時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
挫折こそ青春の証である。
劇場版「Wの悲劇」(監督:澤井信一郎 脚本:荒井晴彦・澤井信一郎)を観る。この間、ドラマ版の下らない番宣に散々付き合わされてうんざりしていたので、とりあえずどんなものか一度観てやろうと思い立ったためである。
いまさら説明するまでもないと思うが、舞台女優の主演争いと、芸能界の裏側のドロドロを絡めながら綴られた青春映画。タイトルは勿論エラリー・クイーンのシリーズのもじりだが、「W」はwomenを表している。
前半はかなり退屈で、ついていくのが正直しんどかった。この手の恋愛がらみの話は正直苦手だ。中盤になって、三田佳子の圧倒的な演技力で展開をぐいぐい引っ張っていく。この人も家庭問題で散々バッシングされたものだが、やはり女優としての底力は侮れない。後半は蜷川幸雄演出による劇中劇が見事(本編のストーリーとパラレルの関係になっている)で、なかなかひきつけられた。
全体としては、ほろ苦い青春映画に仕上っているが、これは荒井晴彦のカラーなのだろう。まあ、傑作というわけでもないが、駄作というほどでもない。ドラマ版は勿論スルー。

「Wの悲劇」を観たのは昨晩の話。今日は何を思ったか、過去にのめり込んだ「魔法少女隊アルス」を一日かけて観る。風通しがよく、突き抜けた作品。やはり素晴らしい。

alus

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あれから一年・・・
今日は何の日だったろうか。ああそうか、原発全基停止六日前の記念日だ、と納得する。
渋谷でツイッターデモ。このツイッターデモも、始まって一年になる。それもやたら密度の高い一年だった。
このデモの特徴はお手頃感と入り易さだ。渋谷という比較的アクセスの容易な点、老若男女、有象無象が集まってワイワイやれる点、間口の広さと柔軟性が最大の強みだろう。一年間の試行錯誤を積み重ねた結果、渋谷の風景の一部に定着した感がある。ツイデモをはじめとする一連の行動が、デモを当たり前のものとして日本社会に位置づけた功績は大きい。私がイラク戦争以来、久しぶりのデモ参加を果たしたのも一年前のこの行動である。
コースは宮下公園からぐるりと渋谷界隈を歩き回る、いつものコース。異例の暑さで段々わけが判らなくなり、やたら空元気を振り回す。渋谷駅に近付いたあたりで、ふと不思議なものが視界に入ってきた。あ、もんじゅ君だ!さすがに存在感は大きい。まさかもんじゅ君と一緒に渋谷を練り歩くことになるとは思わなかった。
それにしてもここ最近、デモ参加の度に体中が痛い。無意識の内に力が入っているのだろうか。今日は喉が嗄れた。

20120429demo01

カワイ過ぎw
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シベリアのピアニスト
武蔵野市民学校の上映会で「シベリヤ物語」(監督:イワン・ プィリエフ)を観る。作曲家の故・林光に影響を与えた作品特集、という企画である。無料にもかかわらず、相変わらず観客は5人ほどだ。
内容はソ連のプロパガンダ映画。戦争で片手を負傷したピアニストが、ピアノを断念し、大衆酒場のアコーディオン弾きとして絶賛を博する。市井の人々の気持ちに接した彼はそこで新たな人生を始めようとするが、恋愛問題に悩んで忽然と姿を消す。その後、北極観測所で働きながら黙々と作曲を続け、大作を手に音楽界に返り咲く。
前半は薄っぺらな人間ドラマが続き、中盤の大衆酒場の場面から漸く登場人物像が立体的になる。コサックのむさい男など、なかなか魅力的な登場人物も現れるのだが、最後の演奏会のシーンでの朗読で全てがぶち壊しになっている。極めて粗悪で教条的なプロパガンダをぶち上げてしまっているのだ。イェルマークを「征服者」として讃えるシーン(スターリンを重ね合わせているのか)など、映像を客観的に見ても、先住民殺しの虐殺者としか思えない。
ソ連映画は「雪解け」以降に漸く変貌を遂げるが、それ以前の時代にどれだけの表現努力が可能であったか。この作品では庶民の姿を魅力的に描くなど一定の成果は窺われるが、結論から言うと、下らん制約など無い方がいい。
とはいえ、ロシア民謡映画として、また、アコーディオンの流行という副次的な影響において、歴史的な役割を果たした作品であることは記憶にとどめておくべきだろう。
尚、上映後、客席にいたシベリア抑留の経験者から貴重な話を聞くことができた。齢90才を超える方だがかくしゃくとしており、抑留時代の経験を詳細に語っていた。それだけでも有意義な一日と思えた。

「現代思想」5月号を購入。特集は「大阪論」で、内容は想像されるとおり。またクズ雑誌だの何だのと言い出さないか、ちょっと気になる。

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連休を前に
いつの間にか連休。しかしやたら身の回りがバタバタしていたため、実感が殆どない。
今日も首相官邸前で抗議行動があった模様。私は今日も時間の都合が付かずに参加できず。遠くから祈りをささげるのみ。
東電は血税一兆円をふんだくった挙句、原発再稼動の上、一般家庭の電気料金を10%上げる方針だという。「新生東電」とかぬかしているが、前よりもアコギになっているんじゃないのか。混乱のドサクサに憲法改悪を目論む輩が湧いて出ているのと、いい勝負だ。
それにしても、「生まれ変わります」と誓った結果が、前よりも酷くなる。どこかで見た構図だなぁ。ああ、都条例か。修正案と称して、前よりも悪い条例案を通過させたアレだ。

「週刊金曜日」に、イースト・プレス社に対する中傷記事が掲載されたことは先に述べた。今週号では、これに対する反論の投書が掲載されている(私のものではない。念のため)。委曲を尽くした良質の文章なので、一度目を通してほしいと思う。この問題については私からも別途改めて詳述したいと思うので、今日は報告のみとする。

