時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
愚か者たちの挽歌
「海燕ホテル・ブルー」(監督:若松孝二 脚本:黒沢久子・若松孝二)を観る。
突風の中、午前の回ということもあり、客席は空いていた。原作はこのブログでもレビューした、船戸与一のあまり出来のよくない作品。どうなることかと心配したが、往年の若松映画を髣髴とさせる、不思議な味わいのある作品となった。「犯された白衣」や「処女ゲバゲバ」を想起した人も多いだろう。一種のファンタジーといってもいい。尚、原作に登場した、コミューンを夢見るおやじは登場しない。
テーマは「転向」である。私は転向自体を悪とは考えない。なぜ転向するのか、いかに転向するのか、が問われる筈である。本作では欲望・快楽に溺れて志を喪失したあげく、浅ましく醜い争いにひた走る者たちが描かれる。序盤に登場した、右田(ウダタカキ)の方が人間的ですらある。彼は黒田三郎的な「日常」を必死に生き抜こうとするのだ。
転向の問題では、「現代好色伝 テロルの季節」(脚本:小水一男)を思い出してもいいだろう。こちらは愛欲に溺れながらも、志を保ち続ける偽装転向者の話であった。この映画は自爆テロで終わるが、そのまま静かに転向者として共同生活を続けていったとしても、否定すべきではないと思うのだが・・・
ヒロインの梨花(片山瞳)は、とらえどころのない不思議な精霊ともいうべき存在である。劇中で彼女は言葉を発しない。老女の姿をとったときを除き、最後の「愚かな人たち!」という決め台詞が、唯一彼女の発する台詞である。「たまもの 熟女・発情・タマしゃぶり」(監督・脚本:いまおかしんじ)の林由美香に通じるものがある。こちらは決め台詞があるわけではなく、最後に声を発したときに、それまでの感情が迸るという構造だが。
グロテスクな争いを続けた挙句、自滅していく男たちを見下すヒロインの姿に、原発事故に対する総括を見出すことも可能だろう。からかうように発せられるラストの台詞は、重大な事故を引き起こしてしまった、私たち日本人に対して投げらつけれた言葉でもあると思われた。



パンフレットにはジム・オルークのサントラが付属している。
kaien

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首相官邸前の集団
したたか酩酊中。
取り敢えず昨日の首相官邸前抗議行動の話。時間的にかなり辛かったが、やはり顔だけでも出しておきたいと思った。19時45分頃に国会議事堂前駅に到着する。出口付近から既に人の列が出来上がっていた。最終的には200人程度に上ったらしい。アピールが次々に行われ、コールが鳴り響く。今回の原発事故で、放射能汚染が世界的に広まってしまった、人類はいまや文明の転換点に立っているのではないか、との発言が印象的だった。
原発事故は、まさに人類史に於けるひとつの敗北であり、大きな汚点だった。世界中に大きな影響を与えてしまっていることを忘れるべきではないだろう。日本だけの問題ではないのだ。
あまり長居は出来ず、30分程の参加で切り上げる。条例による制限一杯の、8時半まで抗議行動は続いたようだ。
重要なのは、フットワークだ。何かきっかけがあれば、いつでもすぐに大勢が結集できる環境が望ましい。現在、国会前、官邸前で、当たり前のようにアクションが起こせるような環境が出来上がりつつある。「デモがある社会を作ること」から一歩進んで、「官公庁周辺で抗議行動が当たり前に行われる社会を作ること」というテーマが生まれている。相手は極めてしたたかだ。これからもより柔軟な闘い方が問われていると思う。



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サドと死刑廃止論(2)
(承前)「法律はそれ自体冷静なものであり、人間において殺人という残酷な行為を正当化しうるような情熱には近付き得ないものであろう。人間は自然からこうした行為を許されるような感じやすい性質を与えられているが、反対に、法律は常に自然と対立し、自然から何も受けていないので、勝手に同じ逸脱を行うことが認められている筈がないのである」(「閨房哲学」)
ここで言われていることは、今日の言葉に置き直せば、「人間に対する生殺与奪権を、抽象的かつ無機的な法律などに委ねてはならない」ということになる。もっともサドの論理では人間の情熱による殺人ならば容認されることになってしまい、そのため復讐法も認めなくてはならないという結果に陥ってしまうのだが、少なくとも、人間の死というものをより現実的な事件として~抽象的な事項ではなく~捉え直そうとする試みは現在もなお、説得力を持つ。
モーリス・ルヴェは次のように述べる。
「ルソーや「善良な自然」の信奉者達が、美徳の名の下にあまたの首を切り落とす一方で、「破廉恥侯爵」が死刑に抗して唯一人立ち上がるのを考えることは興味深いことである」('Donatien Alphonse François, marquis de Sade')
かかる死刑反対論において、サドが彼の同時代から一歩現代に足を踏み入れていることは確実である。

