時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
あまりにもわかり易すぎる筋書きについて
橋下の脱原発が極めて疑わしいものであるということは、様々な方面から指摘されてきた。私も基本的にその通りだと思ってきたが、決定的な決め手となるような直接証拠がなく、論としてはちょっと弱いなと考えた。そこで、「たとえ彼が本当に脱原発を志向していたとしても、私は彼を支持しない。独裁者や恐怖政治などいらない」というロジックを組み立ててきた。原発を支持しようと、反対しようと、彼のような政治家の存在を認めるわけはいかない、私たちは「原発のない民主社会」を求めているからだ、ということである。
今回、橋下は事実上の原発容認に踏み切ったといわれる。「馬脚を現した」というよりも、原発容認に鞍替えしても、自分に不利にならないと計算しただけではないか。世論の勢いは充分についている、と踏んだわけだ。
で、この輩を支持してきた大阪の有権者達にひとこと。もうよそうよ、この男、人々の切実な気持ちなんか、まるで意に介していないのだから、いい加減、三行半を突きつけた方がいいんじゃない?それともエンタメ系の恐怖政治を目指すつもりかね。巻き込まれる方は堪らんよ。全く。
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ポルノ裁判における新藤兼人
新藤兼人が亡くなった。100歳という高齢であることから、天寿を全うしたといっていいと思う。
只ひとつ心残りだったのは、念願の原爆映画をついに撮れずじまいに終わったことだろう。彼は生前、原爆が落ちた瞬間を一本の映画の長さ(つまり90分)に引き伸ばして描きたいと常々語っていた。実現すればどのようなものになったのだろうか。
一般に、新藤兼人といえば、「原爆の子」「第五福竜丸」など学校上映向けの教育映画的なイメージが強いと思う。だが、彼が一貫してエロスを作品のテーマに据えていたことは忘れるべきではないだろう。作品で思いつくのは「鬼婆」「人間」「わが道」「裸の十九歳」「ふくろう」等々だが、例を挙げれば枚挙に暇がない。
日活ポルノ裁判では、弁護側の心強い証人として出廷している。何でも証言のためにピンク映画館等に足を運び、類似作品の研究をおこなったという。頭の下がる思いである。
この時の新藤の証言内容を大まかにまとめると、以下のようなものになる(参考文献:斎藤正治著「権力はワイセツを嫉妬する」)。

生きることは性である。生命の根源が性であり、それは未来にかかわりを持つ重要な性質のものでもある。川端、谷崎、荷風等、文学者は性を追及してきた。性の深さの表現は文化のバロメーターである。
また、『性は教育の範囲内で扱われるべきで、ドラマの対象にする必要はない』という思想は危険である。性は魂と結びついたものであり、機械ではないからだ。
刑法175条の猥褻罪との関係でいえば、創作現場に入るとそんなことは言っていられない。むしろそうしたルールとぶつかっていくことが文化の前進と考えている。さらに、あらゆる文化は前進したいという要素を持っている。そして、大衆は英知を持っている。
性の抑圧は青少年に影響を与える。性を抑圧することから事件が起きている。また、映画館における未成年者の入場制限は無用だと思う。心配ない。

エロスの探求者としての新藤兼人の果たした功績を、今一度称揚したい。

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「生活保護制度に関する冷静な報道と議論を求める緊急声明」のこと
重要な事柄なので、以下に転載する。

2012年5月28日

生活保護制度に関する冷静な報道と議論を求める緊急声明

                      生活保護問題対策全国会議
                     代表幹事 弁護士 尾藤廣喜
                      全国生活保護裁判連絡会
                     代表委員 小 川 政 亮



1 人気お笑いタレントの母親が生活保護を受給していることを女性週刊誌が報じたことを契機に生活保護に対する異常なバッシングが続いている。

  今回の一連の報道は、あまりに感情的で、実態を十分に踏まえることなく、浮足立った便乗報道合戦になっている。「不正受給が横行している」、「働くより生活保護をもらった方が楽で得」「不良外国人が日本の制度を壊す」、果ては視聴者から自分の知っている生活保護受給者の行状についての「通報」を募る番組まである。一連の報道の特徴は、なぜ扶養が生活保護制度上保護の要件とされていないのかという点についての正確な理解[1]を欠いたまま、極めてレアケースである高額所得の息子としての道義的問題をすりかえ、あたかも制度全般や制度利用者全般に問題があるかのごとき報道がなされている点にある。

  つまり、①本来、生活保護法上、扶養義務者の扶養は、保護利用の要件とはされていないこと、②成人に達した子どもの親に対する扶養義務は、「その者の社会的地位にふさわしい生活を成り立たせた上で、余裕があれば援助する義務」にすぎないこと、③しかも、その場合の扶養の程度、内容は、あくまでも話し合い合意をもととするものであること、④もし、扶養の程度、内容が、扶養義務の「社会的地位にふさわしい生活を成り立たせ」ることを前提としても、なお著しく少ないと判断される場合には、福祉事務所が、家庭裁判所に扶養義務者の扶養を求める手続きが、生活保護法77条に定められていることなどの扶養の在り方に関する正しい議論がなされないまま、一方的に「不正受給」が行なわれているかのごとき追及と報道がなされているのである。

  また、そこでは、①雇用の崩壊と高齢化の進展が深刻であるのに雇用保険や年金等の他の社会保障制度が極めて脆弱であるという社会の構造からして、生活保護利用者が増えるという今日の事態はて当然のことであること、②生活保護制度利用者が増えたといっても利用率は1.6%に過ぎず、先進諸国(ドイツ9.7%、イギリス9.3%、フランス5.7%)に比べてむしろ異常に低いこと,③「不正受給」は、金額ベースで0.4%弱で推移しているのに対して、捕捉率(生活保護利用資格のある人のうち現に利用している人の割合)は2~3割に過ぎず,むしろ必要な人に行きわたっていないこと(漏給)が大きな問題であることなど,生活保護制度利用者増加の原因となる事実が置き去りにされている。[2]

  さらに、今回の一連の報道は、厳しい雇用情勢の中での就労努力や病気の治療など、個々が抱えた課題に真摯に向き合っている人、あるいは、苦しい中で、さまざまな事情から親族の援助を受けられず、「孤立」を余儀なくされている高齢の利用者など多くの生活保護利用者の心と名誉を深く傷つけている。