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寓話のダイナミズム - 花田清輝のこと
小沢一郎の無罪判決は当たり前に予想できた事柄なので、あまりコメントすることもない。強制起訴で大はしゃぎしていた連中は何だったんだ。ところで、その陰に隠れた感のある、珍太郎の「みんなの前で殴るぞ」発言。79歳のガラスの拳が心配だが、やりたければやってみたらいい。勿論、間髪をおかずに世界中に配信されるが、「みんなの前で」と言っている以上、願ったり叶ったりだろう。それにしても、前にも言ったがこの男、血まみれで日本刀振り回してストリーキングでもしない限り、支持を集め続けるんだろうな。

昨日掲載した文章で花田清輝の話に触れたので、少し補足。花田が執筆したラジオドラマに「私は貝になった」というものがある。「私は貝になりたい」の主人公が、めでたくアサリに転生し、「何だっておみおつけの具なんかに・・・」とヤドカリに愚痴をこぼす。そこへヒトデがやってきて、妻と子供の目の前であえなく昇天。気が付くと柳の木に転生し、身動きもとれず惨めに過ごす身分に不平たらたら。すると自動車が衝突してまたもや昇天、川原の丸い石に生まれ変わる。「すっかり角がとれちまったせいか、ハラもたちません」と語る主人公。子供に宙に放り投げられ、「ああ、私は自由だ!」とつぶやく。そこでスピノザの有名な警句。落下する石は自分では身動き取れないにもかかわらず、自由意志で動いていると思い込んでいる・・・
いかにも花田らしい、人を食ったような寓話だが、なかなかこの主人公、解放されるわけにはいかないようだ。花田の文章がどれも寓話として読めるというのは多くの人が指摘する事柄である。だが、彼の作品の特徴は単一のイデーに還元されない要素が存在する点にある。「だが、はたしてそうか」というのが花田の口癖だが、ひとつ所の結論に落ち着くのではなく、常に動的なダイナミズムを維持しながら、バタバタと展開していくのが花田の文章の魅力だった。
花田作品に言及する人も少なくなったようだが、もっと評価されるべき作家である。久しぶりに花田著作集をひっくり返してみたくなった。

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「日本人の物語」から少し離れて
北の国で核実験が画策されているとのもっぱらの噂である。福一みたいな状態にするつもりか。それでなくても核実験並みか、それ以上の災厄をもたらしたばかりだ。これ以上核種を撒き散らすのはやめてくれ。

数年前、どこからも爪弾きにされた映画評を掲載する。文句を言うなら観てからにしようと、わざわざ公開時に劇場まで足を運んだ自分を褒めてやりたい。ちなみに劇場は、映画の舞台となった場所の目と鼻の先である(慰霊碑の写真はこちらに掲載 http://noir731.blog106.fc2.com/blog-entry-121.html)。

橋本忍脚本の映画「私は貝になりたい」(監督:福澤克雄)を観た。すでに過去に幾度もリメイクされ、花田清輝のパロディにまでなったこの作品については、いまさら解説する必要もないだろう。
今回の劇場版は主人公の冤罪を強調したことから、「日本人はカワイソーな被害者である」というメッセージとして、広く受容されている。そのため、多くの共感と反撥が寄せられている事も周知の事実である。
だが、気になったことがある。あくまで架空の話だが、仮にこの映画の舞台が現代であったとしてみよう。そして、この主人公が北朝鮮の兵士であり、捕虜として殺されたのが日本人だったとしてみよう。「将軍様の命令には逆らえない」というわけである。どうだろうか。多くの場合、共感層と反撥層の位置関係が逆転するのではないだろうか。無論、国籍の置きかえによって主張が変わるようであれば、論として失格である。
「この主人公の自己弁護の無様さは、いかにも日本人的である」という説を私は信じない。あのアドルフ・アイヒマンもまた、「私には罪はない。私は忠実に職務を果たしただけである」と言い募っていた。つまりどこにでも起こりうる話なのではないか。
「日本人の物語」と限定して捉えるのではなく、今日的、普遍的な課題と関連付けてみると、案外、この凡作からも反面教師的に得るところがあるのかもしれない。

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模倣を超えて - 精神のリレー
埴谷雄高に「ドストエフスキイへの感謝と困惑」(「天頂と潮汐」所収)という文章がある。内容は、ドストエフスキーは今日の文学に対して絶大な影響を齎したが、現在、あたかも人類の予言者のように捉えられてしまい、ある種の作家達に対して負の呪縛となってしまったというものである。換言すれば、ドストエフスキーのエピゴーネンに成り下がってしまうということだ。例として埴谷はサルトルとカミュを挙げているが、これには異論があるだろう。だが、偉大な先人の作品に接する際の、普遍的な陥穽には違いないと思う。
しかし、これはそうした先人の業績を避けて通るということを意味しない。忌避することは怠惰を意味する。ゲーテを読んでいないことを得意げに語っている脚本家がいたが、そんなことは何の自慢にもならない。
要は付き合い方ということだ。すぐれた先人達の業績とよく付き合い、よく学ぶこと。このことの意義は決して小さくない。神と悪魔が一身のうちに同居するような、ドストエフスキーの作中人物群が私達に教えてくれることは、まだ多い筈である。
テレビ報道をはじめ、薄っぺらな人間観に基づいた言説が飛び交う現状を見るにつけ、なおさらその感を深くせざるを得ない。勿論、自戒を込めて、である。

tencho

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15年目の「4.2.3」
中島みゆきに「4.2.3」という曲がある。アルバム「わたしの子供になりなさい」の末尾に収録されているものである。
15年前の4月23日、MRTAによる日本大使館占拠事件に際し、ペルーのフジモリ大統領は武力突入を命令。17人の犠牲者を出しながらこれを鎮圧した。
「4.2.3」はこの事件を題材にしたものである。歌はテレビ中継の様子をやや物憂げに淡々と歌い上げながら、やがてペルー国軍の兵士が担架に乗せられていく様子を描写する。「胸元に赤いしみが広がって」と、兵士が瀕死(或いは既に死亡)の状態にあることが窺われる。そしてこのことに対し、日本のテレビ報道が一切言及しようとしない様子に、歌の主人公は苛立ちを見せる。
長いので要約すると、「あの国の戦いの正当性については判らない。だが、助けてくれた兵士に対し、一言も触れようとしないのはどういうことなのだろう」ということだ。さらに「この国は危ない、何度でも同じ過ちを繰り返すだろう」と歌は続けられ、日本社会の病理性を描き出す。歌は後半に至るにつれ、ぞっとするような凄みを帯びてくるが、このあたりは実際に聴いて確かめていただきたいところだ。