付記:実際には、サドに先駆けてベッカリーアの死刑反対論が存在する。また、あのロベスピエールも弁護士時代は死刑廃止論者であった。しかしそれでも尚、サドの死刑反対論の独自の輝きが失われることはない。
ところで本日、三人の殺害が執行された。昨日から、死刑の話題に触れてきた矢先である。まさかこのブログに対する当て付けではないだろうが、嫌な符合だ。

先程、首相官邸前の、原発再稼動に対する抗議行動に顔を出してきた。この報告については稿を改めたいと思う。

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サドと死刑廃止論(1)
もう遥か昔のことになるが、サド侯爵のユートピア思想について論じたことがある。今読み返すと、若書きで実に汗顔の至りというしかない。だが、サドの作品を読む人もそれ程多いわけではないので、何らかの参考になればと思い、ここにその一部を発表する。長い論文の途中からの抜粋のため、やや繫がりが悪く感ぜられるかもしれないが、枯れ木も山の賑わいとして、ご容赦いただきたいところだ。

・サドの死刑反対論について
ユートピスト・サドを語る際に、今日なお重要性を帯びるテーマがその死刑廃止論である。生涯を通じて、彼は死刑制度に反対し続けた。この姿勢は彼の政治活動にもよくあらわれている。
「サドがピック地区の委員長としての権威を利用して、密告された者や告発された者の生命をしばしば救ってやったということは、ありそうなことである。(中略)サドが委員長の椅子を譲らねばならなかったのも、(中略)身におぼえのない反革命者の嫌疑で逮捕されねばならなかったのも、この度はずれな寛容の精神が招いた禍いであったと思われる」(澁澤龍彦「サド侯爵の生涯」)
理論として小説作品に表出されたものを検討すると、まず「アリーヌとヴァルクール」中の「ザメの物語」においては死刑の野蛮性と無意味性が主張され、「閨房哲学」所収の「フランス人よ、共和主義者たらんとすればあと一息だ」では、さらに彼の独自の自然哲学によってそれが補強される。「ザメの物語」ではやや心情主義的に流れる傾向があった死刑反対論が、後者では十八世紀の哲学言語に翻訳されるのである。(この項続く)

sade

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きれぎれの感想
鎌田慧「残夢」読了。幾分ギクシャクするところもあるが、読んで損はなかったと思う。レビューはもう少し整理してからにしたい。

北朝鮮の衛星-ミサイル問題は、正直勘弁してほしいと思う。だが太田昌国氏によれば、わが国では宇宙航空研究開発機構(JAXA)の業務から「平和目的に限る」との規定を削除しようとしているという。現在、改定案が国会に提出中だと。何だこりゃ。かの国と同じようなことをしてどうする。

大阪市の原発住民投票が維新の会(ハァ・・・)と公明党の反対によって否決された。維新(威信?)の会は自分たちの面子だけが重要なのだろう。民主的な手続きや、デュー・プロセスを憎悪しているとしか思えない。あくまでも自分たちの強権で物事が進まないと気が済まないということだろうか。
捏造問題についても色々語るべきだが、整理する時間がないので、別の機会に回したい。正直、付き合いきれない。