2 ところで、今回のタレントバッシングの中心となった世耕弘成議員と片山さつき議員は、自民党の「生活保護に関するプロジェクトチーム」の座長とメンバーである。そして、同党が2012年4月9日に発表した生活保護制度に関する政策は、①生活保護給付水準の10%引き下げ、②自治体による医療機関の指定、重複処方の厳格なチェック、ジェネリック薬の使用義務の法制化などによる医療費の抑制、③食費や被服費などの生活扶助、住宅扶助、教育扶助等の現物給付化、④稼働層を対象とした生活保護期間「有期制」の導入などが並び、憲法25条に基づき、住民の生存権を保障する最後のセイフティーネットとしての生活保護制度を確立するという視点を全く欠いた、財政抑制のみが先行した施策となっている。

  かつて、小泉政権下においては、毎年2200億円社会保障費を削減するなどの徹底した給付抑制策を推進し、その行きつく先が、「保護行政の優等生」「厚生労働省の直轄地」と言われた北九州市における3年連続の餓死事件の発生であった。今回の自民党の生活保護制度に関する政策には、こうした施策が日本の貧困を拡大させたとして強い批判を招き、政権交代に結びついたことに対する反省のかけらも見られない。

  さらに問題なのは、社会保障・税一体改革特別委員会において、自民党の生活保護に関する政策について、現政権の野田首相が「4か3.5くらいは同じ」と述べ、小宮山厚生労働大臣が「自民党の提起も踏まえて、どう引き下げていくのか議論したい」と述べていることである。

そこには、「国民の生活が第一」という政権交代時のスローガンをどう実現していくか、また、「コンクリートから人へ」の視点に基づき、貧困の深刻化の中で、この国の最低生活水準をどう底上げしていくのかという姿勢が全く見られない。

そもそも、生活保護基準については、2011年2月から社会保障審議会の生活保護基準部会において、学識経験者らによる専門的な検討が進められているのであり、小宮山大臣の発言は、同部会に対して外部から露骨な政治的圧力をかけるものであって部会委員らの真摯な努力を冒涜するものと言わなければならない。

そのうえ、小宮山大臣は、「親族側に扶養が困難な理由を証明する義務」を課すと事実上扶養を生活保護利用の要件とする法改正を検討する考えまで示している。しかし、今回のタレントの例外的な事例を契機に、制度の本来的在り方を検討することなく、法改正を行うということ自体が乱暴極まりない。また、生活困窮者の中には、DV被害者や虐待経験者も少なくなく、「無縁社会」とも言われる現代社会において、家族との関係が希薄化・悪化・断絶している人がほとんどである。かつて、札幌市白石区で25年前に発生した母親餓死事件は、まさに、保護申請に際して、この扶養をできない証明を求められたことが原因となって発生した事件であった。

かかる点を直視することなく、法改正を行えば、ただでさえ利用しにくい生活保護制度がほとんど利用できなくなり、「餓死」「孤立死」などの深刻な事態を招くことが明らかである。小宮山大臣は、国民の生活保障に責任をもつ厚生労働大臣として、マスコミに対して冷静な対応を呼びかけるべき立場にありながら、混乱に翻弄されて軽率にも理不尽な法改正にまで言及しており、その職責に反していると言わざるを得ない。

3 今年に入ってから全国で「餓死」「凍死」「孤立死」が相次いでいるが,目下の経済状況下で、雇用や他の社会保障制度の現状を改めることなく、放置したままで生活保護制度のみを切り縮めれば、餓死者・自殺者が続発し、犯罪も増え社会不安を招くことが目に見えている。今求められているのは、生活保護制度が置かれている客観的な状況を把握し、制度利用者の実態に目を向け、その声に耳を傾けながら、冷静にあるべき方向性を議論することである。当会は,報道関係各位に対しては、正確な情報に基づく冷静な報道を心掛けていただくようお願いするとともに、民主党政権に対しては、今一度政権交代時の「国民の生活が第一」の原点に戻った政権運営を期待し、自民党に対しては、今回の生活保護制度に関する政策の根本的見直しを求め、本緊急声明を発表する次第である。以上


気持ち悪い・・・
「先生を流産させる会」のレビューを記そうと思ったが、あれやこれや無駄に思考が膨らんでいったので、取り敢えず思いついたことを書き記しておく。
本作のストーリーについては多くを語る必要はないだろう。少女達が妊娠した女教師に対して嫌悪感を抱き、これを流産させてしまおうとする話である。
少女達は、妊娠を「気持ち悪い」と考える。何故気持ち悪いのか、勿論、女性性や、生命の神秘への畏れということも考えられる。こうした「おそれ」の感覚は、古代宗教から、民間信仰に至るまであらゆる場所に反映されている。だが本作の少女達において、この嫌悪感は寧ろ人間が「生き物」であるということに起因するだろう。
人間は捕食し、性交し、排泄し、自慰し、繁殖を行う存在である。これは当たり前の事柄であり、誰もが差し当たりは了解して生きている。だが、ふとしたきっかけでその始原的なおぞましさに触れてしまう契機がある。これこそ、サルトルが「嘔吐」で描き出したものである。
彼女達が妊娠を漠然と気持ち悪いと考えたのは、人間のこうした「生き物」としての属性に触れてしまったからである。だが、それだけではない。少女たちは懐胎した教師に、やがて訪れる自らの運命を見出すのである。この焦燥感は、三島由紀夫の「午後の曳航」の少年達と酷似する。いわば、「神の領域」から人間界へと堕落する事への恐怖である。人間は神の似姿ではなく、羽化登仙するわけでもない。猿の兄弟分なのだ。「この世界には結局何も起こらないのかも知れぬ!」というわけである。
人間は性的であってはならず、肉体としての存在であってはならない、この種の肉体憎悪は中世のオドン・ド・クリュニーにおいて最高潮に達する。この偏執的な思想家によれば、肉体の美は皮膚に属するものであり、その内に潜む本質は汚穢そのものである、「あの女性の優美さは、実は舌苔や、血や、膿や、胆汁である。いったいどうして我々は糞袋そのものを腕に抱きしめたいと望むことができるのか」。無論、禁欲主義者の馬鹿馬鹿しい妄想だ。肉体=糞袋と認識するからではない。肉体=糞袋=下賎とする図式が馬鹿馬鹿しいのだ。逆に言えば、下賎であって何が悪い。だが、馬鹿馬鹿しいと割り切れないのが性徴を迎えた思春期の業のようなものでもある。
「女は気持ち悪いものなの」と本作の女教師は説く。勿論これは妊娠という事柄をさすのだが、肉体を持っている以上、人間は気持ち悪い。もっといえば、そうした気持ち悪さが無ければ人間とは言いがたい。
これを「他人が気持ち悪い」とすれば「エヴァンゲリオン」のテーマのひとつになると思う。だが、収拾が付かなくなるので今回は差し控えておこう。