中島みゆきの歌は譬喩、婉曲や反語表現を特徴とするが、この歌はストレートに時事的な問題を歌い上げたものである。それだけに、ファンの間では今でも語り草となっている。太田昌国が高く評価し、繰り返し言及していたことも記憶に残っている。
中島はゲリラ兵士の死については前述のように慎重な姿勢を見せるが、「少なくともこれだけはいえる」という視点から、事態の深部を抉り出すことに成功している。予備知識のない者にとっても普遍的に通じうる言葉となっている点は、決して侮れない。
「棚から本マグロ」でも何でもいいが、こうしたまなざしの鋭さだけは失わないでほしいと思う。

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「ブラック・ジャック」が時代遅れになる日
一日中体がだるく、ひどい腰痛に苛まれる。よって、今日は各地で反/脱原発関連のイベントがあった筈だが、全てパス。ひたすら安静にしながら自分を見つめなおす(つまりぽけーっとしている)日となった。
折角なので、昨日に引き続き、過去に当てもなく記した映画評を掲載する。これもだいぶ前に記したものだが、TPP問題が騒がれている昨今、案外タイムリーかもしれない。

マイケル・ムーアの「シッコ」については今さら贅言を費やす必用は無いように思われる。アメリカの医療保険制度を告発した映画で、まず、アメリカには国民保険制度が無く、貧しい人々は満足な医療が受けられない。のみならず、利潤追求に走る保険会社が支払いを渋り、保険加入者への治療行為さえ妨げている姿を映画は描き出している。あげくの果て、監督は医療難民(!)となった人々をキューバに連れて行き(この辺りの複線の張り方は周到で、なかなか心憎い)、適切な医療を受けさせる事に成功する。アメリカは文字通り医療後進国となっているのだ。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」で監督は、他者への恐怖と消費活動との関係を暴き、普遍的な問題として提示した(マリリン・マンソンへのインタビューシーンを想起されたい)。「シッコ」においては、資本の論理と生存権の問題が普遍的課題として提起される。この映画に日本社会の行く末を読み取った人は少なくないだろう。
ところで、「ブラック・ジャック」という漫画がある。言うまでもなく手塚治虫の代表作のひとつであり、奇跡の腕を持つ天才外科医が、ウン千万円という法外な医療費と引き換えに、患者を治療するという話である。
手塚の意図を私は誤解しない。手塚は、「生命とはそれだけ、かけがえの無いものだ」という生命倫理を、逆説的な形で示して見せたのである。
だが、ここで発想を逆転させてみてもいいかもしれない。つまり、かけがえが無いものだからこそタダにするべきだ、社会的に保障されるべきだ、という方向が考えられないか、ということである。
「シッコ」に描かれるアメリカ以外の諸国家は、そうした方向性を模索しているように思われる。恐らく、いずれの国々も様々な困難に直面しているに違いない。しかし、我々の時代はこの道を選択する以外に、社会を成立させることが不可能な段階に差し掛かっているのではないだろうか。
私は「ブラック・ジャック」が時代遅れになるような、幸福な時代が訪れることを願ってやまないのである.


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私達は誰のものでもない。
漠然としたまま、無為の一日を過ごしてしまった。情けない。
日中、鬱状態に襲われる。原因はおよそわかっている。疲労の蓄積と睡眠不足である。でもどうしようもないんだよな、これ。

以下の文章は2年程前に、発表する当てもなく記したものである。折角なのでここに掲載する。裏読みしすぎとの誹りを受けるかもしれないが、筋道だったものである限り、作品解釈は自由である筈だ。私はこう理解したほうが生産的と考えたため、このような論稿となったことをお断りしておく。
それにしても、臨界点に至った結果がハシズムのような代物だとしたらやり切れない・・・

ハンガリー映画「だれのものでもないチェレ」(監督 ラースロー・ ラノーディ)を観た。孤児である一人の少女が行く先々で虐待され、報われることなく死んでいく(?)という悲劇的な作品だが、背後に政治的な寓意が窺われる。つまり、最初に登場する農家=ナチス・ドイツ、2番目に登場する農家=ソ連、チェレ=ハンガリーと、擬人化されているのではないか。ナチスに占領され、ソ連に蹂躙されたハンガリーの近代史を譬喩として語っているのではないだろうか。そんな気がしてならない。
この映画が製作されたのは1976年。まだ積極的な体制批判が難しい環境であった筈である。そんな中で作られた一種の抵抗映画として考えてみると、また面白いかもしれない。
更に、この映画から今日のパレスチナ問題に思いを致すことも可能だろう。だが、何も外部にモデルを求める必要はない。ここで「自民党」「民主党」という単語を代入すれば、私たち自身の姿が見出されるかもしれない。無論、事態はまだ流動的だが、今後の動向如何では充分ありうる事柄である。
映画の結末は解釈の分かれるところであるが、人々の忍耐が臨界点に達したとき、一体何が起こるのか?色々複雑な思いを禁じえなかった。

