原発は集団ヒステリー」とホザいた石原伸晃のお膝元だ。成程、これならマスコミも取り上げざるを得なくなる…と思ったが、いまだにテレビでの扱いは殆ど無し。東京MXテレビが比較的大きく取り上げた程度だという。理由は彼自身が記者会見で語っていたことと同じだろう。
浮かれて持ち上げる事は厳に慎みたいと思う。だが、彼が語った内容は申し分ないものであり、取り立てて問題を指摘すべきところが見つからない。極論を言えば、この会見記録だけでも充分歴史に残りそうな気もする。不安な点を挙げるとすれば、「こんなにいいヤツを国政の泥沼に巻き込んでしまっていいのか」というくらいだろう。

さて、どの世界にも悪意をこめて他者を中傷する事で溜飲を下げる、人間の屑がいる。先日も私達の大切な仲間に対して卑劣な悪罵を投げつけた者達がいたが、私はこのような外道を絶対に許さない。まさか、「イジメられる側にも問題がある」などとぬかすつもりはあるまいな?あぁ?

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記



プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



のわーるのつぶやき



最新記事



カレンダー

11 | 2012/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -



最新コメント



過去記事のアーカイブ



カテゴリ



最新トラックバック



2010年「国際ジュゴン年」



検索フォーム



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



RSSリンクの表示



全記事表示リンク

全ての記事を表示する



FC2カウンター