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晴れわたる初夏の空の下で
渋谷でツイッターデモ。集合場所に向かう途中、先日の刺傷事件の余波だと思うが、今日は心なしか、警官が多かったような気がする。街頭では一部で職質も行われ、鞄の中を見せるよう要求されていた。言うまでもないが、こうした持ち物検査に応ずるか否かは任意である。無理矢理鞄を開けさせれば、特別公務員職権濫用罪となる。ここで軽々しく応じてしまうと持ち物検査を常態化させることになるので、気をつけて欲しい。困ったときは、その場で救援連絡センターに電話するのも手である。
さて、デモはいつも通りの賑やかな行進となった。コースもいつもと同じで、楽に構えていたが、何故か途中でへばりそうになる。暑さのためか、疲労が蓄積されていたためか。おそらくはその両方だ。
再稼動に向けた準備が着々と進められている中、プラグマティックに結果を導き出そうとすることは勿論大切である。だが、原発問題は日本社会が積年にわたって抱えてきた、構造的病理そのものに関わる問題である。下手をすれば、この病巣は明治維新にまでさかのぼるかもしれない。目に見える結果がすぐに出ないからといって、諦めるべきではない。足跡は着実に残るからである。何度も言うが、これからもしたたかに、ヌケヌケと続けよう。

20120527

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レイトショーで教育映画を観る
疲労感が溜まっているので、少しのんびりと過ごす。そもそも二度寝、三度寝して、起きたのは昼過ぎ。たまにはいいか。
夜、ユーロスペースで、映画「先生を流産させる会」を観る。監督・俳優による初日の舞台挨拶があり、劇場は超満員。リーダー役の女の子は映画ではごつい雰囲気だったが、実物はずっと可愛かった。
詳しいレビューは後日に回す予定だが、おどろおどろしい題名とは裏腹に、なかなか腰の据わった教育映画である。見ておいて損はない。教師役の宮田亜紀もいい演技をしていた。「性」とは封殺する対象ではなく、向き合うべきものなのだ。
追記:そういえば、三島の「午後の曳航」にも通じるものがある。これについてもまた考察したい。

ryuzan

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健康で文化的な・・・
あまりポレミックなことをいう気分ではないのだが、芸人の河本と生活保護切り下げの動向の件、政治的キャンペーンに見えて仕方がないな。
現状の生活保護制度に問題点があるのならば、より優れた、本来の意味での福祉がなされるように是正を図るのが当然である。親子関係にしても一様ではない。だが、福祉政策そのもの憎悪し、これを目の敵にする勢力は紛れもなく存在する。この連中は、何かと理由をつけて福祉対策を切り下げようとする。その執念は、殆ど病的とさえいっていい。「朝日(人の名前だ)訴訟」の例などを考えれば判ることだが、「生かさぬよう、殺さぬよう」が統治の理想形態であることは、古来よりなんら変わっていないのである。
何よりも気持ち悪いのは、今回の騒動に乗じて社会福祉=悪とする雰囲気が醸成されようとしていることだ。為政者としては、こうした雰囲気が作られていくことこそ一番ありがたい。陰謀論を展開するつもりはないが、少なくとも結果的に誰を利することになるかは明らかだろう。また、一介の市民を晒し者にし、吊るし上げて「正義感」に酔う姿は、あまりにもグロテスクである。
ところで、映画上映会「武蔵野市民学校」を主宰するKさんが憲法25条を援用しながら語っていた。「観たい映画を観られないようでは到底「文化的な最低限度の生活」とはいえない」。言い得て妙だと思う。

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カメラの向こうに映し出された「権力」の姿
「ビルマVJ 消された革命」(監督:アンダース・オステルガルド)を観る。民主化運動を世界に配信し続ける、ビルマのビデオジャーナリスト達の活動を描いたドキュメンタリーである。
作品の舞台となっているのは、2007年の大規模な民主化運動。ご記憶の方も多いだろう。長年の軍政にうんざりしたビルマの人々は、僧侶達を筆頭に、対話と協調を求める平和的なデモ行進を行っていく。そして遂には僅かな時間ながら軟禁中のアウン・サン・スー・チーとの面会も果たすのだが、軍はこれを徹底的に弾圧。逮捕、拷問、虐殺(或いは「失踪」)が相次ぎ、民主化運動は壊滅的な打撃をこうむる。ジャーナリストの長井健司氏が殺されたのもこの際であり、本編でも衝撃をもって受け止められている。
現在、ビルマは民主化に向かって徐々に移行しつつあると言われる。この動きがどうなっていくかは予断を許さないが、仮に民主化が完全に達成された後でも、この作品の価値はいささかも減じない。
さしあたり、「ビルマ」という固有名詞を外して考えてみよう。すると、政治権力とはどういうものであるか、そのむき出しの姿が見えてくる。肥大した権力は、無茶であろうと、狂気じみていようと、自らの利益のためには何でもゴリ押しするのである。そして、反対派に対しては圧倒的な軍事力でもってこれを押さえつけていく。ここでは力こそが正義であり、勝った者が正しい、のである。
昨今、強権的な独裁者タイプの政治家に対し、根拠不明な期待感が高まっているらしい。だが、政治権力に対する警戒感を失うべきではない。既に、どう考えても理不尽な条例が各地で制定されていることを想起してほしい。ひとつの元が狂えばこうなるのである。
ところで映画の序盤において、デモ隊に笑顔で参加し、拍手を送る人々の姿には親しみを感じた。勿論、かの国とわが国との政治状況はまるで異なるものであり、単純に比較することは意味をなさない。だが、よりよい社会を求める人々の切実な願いは、どの国でも共通のものと思えた。