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「よいミサイル実験」は存在しない。
日暮修一が亡くなったのか・・・もうあの表紙絵が見られないかと思うとやはり寂しい。リヴォン・ヘルムも亡くなったし、今日はあまりいい日ではないな。
「週刊金曜日」にLO騒動の記事が掲載されている。どっちに転ぶか不安だったが、「アマゾンは文化に携わるものとしての自覚を持ってほしい」という趣旨で、概ね私の主張と同じ内容。そこで執筆者を確認すると、案の定というか、昼間たかし。別に彼に不満があるわけではないが、もっと多くの論者が現れてもいいような気がする。

それにしても、北朝鮮の「飛行物体」でお祭り騒ぎを演じた(今も演じている)テレビ局は、インドのミサイル実験では何故騒ごうとしないのだろう。中国が射程圏に収まっているならば、当然日本もその中にすっぽり収まる筈だろう(今新聞を確認したところ、5000キロであれば近畿地方まで収まっている)。「流れ弾」が向かってくる可能性も皆無ではない。素朴に考えて、おかしいと思わないか。思わないんだろうなぁ、こいつらは・・・

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「回帰」熱
若松孝二監督が三島由紀夫映画でカンヌ映画祭に招待された。41年ぶりだという。41年前といえば、大島渚と共に「監督週間」で招待された時である(三島が死んで、間もない頃であることにも何か因縁めいたものを感じる)。この時は「犯された白衣」と「性賊(セックス・ジャック)」が上映された。前者は、胎内回帰願望と、ユートピア=救済の挫折を描いた若松の代表作。後者は未見だが、テロリストの少年を描いた作品で、日共本部爆破、総理大臣殺害、最後には天皇暗殺に向かうストーリーだった筈である。
若松は映画祭終了後、同行した足立正生と共にパレスチナに向かい、映画「赤軍-PFLP 世界戦争宣言」を製作する。これが若松の人生にとって決定的な転機となり、以降パレスチナとの密接な結びつきを築いていくのだが、その意味でもカンヌ映画祭は若松にとって忘れがたい思い出として残っている筈である。
若松の周辺についてはユニークな話題がいくつもあるのだが、きりがないのでここでは割愛する。三島映画がカンヌでどのようにして迎えられ、私達の前に如何なる姿を現わすか、興味は尽きない。



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たかが政治家
大阪市長が東京都の猿知事にエールを送っているらしい。橋下徹と石原慎太郎。最悪の東西コンビがある意味「切磋琢磨」してしまっているのがこの国の現状である。それにしても、この連中の人間学的イマジネーションの貧困なことといったら!
彼ら(特に橋下)の政治活動を支えるのは力関係の論理である。彼らは都合よく「民意」を利用する。狡猾な簒奪者の手口である。ここに搦めとられてしまうと、大切なものを見失う。善意を権力者に散々利用された挙句、すべてを奪われることは決して珍しい話ではない。

人に頼まれて、ここ一ヶ月程の原発関連の抗議行動について、短い文章をまとめている。およそこのブログにしたためた文章の使い回しだが、高齢者などネットを利用できない環境の人も多いため、報告としてはありだと思う。この程度の文章でよければ、の話だが。
今週末には色々と動きがあるらしい。この所夢見も悪く、寝不足の日々が続いているので、体の許す範囲で行動したいと思う。

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「国家」から遠く離れて
「石原慎太郎は、尖閣諸島を自腹で購入して下さい、そして責任持ってそこに住んで下さい。そして二度と帰ってこないで下さい」
思わずそんなことを呟いた。愚かな為政者の思いつきだけで、世の中を振り回されたらたまったものではない。
所謂尖閣諸島問題については太田昌国の言う通り、「国家」という枠組みを超えていかない限り、解決は見ないのではないかと思う。それが日本であろうと、中国であろうと、「国家」という概念を絶対的な機軸にした立論は陋劣極まりない。殆ど猿と変わりない東京都知事にしろ、中国政府の反応にしろ、その言説には貧困さが目立つばかりである。
この点で、太田の次の発言は極めて示唆的である。
「二国間で領土領海紛争がある問題に関しては、19世紀後半から形作られてきた国民国家の枠の中でやり取りをしていても、もはや解決不能な時代にわれわれは来ているだろう。もっと別な水準で、国家主権というものを外したような形でこの紛争地域を、たとえば共同開発・共同利用するような知恵を現代および未来の人類は編み出さなければだめだろうというのが、基本的な私の考えです。ですから歴史的にいろいろな主張をして、自分たちの国のものだとかいや違うだとかという議論も、もしかしたらこれからも必要な議論として残るかもしれないけれども、もう少し先を見すえた論議として、そこを抜け出る知恵を両方の当事者が持たなければならないだろう。そういうところに未来社会のイメージを考えたいという、そういう立場をとっていきたいのです。もちろん、その前提としては、過去において覇権主義的な行動をとった側の国が、痛切な自己批判を行なうということがあります」(「「領土ナショナリズム」をどう考えるか」)
領土問題となると、やたら勇ましい発言や、満腔の憎しみを露にしたような言説が巷を席巻する。そんな中、「国家」という図式を一旦取り外して考えてみると、肩の力が抜けて、ふっと自由になったような気がする。勿論、そう簡単に解決を見るような問題ではない。だが、徒に窮屈な議論からは何も生まれないことは確かだろう。

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進め一億火の玉に!?
仙谷発言。「原発停止は集団自殺のようなもの」。レミングの親玉たちにそんなことを言われても全く説得力がない。
私は喋りが駄目なので、話し言葉の揚げ足を取るような真似は好きではない。だが、どこをどう間違えたらこんな発言に至るのか、この筋道は想像を絶している。「原発政策を続けることは自殺行為だ」とするならば通常の理解の範疇に属する。既に原発事故により、自殺者が現れていることを忘れたのだろうか。
だが、少し角度を変えて考えてみると、何となくわかってくる。要するに、財界人の事しか頭にないということだ。原発がとまったら財界にとって損失(自殺行為)だ、財界がくしゃみをすれば庶民は風邪を引く、だからこれまで通り原発政策を進めよう云々。だが、こんな屁理屈がまだ通用すると思っているのだろうか。
この一年、原発資本主義はその諸矛盾が明らかとなり、限界を露呈した。いまや、日本社会のあり方が、根底において再検討を迫られている。つまらない脅迫的言辞の下に、原発と心中するほど私達は愚かではない。

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「失速」なんか、させやしない
池袋の反/脱原発デモに参加。昔はブクロといえば中核派だったが、彼等が党としてこの地を撤退して久しい。
事前の宣伝が乏しかったため、正直、動員数に不安があった。50人くらいで終わりはしないかと気掛かりだったが、徐々に人が集まり、最終的に250人(主催者発表)程になった。
区役所前の公園からサンシャイン通り交差点を経て、グリーン大通りを東に向かい、乙女ロードなどサンシャイン周辺をあちこち回り、明治通りから戻ってくるコース(図らずも、池袋のオタクスポットをいくつも押さえる形となった)。とにかく賑やかで、楽しい雰囲気が醸し出せたと思う。規模としては決して大きくはないが、参加者の頑張りで、充実したいいデモになった。このデモを成功させようという意気込みが全員に感じられた。間違っても「失速」なんて言わせない。
個人的な事情を言えば、池袋近郊の学校に通い、ひとときはサンシャインを勤務先にしていたため、池袋には思い入れがある。この地での行動に参加できたことはやはり嬉しい。

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雨の巷に・・・
玄関の鍵が壊された。空き巣狙いか、悪質な悪戯か。どうも後者のほうが思い当たる節があるのだが・・・?大家に頼んで鍵を修理してもらう。セキュリティを考え直したほうがよさそうだ。
今日はやたら寒い一日だった。冬が戻ったのか。漠然とプリティ・メイズなどを聴きながら一日を過ごす。あちこちで原発関連の抗議行動があったはずだが、一週間分の疲労が溜まっているので、今日は休み。頑張っている人たちは偉いと思う。

先日、大西巨人が大阪の君が代問題についてコメントしていた(この人も92歳か。達者なものだ)。
彼の語るところによれば、戦前の軍隊でさえ、こんな細かなチェックはしなかったようだ。君が代斉唱は歌っているフリをしていれば息を抜けたとのこと。嘗ては軍隊の論理と軍隊外の論理は別でありえたのだが、大阪では軍隊さえも行わなかった無茶を市民社会に持ち込んでいるということになる。
大西が左翼陣営において、旧日本軍の証言者として重要な功績を残していることはよく知られている。軍隊には軍隊なりの一貫した論理性があり、野間宏の「真空地帯」的な方法では軍隊への批判にはならない、というのが大西の主張である。ぐうたらな私は「真空地帯」を読んでいないので、野間批判の部分については留保する。だが、敵を見くびってはならない、侮ってはならないという点については納得するものがあった。興味のある方は大西の随筆「俗情との結託」、小説「神聖喜劇」を繙いていただきたい。
尤も、「神聖喜劇」は途中から飛ばし読みしたので、そのうちきちんと読んでみたい。尚、大西の随筆に時折見られる、変に謹厳居士な所はあまり好きではない。

shinsei

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たまや!
えーと、どこから始めてよいのやら・・・
北の国からの飛行物体は、空中でめでたく破裂したらしい。一方、原発が破裂してしまったにもかかわらず、再稼動などと血迷ったことをぬかしたり、火事場泥棒的に青少年健全育成基本法などという、全く訳のわからない代物をぶち上げようとする国が存在する。これが東アジアをめぐる、今日の情況である。
今日の首相官邸前の再稼動反対・抗議行動には私も短い時間、顔を出した。雨降りにもかかわらず、先日参加したときよりも人数は多い。勿論どのような決定が下されようと、私達は抗議行動をやめるつもりはない。皆、それくらいは腹をくくっている。

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木嶋被告の死刑判決。幾らなんでもまずいんじゃないか。「やっているかもしれない、やっていないかもしれない」だったらどう考えても無罪だろう。市民感覚を云為する問題ではない。疑わしきは罰せず。これは踏み破ってはならない原則である筈だ。
「それっぽい、胡散臭い」で判断されるのであれば、バラエティ番組のアンケートと選ぶところがない。検察が立証できなければ、それは彼らの敗北である。裁判員も、そこは割り切ったほうがいい。さもなくば、官憲はますます杜撰な捜査を行ってくる。

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春の日の、けだるい夢想
12日の木曜日。イギリスにそんな題名のミステリー・ドラマがあった。レンタル版も出ているので、観てみるのも一興だろう。「13金」とは無関係なので、念のため。尚、「14日の土曜日」という珍妙な映画もあるらしい。アメリカの通販サイトでジャケットを見た途端、脱力した。
http://www.amazon.com/Saturday-14th-Richard-Benjamin/dp/B000058TIE(米アマゾンのページ。ジャケットの裏側が凄い)
映画「13日の金曜日」については、このブログでも散々レビューしたので繰り返すこともないだろう。震災の後、まともな映画を観る気が起きなくなっていた際、ひたすら「13金」シリーズを追いかけていたものだった。未来世界で宇宙旅行まで達成したジェイソンの、その後の活躍が観られないのはいささか残念である(リメイク版は未見)。あの原始的な暴力性は、その単純さゆえに類を見ないものとなっているのだが。

テレビ局は相変わらずの北朝鮮祭り。連中にとっては格好のメシの種がやってきたものだ。それにしても、一体いつまでやるつもりかねぇ、




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死者に対する礼節は、<誠実>である。
アレクサンドル・デュマ「王妃の首飾り」(上)を読了。途中で中断したため、えらく時間がかかってしまった。上巻だけで六百ページの大部の本だ。ちなみにこの作品は、「三銃士」(ダルタニャンシリーズ)と同様、大部のシリーズの一部をなしているという。協力者がいたとはいえ、よくも書いたものだ。