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PTA的倫理をぶちこわせ
今月号の「映画秘宝」なかなかよい記事が多い。話題の「先生を流産させる会」はユーロスペースで今週末に公開だという。早速前売り(1000円)を買ってしまった。
園子温のインタビューでは、北原みのり達に対する反論もなされており、なかなか読み応えがある。私が思うに、誰もが自らの物語の中において事件への眼差しを向けているのであって、「女性だから正しく論じられる」などというのは特権的なセクト主義的妄想に過ぎない。創作者としては、どこまで普遍的な課題を掘り下げていくか、が問われるだけだろう。
このブログでも何度か取り上げた、若松孝二の三島映画については力を入れた記事が掲載されている。三島映画の系譜の紹介、若松孝二インタビュー、井浦新(ARATA)インタビューと、盛り沢山だ。尚、若松の映画は森田必勝を中心にストーリーが展開するという。右翼にシンパシーはないが、公開が楽しみだ。
この雑誌は楽しみな連載が次々と終了してしまったので、最近はあまり購入するに至らなかった。ただ、高橋ヨシキ達のDEVIL PRESSのコーナーは相変わらず快調で、「PTA的な「良識」なんてクソ食らえだ」と高らかに宣言する。
「「問題映画」が登場するたびに針小棒大に騒ぎ立てる人々には、ヴェイダー卿がランド・カルリジアンに放ったひとことを捧げたい。「これだけで済むよう祈っておれ」」

それにしても東電といい、北九州といい、大阪のゴロツキといい、様々な局面で舐められっぱなしの状況が続いている。気を引き締めて、巻き返しを図っていこう。

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タチムカウ - 人間の証明
瓦礫を巡る北九州市の抗議行動、駆けつけた人たちはトラックの下に潜り込んで進入阻止を図っていたが、何か既視感がある。そう、三里塚闘争だ。杭に鎖で体を巻きつけて重機の前に立ちはだかるおっ母さんたちの姿と、どうしても重なってしまう。この国の為政者達は、過去の愚行から全く何も学んでいないのだということがよく判る。むしろ愚行とすら認識していないのだろう。
私たちの行動を「お祭りデモ」(何が悪い?)と小馬鹿にする輩がいるが、皆、新しい可能性を求めているのであり、その志は熱い。舐められて唯々諾々と引き下がるほど、反対派は愚かではない。しぶとく続けること、「負けないこと」が闘いである。

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「私は太陽である」と叫ぶとき
昨日の続き。「至高性」の概念を出しておきながら、これを取り上げないのは片手落ちの誹りを免れないだろう。ジョルジュ・バタイユに「太陽肛門」と題する散文作品がある。翻訳にして十数ページだが、向こう見ずを承知で感想を書き記してみる。
バタイユによれば世界の主要な二運動は回転運動と性的運動であり、両者の結合関係は機関車のピストンと車輪のイメージで表されるという。つまり、地球は回転することによって人間を交接させ、人間は交接することによって地球を回転させるわけである。
やがて地球と太陽の有機的な交接が起こるのだが、「人間の眼は太陽にも、交接にも、死体にも、暗闇にも耐えることができない、もっともその場合の反応は区々である」と説く。ここに、否定神学の影響が見られる。太陽はあまりにも「過剰」なものであり、人間の認識能力を超えているということだ。
太陽は「夜」を愛し、地球へそのきらめく暴力を向けるのだが、それは結局「夜」にも人間の視線にも到達し得ないという。「太陽」にしろ、「夜」にしろ、いずれも絶対的なものであり、決してお互いに到達し得ない、ということになるのだろうか。
本作は、世界の諸原理のようなものを独自の視点から構築してみせた作品といえるが、何とも判じかねる要素が多い。散文詩として考えてもいいし、何らかの思考の手がかりを掴んでみるのもいいだろう。読みながら頭をひねってみるのも一興である。
この難解なテクストは、次のような印象的な一文で幕を閉じる。
「太陽の輪は十八歳の肉体の穢れのない肛門であり、肛門は夜であるにもかかわらず、それに較べうるほどまぶしいものは太陽をのぞいてはありえない」

bataille

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虫刺されにキンカン♪
話題の金環日食。朝起きてみたら既に7:45。日食はピークを過ぎていた。
普段より何となく暗いのは判る。だが、直接見るなと言われているので、確かめるわけにもいかず。流石にわざわざ専用のグラスを買うまでにはいかない。ただ、チラ見はした。
チェスタトンのブラウン神父は「太陽というのはあらゆる神のなかでいちばん残酷な神だ」と語る。となると、太陽神ラーは無論のこと、ボイポス・アポローンや我が国のアマテラスなども、さぞかし残酷な神ということになるだろう。そういえば、思い当たる節が無いわけではない。もっとも、神々が残忍なのは決して珍しい話ではないだろう。ちなみにチェスタトンの小説では、太陽を直視したことによる視覚障害が事件の鍵となっていた。
「太陽と死は見つめることが出来ない」とのたまったのはラ・ロシュフコーだったか。こちらは否定神学的な概念に通ずるものである。「至高性」と言い換えてもいい。全てを超越した、とてつもなく絶対的なものということだ。
ところでヘリオフィル(太陽愛好)とヘリオフォビア(太陽恐怖)という概念がある。私はドラキュラでもなんでもないので、ヘリオフォビアというほどではないが、どちらかというと夜型のタイプだろう。埴谷雄高の言い草ではないが、あれこれ無益な妄想を膨らませているうちに、あっという間に夜更かしをしてしまう。結果、寝不足でいつもふらふらの状態を繰り返す、そんな日々が今も続いている。

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恥多き一日
昨日に引き続き、ひどい腰痛。それでも体を騙し騙し反原発デモに出かける。13時集会、14時デモ出発なので、14時のデモにのみ参加、無理せずすぐ帰宅しようという目論見だった。だが乗った電車が大幅に遅れ、時間ギリギリになりそうな見通し。さらにJRに乗り換えるが、今度は山手線が動かない。結局どう頑張っても時間に間に合わないため、諦めて帰宅する。時間の遅い西東京の行動にも心惹かれたが、行ったり来たりを繰り返すことになるため、体のことを考慮して断念。トホホ。
今日は他にもみっともない話が色々ある。とにかく何をやってもうまくいかないときはあるもので、イライラばかりが募る一日だった。帰宅後、映画などを観て過ごす。こちらは後日レビューする予定。尚、腰痛の方は漸く治まった。