私の敬愛する作家・石川淳に「敗荷落日」という文章がある。永井荷風の死に際して書かれたもので、抜け殻のような晩年を送ったとされる荷風に対し、容赦なく鞭打つ文章であった。石川淳が荷風にどれだけ畏敬の念を抱いていたか、想像に難くない。では、何故彼の筆致は苛烈のほうに傾いたのか。
作家と作家の関係は、精神の生身の対決である。死に際してもそれは変わることはない。そこには一切妥協などありはしないのだ。それこそが誠実な姿勢というものである・・・そんなところだろうか。畏敬する人々に対し、私がそこまで厳しい緊張関係を持てるかどうか自信が無い。だが、少なくとも石川にとって、荷風の存在はそうした対象としてあったことは事実である。
さて、今月号の「創」誌上において、佐高信が吉本隆明に対し、しきりに罵詈讒謗を浴びせかけている。吉本を批判すること自体には別に異論を挟もうとは思わない。真摯な対決が行われるのであれば、それは立派なことだと思う。
しかるに佐高の文章には、垂れ流し的な罵言以外は何も見られず、実に無残な体をなしている。気に食わないものに対し、何が何でもマウンティングしようという浅ましい根性ばかりが窺われた。「あいつはバカだ、俺は偉いのだ」式の幼稚極まりない自己顕示である。そこには、生身の精神の対決といえるものは一切無い。
驕りの高みに立って弛緩した魂は、精神の運動をやめる。これを頽廃という。佐高の精神は頽廃の極みに達したようだ。改めていう。生前葬を出すべきなのは、むしろ佐高信に対してである。

テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

「春が来たなら ひとりだつたら」
図書館から借り入れ中の本が片付いたので、読みさしになっていた「王妃の首飾り」を読み進める。アントワネットが、零落したヴァロワ王朝の末裔(自称)、ジャンヌ・ド・ラ・モット伯夫人を晴れ舞台に立たせようと奔走する。史実を基にしているので、カリオストロ伯以外の主要人物は「ベルばら」とほぼ同じ。ローアンやオリヴァ(ニコール)・ルゲーも登場する。オリヴァは本作では威勢のいい町女として登場。内縁の夫をコテンパンにやっつける。ちなみに「ベルばら」では娼婦として描かれており(こちらが史実か)、アニメ版ではソーニャ・マルメラドーヴァを意識したような性格付けがなされていた。

北朝鮮の「衛星」発射計画。勿論、誰得な挑発行動ではあるが、この騒動で一番喜んでいるのは、わが国の先軍主義者達だろう。ニュース・ワイドショーでは、やたら勇ましい言動で危機を煽り立て、殆どお祭り状態。似たもの同士というべきか。

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見出された扉
ヴォンダ・マッキンタイア「脱出を待つ者」の感想を記す。今は亡きサンリオSF文庫より刊行された一冊である。古本屋で見かけて以来、何となく気になっていた。結局、購入はせず、図書館でリクエストすることとなった。
「ここではないどこかを思うこと」というのは宮台真司がよく口にするテーマである。あるいは中島みゆきの歌を思い出してもよいが、別に特別な着想ではない。「この社会はイヤだ、もっといい世界で生きていたい」というのはこの社会に住むものであれば、だれでもそうした夢想を抱く筈である。
本作の舞台は未来社会。人類が壊滅的に荒廃した地球を見捨て、宇宙に文明圏を築いている世界である。主人公は細々と生き残った地球人の一人。いつか頽廃した地球から脱出しようと夢見ている。そこへ、前述した<外>の宇宙文明圏から船が訪れる・・・
やたら窮屈で鬱陶しい未来世界は、現代のアメリカ社会の鬱陶しさを象徴的に重ね合わせていると見えなくもない。主人公の恋人に妙に日本風な属性が見られるのは、<外部>への渇望からくるものだろうか。何しろ名前が「ヒカル」で、源氏物語からとられた名である。アメリカ人にとって、日本は象徴的な脱出口のようなものに見えるのかもしれない。
後半の洞窟探検物を思わせるくだりはなかなか読み応えがある。主人公達は地底世界の変異した原始生物や、危険な鉱物群に行く手を阻まれながら真っ暗闇の迷宮を彷徨うのだが、子供の頃、「トム・ソーヤ」から「八つ墓村」に至るまでの迷宮探検的な物語に親しんだ経緯があるので、正直わくわくした。
心理学的な言辞を弄すれば、本書は地底や洞窟といった、胎内的世界からの脱出の物語ともいえる。胎内のイメージは「生」未満であり、「非-生」ということで死と親和性を持つ。懐かしくもおぞましい世界だ。地底という胎内的な世界を通過した後に、地球からの脱出を果たす主人公達には、再生のイメージが刻印されている。要するに生まれ直したいのだ。
脱出後の世界にどのような栄光と挫折が待ち受けているかは、たれにも知るすべはない。だが、人は己の軛から自由になろうとせずにはいられない。私達の社会の困難は、そうした脱出の機会を夢見ることすら許されなくなっていることにあるのではないか。

dasshutsu

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さまざまな足跡
ヴォンダ・マッキンタイア「脱出を待つ者」読了。なかなか読み進まず、読了までに手間取った。早く図書館に返そう。感想は後ほどに。
月刊「紙の爆弾」の付録で秋山理央氏のことが軽く紹介されていた。「脱・反原発デモに「ビデオ忍者」あり」との記事。
実際、彼の仕事は貴重なものだと思うが、大手メディアで話題になることはあまりない。それでも、だんだん無視できない存在になりつつあると思うと、何だか愉快でたまらなくなってくる。

安岡力也が亡くなった。危篤状態と聞いていたので、驚きはあまりない。子供の頃は「全員集合」派だったので、「ホタテマン」をリアルタイムでは見ていない。その後、バラエティでの出演、CMの黒飴マンなどを見て「付き合いのいい人だなー」と思ってはいた。タレントとしての彼に特別な思い入れはなかったが、「野良猫ロック セックスハンター」(監督:長谷部安春 脚本:大和屋竺)は素晴らしい傑作だったことを強調しておく。

kamibaku

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武蔵野市民学校のこと
書き写すのが面倒なので、画像としてまるごとUPする。
判りにくいが、中段の部分だけ志木ふれあいプラザにて催されるようだ。

musashino1204

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ジャクソン・ポロックを受け止めて
桜の花咲き乱れる中、ジャクソン・ポロック詣でに行く。展覧としては、左程悪くない。そこそこ人は入っているが、佐伯祐三展や、ダリ展の時のような、人の頭しか見えない状態は避けられた。どちらかというと、初期作品の展示に力点があるように思われ、もう少し全盛期の作品を多く並べてもよかったような気もする。
ポロックといえば、ポーリング(ドリッピング)。パネルやカンバスを床に置いて、絵の具を注いだり、叩きつけたりする技法がよく知られている。口の悪い人はどれも同じようなものと言うだろうが、実際には「作る」ことにこだわった人だと思う。
大岡信がポロックの土俗性を指摘していたが、的を射た論である。インディアン・アートのプリミティブな美学を自らの感性によく取り込んでいるのだ。
有名な「カットアウト」は初めて実物を観たが、題名のとおり絵を切り抜いてあるんだな。画集で見た時は分からなかった。晩年のブラック・ポーリングになると、前衛書道のようなものだ。私は色彩豊かなポーリング作品の方に魅力を感じるが、晩年の作品も見直されていいかもしれない。とはいえ、彼にとってもひとつの過渡期だったのだろう。当時、相当苦悩していたと聞く。結局そこから抜け出せないまま交通事故で死んでしまった。あまりにも早すぎる死であった。
何やかや言っても現代美術の礎を築いた人だ。シュルレアリスムの系譜は今でも持て囃されるが、ポロックのようなアンフォルメルの系譜はとっつきにくく映るかもしれない。取り敢えず、独特の「乱雑な秩序」ともいうべき作風、カンバスに固定化された暴力的な色彩に、巻き込まれてほしいと思う。

Pollock

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サド論のためのプレリュード(3)
(承前)だが、前述の芸術観の持ち主は、「では反倫理的な作品が読者に及ぼす影響についてはどう責任を取るのか」と問うかもしれない。しかし、読者が作品をどう読むかについては読者の精神的姿勢如何にかかっているので、どのような影響を受けるかについても一義的には言えない。道徳的な作品を読んだからといってその道徳を信奉するとは限らないし、反道徳的な作品を読んだからといって、既成の社会秩序を破壊しようとするとは限らないのである。

ここで所謂戦意昂揚文学について少し触れておきたい。まず、その社会的影響についてであるが、これらの文学作品が影響を与え得たのは、社会がそのような受容状態にあったのが原因と指摘できる。次に、これらの作品には、それなりの文学的な評価が成立するということである。最後に、文学と戦争責任についてであるが、この場合あくまでも文学者のとった態度を問題とするわけで、作品論とは切り離した場所で追求されなくてはならない。また、ここでも単に戦意昂揚文学を書いたということが問題なのではなく、何故書いたのか、如何に書いたのかが問われるわけである。吉本隆明は欧米の戦争詩について次のように述べている。
「戦争を賛美するとか戦争に反抗するとかいうことを提起するまえに、極限情況のなかで人間主体がそれに耐えようとする無類の格闘を、それはしめしている。そのような詩には、たとえば、戦争詩一般を悪とするという判断を拒否してくる問題をはらんでいる」(吉本隆明「詩人の戦争責任論」)

以上述べてきたようなことから、私達は次のようなことが言える。すなわち、《倫理》や《有用性》の観念において、文学や芸術作品を規格化することは不毛であること、そして、作家がどのような立場を選ぶかは、それ自体では作品評価には影響しないということである。
サドの作品について論ずるにあたって、私達はこれまで述べてきたことを「前提」として確認することとする。何故このような前提を必要としたかというと、或る種の人間にとっては、サドのような「反道徳的」な作家を問題とすること自体が、既に逸脱だからである。だが、これまで確認した諸原則によって、我々はサドを取り上げることを可能とする道を確保し得た筈である。

以上で序文がほぼ終了する。あとは本編の概要に関する断り書きが少しあるが、ここで引き写しても仕方がないので省略した。
やたら生硬な文章だが、悪影響論に関するくだりは、平たく言えば「作品は良い影響も悪い影響もあたえ得るし、殆ど影響を与えないかもしれない」ということだ。このレベルの危険性を言い立てていたら、日常的な挨拶をはじめとするコミュニケーションすら取れなくなってしまうだろう。この文章を書いている時点では今日のような表現規制騒動は、まだ殆ど目に見える形では現れていなかった。山本直樹が「BLUE」でやられたくらいか。
若書きではあるが、今日に至るも私の基本的な姿勢は変わっていない。それにしても、馬鹿げた言いがかりで低レベルの糾弾ゴッコに打ち興じる連中は、どうしてこうも後を絶たないのだろうか。

A_V

付記:戦意昂揚文学に関するくだりは過去の言及と重複するが、本来この文章において考察したものである。

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サド論のためのプレリュード(2)
(承前)《倫理》が作品に対して示すこのような姿勢を批判するためには、個々の作品について逐一擁護するよりも、より普遍的な原則を打ち立てる方が望ましい。
まず、一般的に、文学作品にあらわれた言語は作品化の手続きを踏まれた言語であり、決して生のままの、教唆、扇動の言語ではないということが指摘される。各言語はその作品の中に内在化されており、個々の言葉尻を捉えて批判することは意味をなさない。
次に、作品が何らかの《倫理》に抵触するような思想に彩られていることは、その作品の価値を貶めることにはならないということを確認しておきたい。
作品が正しい理念を表明していなくてはならないという発想は、ロシア・マルクス主義の芸術理念と全く同じものである。こうした芸術観の信奉者にとっては、表明された理念の「正しさ」が、作品評価の尺度となる。少なくとも、 評価のための前提となっているといえる。
しかし、言うまでもないことだが、反道徳的な世界(姦通や殺人など)を描いた作品が優れた傑作となり、人々に感銘を与えることは充分にあり得るし、逆に非の打ち所のない道徳訓を提唱した作品が凡庸なものになってしまうことも充分にあり得る。作品の優劣は、そこに描かれた「理念の正しさ」には何の関係もありはしないのである。(続く)