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腰痛からの「復興」はまだか
一日中ひどい腰痛で、痛み止めもあまり効果なし。已むなく、ずっと安静にする。
水上滝太郎「銀座復興」(岩波文庫)を読む。関東大震災で壊滅状態になった銀座を舞台に、復興に向けて力強く生きる人々の姿を描いた作品。何だか松竹の映画みたいだ・・・と、順序が逆だな。庶民生活に根ざした人情話は、こうした作品から松竹に受け継がれていったわけである。私自身はこうしたドラマツルギーのパターンをぶち壊したいと思っているし、作品としての問題点もあると思うのだが、まあ古典として素直に受け止めておこう。ちなみに今日読み終えたのは表題作のみ。
このところ慌しく、じっくり本を読む時間が取れない。読み終えたのは他に「さようなら、もんじゅ君」(今さら!)くらいなものか。こちらは「履歴書」が傑作で、思わず吹き出した。

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全体への意志
バルザックやゾラの膨大な作品を前にすると、ある種の十九世紀の作家達には、全体性への希求のようなものがあったのではないかと思えてくる。「全ては書物の内にあり」。社会の全てを自らの著作集のうちに封じ込めること。この野心は「人間喜劇」にも「ルーゴン・マッカール叢書」にも共通する。こうした壮大な夢を追い続けたのが、彼らの生涯であった。私は花田清輝の言葉を思い出す。生涯をかけてただ一つの歌を、それは果たして愚劣なことであろうか。
哲学の面でこれを希求したのはヘーゲルであろう。歴史小説では大デュマ、そして、わが国ではあまり言及されることが無いのだが、冒険小説のジュール・ヴェルヌの名を挙げることが出来る。<驚異の旅>と題された彼の一連の小説(六十四作に上る)の登場人物達は、まさにオデュッセウスとテレマコスの末裔なのだ。アフリカから始まり、インド、シベリア、南極と、この地球上で彼らの足の及ばなかった場所を探すことは困難である。
世界を自らの体系のうちに所有しようという試み。この観点から、十九世紀文学としてのヴェルヌについて考えてみたい気がする。とはいえ浅学菲才ゆえ、なかなか思うようにいかないのが情けない限りだが。

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啓蒙主義者の夢の跡
フランス語に「ボン・ソヴァージュ」という言葉がある。直訳すると、「善良な野蛮人」。18世紀の啓蒙主義者たちの間で流行した概念である。人類は近代文明によって堕落した。本来の人類の姿である未開人に学ぶべきだ、という発想から、「未開の蛮族こそ、人類の理想状態である」と理想化したものである。そこでは、「未開状態の人間はみな善良で清らかな魂を持っており、西洋人のように我欲に汚れていない」ということになっている。ここから「自然に帰れ」という命題が導き出されることになる。このように人間を「本来のあるべき姿」との対比において考察するのは、啓蒙主義者たちの大きな特徴である。
文献ではモンテスキュー「ペルシア人の手紙」、ルソー「人間不平等起源論」、かなり微妙だがディドロ「ブーガンヴィル航海記補遺」などがこの系譜に位置するといえる(あくまでも大雑把な分類である)。いつか触れる機会があるかもしれないが、このブログで屡々取り上げてきたサド侯爵もその影響を大きく受けている。
勿論、未開社会は理想状態などではさらさら無く、それぞれ固有の社会矛盾や困難が存在することを私達は知っている。現代においても、少し前までは第三世界主義という概念が流行し、キューバに理想を求めたりする人が多く存在した。今日、キューバや第三世界を支持する人の間でも、これらの社会が困難な問題を抱えていることはよく理解されている。勿論、一部の馬鹿者を除いての話ではあるが。
人間の住むところ、理想的な地上の楽園などありっこないし、だからこそ地道な努力を続けながら頑張っていくしかないということは多くの人が同意することだろう。
18世紀の思想家の夢想を追いながらそんなことを考えた。

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「俺が法律」なのか
日本国憲法第39条には「刑罰法規の不遡及」が定められている。法律学的には、罪刑法定主義の論理的帰結としての「事後法の禁止」と呼ばれる。
これは、適法であった行為を、だまし討ち的に事後法でもって断罪することは許されないということである。このようなことが認められたら、たとえ法律を遵守していても、いつ何時罪に問われてもおかしくないことになってしまう。これでは安心して社会生活を営むことすら困難となる。
例を挙げよう。毛沢東時代の中国で、百花斉放運動で党への批判を奨励したことがあった。その直後、反右派闘争と称して批判者を次々と粛清、弾圧していったのである。
このように、為政者の勝手な動向により市民生活が脅かされないように、「事後法の禁止」という原則が定められている。
しかるに、大阪市ではこうした近代的な法原理が認められていないらしい。それ自体に違法性の無い「刺青」が身体に施されていることを理由に、後から作ったルールで職員をいとも簡単に解雇しようとする。通常、労働者の解雇にはそれ自体厳しい条件が存在するのだが、それにもかかわらず、である。ここには論理性もへったくれもない。「ムカつく、やっつけろ」それだけである。法律はそこでは一切機能しない。為政者にとって都合のいい部分以外は、法律は意味を成さないのである。
そして不気味なのは、このような事を言い出した市長の尻馬に乗り、職員に憎悪をぶつける人々が多く見受けられることである。誰かを断罪することによって、自らの正当性を確保しようとするのだろう。「あいつは悪い奴なのだ、そして私は偉いのだ」そんな自己確認をして何が面白い?私達の社会に病理があるとすれば、むしろそちらの方だと思われる。

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沖縄を返せ、沖縄に返せ
沖縄「返還」40周年。めくそ・・・じゃなかった、のだめが「普天間固定化、あってはならない」とのたまったそうだが、言うだけならタダだからなぁ。この男が本気で沖縄のために基地問題を考えているとはとても思えない。都合の悪いものを立場の弱い所に押し付けるのは原子力政策と一緒。
嘗て大島渚は「我々は沖縄に対して負債を負っている」と語ったという。「夏の妹」では「沖縄は観光地となり、堕落した」と皮相な断罪を加えているように思えた。勿論早計であり、大島も後年忸怩たるものがあっただろう。さて、私たちが負債を返すのはいったい何時になるのだろうか。

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アルジェントはアルジェントである
予想したよりもアルジェントらしいフィルムだった。まだ禍々しさの薄い初期の頃の作品に近いか。いや、「シャドー」にも近いものがあったな。よって、血飛沫満載の鮮血の美学を求めることは出来ない。
全盛期のアルジェントの作品といえば、うら若い少女が殺され、血飛沫が飛び散り、ガラスが砕け散るシーンが鮮烈だった。無論、「処女性」という心理学的な象徴を当て込んだものである。
本作ではそうした派手さこそ無いものの、アルジェントならではのテイストをそれなりに感じることは出来る。音楽も相変わらず決まっている(「フェノミナ」のときに近いかな)。
ラストの場面はいうまでも無く「網走番外地」であるが、意識していたのだろうか。それにしても、全てが終わった後に茫然と佇む主人公の姿は美しい。




追記:話題の虚構新聞の謝罪ツイート、吹いた。
(以下引用)
【お詫び】本日付記事でネット界隈をお騒がせしたことをおわび申し上げます。現実にありえないことをお伝えするのが本紙のポリシーですが、今回非常に多くの方から「橋下氏ならやりかねない」と思われたのが最大の誤算でした。今後はもっと現実離れした虚構報道を心がけます。申し訳ありませんでした。

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鯛は腐っていないかもしれない
探し物に追われ、何も手に付かない一日だった。重たい映画など全く観る気になれず。ダリオ・アルジェント監督「デス・サイト」を途中まで観る。音楽はいつものゴブリンの人(名前忘れた)だと思うが、途中まで見た限り、映画としての出来は左程悪くないような気がした。尤も、あまり評判のよくない作品なので、後半でがっかりさせられるかもしれないが。
アルジェント映画は初期の目を瞠るような美学が薄れたので、最近はあまり熱心に追いかけていなかった。だがひょっとすると、まだ喚起的なものを見出せるかも知れない。もう少し追いかけてみよう。
ところでこの映画、イタリアを舞台にしているにもかかわらず、音声が英語なのが気になった。「サスペリア」もそうだったなぁ。あの舞台はドイツだったか。

尚、前述の探し物は今しがた見つかった。ひと安心する。

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原発止まった五月の空
自宅のパソコンのメモリを増設する。二枚を組み合わせて高スペック化を図るが、何分古いマシンなので、マザーボードが対応し切れず。結局一枚のみを使用して落着する。それでも容量は以前の倍だ。動きは悪くない。

午後になり、首相官邸前で脱原発抗議行動。相当な人数が集まった。主催者の発案でめいめいにマイクを回し、皆が思いのたけをぶちまけている。この場合、長々と演説を行うのではなく、自分の素朴な思いをぶつけた方が心に残る。
残念ながら一人3分ずつという、申し合わせたルールを守れない人がいた。いや、核武装の問題や、憲法改悪の問題と密接に関連しているのはその通りだと思うのだよ。おそらくそこにいた人々の殆どが同意すると思う。ただ話が長すぎるんだよな。簡潔にわかり易い形でまとめれば、拍手さえ受けた筈だ。
抗議行動は18時まで行われたらしい。私は17時で帰宅した。目先の結果がどうあれ、とにかくめげずに続けることだ。

512kogi

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預言詩とその時代
マヤの予言って何だよ。わざわざ新聞で取り上げるような話なのか。ちなみに私の手元にある新聞は、天下の朝日新聞。なかなか笑わせてくれる。まあ、原発を再稼動させれば人類滅亡に一歩近付くことは確かだろうが。どうも人間というものは、やくたいも無い与太話に心惹かれるものらしい。
与太話のついでだ。予言として有名なのは、例のノストラダムスの詩篇群だろう。
ノストラダムスの本名はミシェル・ド・ノートルダム。16世紀という、ルネサンス文化の花開く中、活躍した人である。「サンチュリ(詩百篇)」と題された彼の詩集は、好事家達の論議の的になってきたことは周知の事柄である。尚、巷間伝えられる「諸世紀」の邦題は誤訳である。
ルネサンス期は宗教改革の時期でもあり、新・旧教の対立が激化した時代である。フランスではノストラダムスの晩年に凄惨なユグノー戦争が始まっている。また、同時代人のフランソワ・ラブレーが書き記すように、この時代は極端な旱魃と洪水が繰り返し発生した時期でもあった。ノストラダムスの作品はそうした不安定な世相を反映したものといえる。
澁澤龍彦は、ノストラダムスは難解で曖昧な作品を物することにより、人々を煙に巻いて巧みに世渡りをしていったのではないか、と感想を述べている。魅力的な見解には違いない。だが、ノストラダムスにそんな器用な処世術の心得があったかどうか、はなはだ疑問である。
詩人が自らの作品を預言/予言として吹聴することは決して珍しい事柄ではない。「俺の言葉は神託だ」とはランボーの専売特許ではないのである。おそらくノストラダムスは、神託と信じながら詩を書き連ねていったに違いない。早い話が、霊感とかインスピレーションといったものである。そしてルネサンスという迷信深い時代背景を考えれば、彼の創作姿勢は決して奇矯なものではない筈である。
尚、ノストラダムスの作品は、詩法としてはロンサールたちプレイヤード派の影響を強く受けているという。まさに時代の子であったことがここからも窺われる。

nostradamus

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あまりに人間的な
「我は人間なれば、人間的な何事も我に無縁ならずと思う」。こう高らかに宣言したのはテレンチウスであるが、爾来、この言葉は様々な文学作品や論文等において引用されてきた。無知な左翼は「マルクスの名言」と信じて憚らないが、そもそも常識的に広く知られている言葉なのである。
ここからどんな教訓を学び取るかは様々だろう。
文化活動であれば、自分の知らない分野に目をむけ、謙虚に思いを致すことが考えられる。また、社会に生起する様々な出来事を真摯に考察したり、あるいは社会からはみ出してしまった人たちについて、正面から受け止めていくこともあり得るだろう。一口に言えば、他者と向き合う、ということだ。、
この「我は人間なれば」を「我は悪魔なれば」と言い換えて見せたのはドストエフスキーの卓見である。注意してほしいのだが、ここには「人間の本質が悪である」というよりも、「悪とは極めて人間的なものである」という逆説が込められているのだ。