上記は昨日の続きだが、リアルタイムの話題についても一言。大飯原発の件はまさに正念場。取り憑かれたように再稼動を目指す野田政権に対し、明日18時より官邸前で抗議行動がある模様。

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サド論のためのプレリュード
天罰男と狂乱市長が何やらコソコソとナイショ話をしたらしい。BL的な題材にならないかと考えたくもなるが、取り敢えず詳細が分かってからあれこれ考察したい。
先日、遠い昔に記したサド論の一部を公表したので、今回は序文に当たる部分を掲載する。みっともない文章には違いないが、自分の出発点を確かめる意味もあるので。


文学作品は如何にして読まれるべきか。そしてそれは如何なる場所に位置するか。サドの作品を論ずるにあたって、これらのことを簡単に考察していきたい。
よく知られているように、サドの作品群は様々な形で弾圧を受けてきた。その理由としては、風俗壊乱、思想の危険性などが挙げられる。勿論、現在これらの言辞は殆どが時代遅れとなりつつある。だが、こうした、文学を規格化しようとする動向自体は決して終わったわけではない(「芸術か猥褻か」という論議については低俗になるのでここでは扱わない)。
今日、芸術作品に対し、何らかの規格化が行われるとすれば、多くの場合、その動機を《倫理》に負っている。この《倫理》という概念は、実際に作品に対し、大きな拘束力を発揮する。たとえば、「差別表現」の名のもとに作品が絶版にされたりすることはそのよい証左である。童話「ちびくろサンボ」が絶版にいたったことは私達の記憶に新しい。
一般に、その作品のうちに何らかの倫理的禁忌(差別、暴力等)にふれるようなニュアンスが存在していることが摘発の根拠とされるといえる。サドの作品の場合で言えば、ナチスとのアナロジーとして、ナチスに匹敵する人間弾圧のイデオロギーとして、糾弾されたのである。たとえば、レーモン・クノーは次のように記している。
「サドによって想像され、また、サドの登場人物によって願望された世界が、ゲシュタポや、その拷問や、収容所の君臨する世界の悪夢のような予兆であることは明らかだ」(Maurice Lever 'Donatien Alphonse François, marquis de Sade'参照)
さしあたり、ここでこの発言の短絡性を指摘することは控えたい。むしろクノーの評は、ヨーロッパにおいてナチスの記憶が如何に根深いものであるかを物語っているといえる。(この項続く)

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狂風記2012
栃の嵐・・・じゃなかった、春の嵐である。昨日から騒がれていた強風がとうとうやって来た。風速は20メートル以上だという。尤も、ピーク時には外出する用事がなかったので、大事には至らなかった。ちなみに石原裕次郎主演の映画は「風速40米」だった。
どこかの看板だったのだろう。「葵」の文字板が道端に転がっていた。くわばら、くわばら。ぶつかってきたら洒落にならない。ニュースでは「爆弾低気圧」と呼ばれているらしい。何だかバクダンアラレみたいな語感だ。

与太話はこれくらいにしておく。
日本国憲法には「すべて公務員は全体の奉仕者であって・・・」と規定されている。この「奉仕者」という文言は、公務員の公僕としての性格を明示したものとされている。これは、憲法を少しでも学んだものは誰でも知っている事柄である。
さて、当たり前に憲法を学んできた筈の、弁護士出身の市長(=公務員)が、「皆さんはきょうから公務員です。市民に対し命令する立場です」と訓示をのたまった。この人物にとっては、公務員とは全体の支配者ということなのだろう。彼が権力のことしか考えていないのがよく分かる迷言だった。荒れ狂っているのは天気ばかりではないようだ。

aoi

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桜考
やたら慌しく一日が過ぎる。そういえば、去年のこの時期はバカのせいで、花見をやるのやめるのと騒がれていた。
私は少年時代に読んだ安部公房の影響からか、「桜の花の美しさ」と言われても、どうも違和感が残ってしまう。ちなみに小林秀雄御大は、年をとると桜の花の美しさがわかるようになる、とのたまったという。確か大江健三郎がそんなことを書いていた。その後、少しばかり年を経てきてはいるが、どうだろう。近所を歩いて桜並木を眺めると、確かに見事だな、とは思う。同時に、何かギクシャクしたものを覚える。太宰治が富士山に抱いた違和感もこれに近いかもしれない。「富嶽百景」は日本という国家に対する愛憎相半ばした感情を描き出した傑作だと思うが、私の場合、さすがに桜の花にそこまで身構えた感情を抱いているわけではない。近親憎悪・・・いや、「憎悪」まではいかないな。むしろ「嫌悪」だろうか(尚、本居宣長には「敷島の大和心を・・・」で始まる有名な山桜の歌があるが、石川淳に言わせればただの下手糞な駄作である)。
例えば、ポップスなどでやたら「桜」を歌われるとちょっと勘弁してくれよと思う。フジヤマ・ゲイシャと歌っているのと変わらなく思えてしまうからだ。「桜の美」にはむしろ逆輸入的な要素が含まれているのは事実である。これはドナルド・キーンの功績(?)が大きいが、とにかくあまりベタに扱うのはみっともない。むしろ梶井基次郎のように、死体が埋まっている様子を想像するとき、何故か愉快な気分になる。
アニメなどにおいては桜の花はクリシェである。これは、作品の舞台に学校を設定する場合が多いからだろう。中には「これでもか」といわんばかりに凝った桜を演出する人もいる。昨年他界した出崎統などもその一人だった。
ともあれ、私たちはこれからも否応なしに桜と付き合い続けることになりそうだ。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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