話を戻そう。何も文字通りに全てを背負い込んでしまう必要はないが、時にはこのテレンチウスの言葉を思い出してみるのも悪くはない。そうすれば、判らないものに接するたびに、「相手がバカだからだ」「対象が下らないからだ」などと短絡することはなくなる筈である。そういえば文楽を初めて見た男が、これに甚だしい誹謗中傷を加えていたのを思い出した。

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「よき人間」の形成について
この間漠然と考えていたことを、とりとめもなくまとめてみる。尤も、いつも書き散らしていることと殆ど重複するのだが。

悪や犯罪がゼロの社会というのは可能か。ここでいうのは政治犯罪や企業犯罪などの、組織立った権力犯罪ではない。そこいらに素朴な意味で見受けられる水準の事柄である。マスメディアは視聴率を稼ぐため、凶悪犯罪が幾何級数的に増大しているかのような宣伝工作に余念がない。社会を浄化せよ、ここから「規律への意志」が増幅されてあらわれる。
「よい社会を作るには、禁欲的で勤勉で従順な人間形成を徹底させる必要がある」とは、屡々喧伝されてきたことである。近代社会は人間をこのようなものとして規格化することが可能であると定式化したのである。「設計主義」と言い換えてもいい。
だが、何よりもこうした人間像は自我の欠落と同義語である。物言わぬ「理想的人間」の統べる社会、これは裏を返せば、決められたとおりに動く人形を大量生産することである。そのために、徹底的な訓育と管理、そして規格から外れる者を排除、抹殺する風潮がもたらされた。これが近代的な理想社会像のパラドックスである。この風潮は今日も尚、収まるどころか、ますます激しくなっているように見える。
こうした理想像が解体されるのはサド侯爵においてである。サドの諸作品は、人間は常に規格からはみ出るものであるということを明らかにしてみせる。サドが主として取り上げるのはセクシュアリテであり、欲望の問題である。人間の内にありながら、人間の支配に属さない諸要素の問題系が、ここでむき出しにされたのだ。
無論、あまり複雑で込み入った内容に踏み込まなくともいい。だが少なくとも、ここから人間観の問題が再検討に付される筈である。人間的であるとはどういうことか。サドが寛容な社会像を求めていったことは決して偶然ではない。

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「歌ごえ市長」の登場
レベルが低い話で恐縮だが、大阪の捏造男の話題。

「(記者の会社に)社歌はあるのか。(社歌がないから)こんな記者になっちゃう」と憤りを隠せない様子で、20分以上問答を繰り返した。(KKK新聞・・・もとい産経新聞)

社歌・・・そんな代物を設けてる会社なんてどのくらいあるのだろう。私もあちこちの会社を渡り歩いてきたが、社歌のある会社なんか無かったぞ。
社訓を唱和させられたことはあった。「社訓!ひとつこーけん!」・・・軍隊モデルの社員研修で、喉が潰れるまで一日中声出しをさせられた(こういうのを「体育会系」などと呼ぶからつけ上がる。正しく「暴力団系」と呼んだ方がいい。思い出したら段々腹が立ってきた。潰れてほしいというより、経営陣、みんな×ね)。
消費者金融ならウルフルズの「借金大王」が社歌になるのかな。「貸した金返せよ」ってアレ。しかし東京電力の社歌があれば、ぜひ聴いてみたい気がする。これについては諸説あり、虚実入り乱れた様々な情報が飛び交っているが、詳らかにしない。新たに作るのなら、話題になった替え歌「東電に入ろう」だの、清志郎の「原発賛成音頭」あたりがうってつけだろう。
ちなみに大阪市には堀沢周安作詞、中田章作曲の大阪市歌があるという。

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文化の価値は
土砂降りの中を歩いたせいか、昨晩、調子を崩しかけた。今朝になって回復するが、何もやる気が出ないのは休みボケか。もっとも連休中はバタバタしていたため、あまり休んだ感じがしないのではあるが。
エッカーマン「ゲーテとの対話」を少し眺める。詩歌、演劇、音楽と、いささか高踏遊民的ではあるが、肩肘張らず、のんびりと楽しめる書物だ。もっとも、他に読むべき本が溜まっているため、そちらを優先する可能性もあるのだが。
使い古された言い回しだが、「精神の貴族性」のようなものは、決して馬鹿にしてはならないと思う。有用性や、貨幣価値のようなもので文化を計ろうとする輩が跳梁跋扈する昨今、痛切にそれを実感する。ムンクの「叫び」に法外な値段をつけて何が楽しいのだろう。優れた作品が投資の材料にされ、倉庫に半永久的に封印されてしまうことは珍しくない。算盤や電卓をはじく代わりに、じっくりその作品について思いを巡らせてみるといい。そうすれば、少しは人間的にマシなものが得られる筈である。少なくとも、音楽団を潰そうとするどこかの市長よりは。

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雨ニモ負ケズ
脱原発杉並デモに参加する。デモ行進開始直後から土砂降りとなる。傘を準備していなかったため、やむなく小降りになるまで木陰で雨宿り。横着せず、ヤッケくらい持ってくるべきだったか。しばらく待機し、デモ隊列の大部分が出発した頃に漸く雨が熄みだしたので、私も出発する。

20120506demo01

遅れた分、元気よく行進しようとするが、しばらくたった後再び強い雨が降り始める。何とか持ちこたえようとするが、雨足はどんどん強くなり、強風に加え、雹まで振り注いだ。こりゃたまらんと、隊列を離れて雨宿りをする。既に全身びしょ濡れだった。子連れの人は、雨が降り出した時点で参加を自重した方がよかったのではないか。

20120506demo02

その後、再び雨が上がったため、隊列に復帰。コールを挙げながら杉並の町を練り歩く。街の人が好意的なのがこのデモの特徴である。コースはぐるりと周辺を練り歩き、高円寺駅近くの公園で解散。
雨が熄んでからもとにかく強風にあおられ、プラカードを持つのもままならない。おかげで握力が鍛えられた。

20120506demo03

デモ自体は天候との闘いに終始した感があるが、原発が全て停まったこの時期に意思表示をすることはとても大切なことである。
現在の稼動停止はまだ暫定的なものであり、現政権は再稼動の機会を虎視眈々と狙っている。むしろ、「当然のシナリオ」をどうやって進めるかを検討しているといっていい。こちらとしては、彼らの思惑通りにはいかせないような潮流を作り続けていくしかない。ヌケヌケと、したたかな運動を継続して巻き起こしていくことだ。打撃は絶え間なく与えねばならない。

帰宅後、ニュースを見ると、竜巻だと。福一に直撃したらと思うとぞっとする。

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文明的たらんとすれば、あと一息だ
今日は泊原発の停止により、国内の原発稼動がゼロになる日。芝公園では集会とデモも催された。
私のいた隊列の問題か、デモ自体はどうもあまり盛り上がりがなく残念だった。大体、休日の無人地帯を歩いても士気が上がるわけがない。規模の大きいデモに限って無人地帯をコースに選ぶ傾向があるような気がするが、どうしたことだろう。
年配の方々は、ツイデモやドラムデモに学んだ方がいい。「みなさーん、私たちは清く正しく美しい人々でーす」なんて強調しても、誰の心も掴めないぞ。駄弁くってのんびりも悪くないが、メリハリが必要だ。
逆に言えば、カラオケを歌おうが、雑談に花を咲かせようが、踊りを踊ろうが、盛り上がりさえすればそれでいい。基本的なガイストの部分は皆理解している筈なので。

20120505demo01

解散地点で小熊英二氏を見かける。私のプラカードについて、軽く声をかけられた。この人は「1968」で散々叩かれた経緯があるが、今や運動の当事者である。このあたり、どう整理をつけているのか興味深いところだ。
経産省前テント村では盛んにアピールが行われていた。発電停止は23時ごろであるという。もうすぐだ。

20120505kei

自称愛国烈士サマも見かけられた。あと、これとは別に秋心会とかいうグループがピーチクやってたな。
20120505demo02

追記:尚、今日は月が地球に接近する「スーパームーン」の日。心なしか、普段より明るく輝いている気がする。

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首飾りは破滅の輝き
アレクサンドル・デュマ「王妃の首飾り」読了。フランス大革命の序曲となった首飾り事件を題材にした小説である。だが、やたら長い割には今ひとつの印象を受けた。

本作に描かれる首飾り事件のあらましは次の通り。
王妃、首飾りの購入を断る→ポルトガルの偽大使から購入話→宝石商ベーメル達、確認のため再度王妃にお伺いを立てる→王妃再び断る→ロアン枢機卿(すうきけい)が動き、王妃のために首飾り購入→事情を知った王妃、仕方ないと自ら購入を決め、前金支払う→月々の支払いが困難となり、前金を解約手付けとして首飾り返却→ジャンヌ横領
その後、発覚を恐れたジャンヌがニコールを替玉にして、偽王妃と枢機卿の密会をお膳立てする(この辺り史実と順序が逆か?)など一悶着も二悶着もあるのは周知の通り。尚、この小説ではカリオストロ伯爵が裏で色々糸を引いているらしいのだが、目的が不明のままである。
尚、ウィキペディアで、この小説では「王妃の陰謀説が取られている」と記載されているのは誤り。

「ブラジュロンヌ子爵」にも言えることだが、デュマが王侯貴族の恋愛模様を描くときはいつも精彩がない。王妃をはじめ、シャルニー伯、アンドレ・ド・タヴェルネ(女性)、フィリップ・ド・タヴェルネ、誰一人としてシンパシーを感じさせない。正直、彼/彼女らの言動を追うとき、読むことに苦痛すら覚える。登場人物として存在感があるのがジャンヌ・ド・ラ・モット伯夫人だけ。それも後半は尻すぼみに終わってしまう。裁判の場面はあっさりし過ぎだ。執筆時期と70年の開きはあるが、本国の出来事であり、有名な事件でもあるので説明を要しないと考えたのだろうか。だが、公平に見てアニメ版「ベルばら」の方がドラマとして出来がいい。

史実のカリオストロ伯がこの事件に巻き込まれたのは事実である。これ以降彼の運命は凋落し、晩年はローマにて陰謀の嫌疑で逮捕。結果、獄中で餓死している。
詳しい内容は忘れたが、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズの女賊にこの栄誉ある(?)名が冠せられていることはご存知の通り。この女性、ルパンと丁々発止の死闘を繰り広げ、しまいにはルパンの息子まで攫っていったつわものである。こちらもそのうち読み返してみようと思っている。

reine

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人身の自由について(4)
これでおしまい。流石にこれだけ長々と再掲を続けていると自己嫌悪になってくる。ひとつの記事があまり長いと見苦しくなる、と考えたので、複数回に分けての掲載となった。当初、二回くらいに分ければ充分だと思ったのだが・・・
実際にはこの後に死刑論議が延々と続くのだが、その後、社会情勢に様々な変化があったので、今回は省略した。「変化」と言っても、決してよい方向ではない。私自身の論点に変わりはないのだが、人前に出すには、内容をもっと詰めるべきと考えた。

(承前)
「残虐な刑罰の禁止」ですが、死刑とこの条項との関係について、判例があります。1948年の最高裁です。これは確か、母と妹を殺した被告人が、「死刑は残虐な刑罰であるから、憲法に反する」と訴えたのですが、判決で死刑は合憲とされました。ポイントは2点あります。まず、死刑は残虐な刑罰には当たらないということ。もう1点は、憲法は第31条「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命もしくは自由を奪はれ」ない、にみられるように、死刑の存置を想定しているということです。
まず、死刑は残虐な刑罰かどうか。刑法11条に、「死刑は、監獄内において、絞首して執行する」とあります。絞首刑は、絞首台に立たされて、首に絞縄という縄をかけまして、床板を外し、落下の衝撃で脊椎と脳幹が破損して死亡するという方法です。「残酷な刑罰には当たらない」というのは、極めて疑問と思われます。
また、最高裁判決は、憲法31条を、「手続きを踏めば、生命を奪われることがある」と反対解釈しているわけです。勿論、31条は、適正手続きの必要性を規定したもので、生命が奪われていくことの当然性をうたったものではありません。死刑廃止と憲法31条は矛盾しません。
大島渚に『絞死刑』という映画がありますが、これは大体の雰囲気をよく表していると言われます。まだご覧になっていない方は、ぜひともご覧になって頂きたいと思います。また、アルベール・カミュが次のように述べています。「個人の心のなかにも、また社会の風習のなかにも、死が法律の枠外へはずされない限り、永遠のやすらぎは存在しないであろう」。これも噛み締めてみたい言葉です。

kokkai

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のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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