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雄弁と沈黙と
その昔、アメリカの女性パフォーマーが、「ハローキティに口がないのはアジアの男性優越主義が女性に沈黙を強要していることの証である」と告発したという(四方田犬彦「「かわいい」論」)。幼稚な言い掛かりであることはいうを俟たない。この手合いにとっては、郵便ポストが赤いのも差別や抑圧の象徴なのだろう。
この女性が実際にどのような価値観に基づいて行動しているかは知らない。だが、ただひたすら内容空疎な饒舌が持て囃される傾向は事実としてあるだろう。「よく自己を主張している」とかいうのがその理由らしい。私たちの身近にも、空回りした饒舌で肥大した自我を満たそうとしているような人物が存在する。そこには人間性への洞察など、微塵も存在しない。
法律学では「黙示の承諾」という概念が存在する。つまり、「黙っていると相手の言い分を認めたのと同じこととみなされる」という事である。「権利の上に眠るものを擁護しない」というのが法の原則であるが、これは取引や契約などの社会関係を円滑に進めるために設けられたルールである。
とりわけ、政治闘争においては結果がすべてである。勝たなくてはならない。沈黙は敗北を意味する。
こうした外形標準的な価値観は、人間性の真実からは程遠い。政治は愚劣である、と埴谷雄高が述べるゆえんである。そこでは、人間性にまつわる一切が捨象されてしまうからである。「沈黙」という概念ひとつとっても、そこには、傲慢、羞恥、怯懦、憎悪、照れ、感動など、さまざまな感情が存在し得る筈である。
さて、「自分を売り込んだものが勝ち」という価値観の持ち主が、社会のトップに立ち、汚らわしい手で私たちの生活をかき回す姿を想像してみよう。パワーゲーム的な、野卑な人間観により、私たちの人間性のかけがえのない部分が「無価値」として切り捨てられてしまうのだ。嘗て幸徳秋水は、運動において重要なのは人間学だ、と述べたという。私も、政治には人間学的イマジネーションが必要だと考えてきた。「維新」などという空文句に豊穣さなど何一つない。いま行われているのは価値をめぐる闘いである。

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デモの中の日常
渋谷でツイッターデモ。今日は天気に恵まれて、動員数も1000人程度と、なかなかの規模となった。
コースはいつも通り。宮下公園を出て渋谷の繁華街をぐるりと一回りし、表参道まで上った後に明治通りまで戻ってくるというもの。今や反原発デモは渋谷の日常風景のようなものとなっているが、沿道の反応は悪くない。
デモの際、無関心の人を非難する人を見かけるが感心しない。少なくとも私自身は絶対に真似したくない。相手が不愉快な思いをするのがよく判っているからだ。「一緒にやろうよ」と呼びかけるのがベストだが、オルグするような甲斐性もないので、むしろ自分が動くことを考える。そもそも、関心を喚起できない自分たちのあり方が問われる筈だ。
それにしても、今日は普段以上に疲れがたまった。どうしたことか?
帰宅後はCDの整理に追われる。鎌田慧「残夢」は、あと一息で読み終わる見通し。


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コミカル・ガバメント・ツアー
日比谷公園で「1000万人アクション」の集会とデモがあった模様。精神的、肉体的に消耗しているため、今日は参加を見合わせる。運動は根を詰めると自分を見失う。継続的に行うならば、生活の再生産が重要だ。潰れてしまっては何にもならない。

野田佳彦が「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」という珍妙かつ意味不明な発言を行った。「日本はポールで米国はジョン」だそうだ。思わずジョージとリンゴはどこへ行ったと突っ込みたくもなるが、ここまで奇天烈だと、どうもうまく絡み辛い。何だこのアナロジーは。額面通り受け止めるとしても、イメージがまるで掴めない。
ジョンがベトナム戦争時にどれだけアメリカと衝突したと思っているのだろう。「日本がポール」というのはどこから来たのか。ポールはジョンの手下じゃないぞ。思い当たる共通点を挙げれば、政治オンチというくらいか。
まあ、「ビートルズで一番好きな曲は?」との質問に「イマジン」と答えたり、「レット・イット・ビー」をジョンの作品と信じている人間が少なからず存在するのが日本の現状なので、驚くには値しないのかもしれない。

さて、ビートルズのアルバムを引っ張り出して(引越しの際、殆どが奥のほうに埋もれてしまった)聴こうかと思っていた矢先、こんなニュースが耳に入ってきた。
橋下塾長、国政進出に決意「中央を変える」(読売新聞)
 次期衆院選の候補者擁立に向けて地域政党・大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が24日開講した「維新政治塾」について、塾長の橋下氏は同日、「歴史を振り返っても、必ず、地方の動きから中央の体制がひっくり返る。地方が中央を変える」と述べ、国政進出に向けた決意を改めて表明した。

不快なので、もう寝る。

beatles

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「カイカク音頭でございます」
すこし生活環境に変化があったため、落ち着かない。ここ二ヶ月ほどが正念場だろう。しっかり自分を保ちたい。

今日の大阪。性犯罪前歴者に住所届け出義務化。教育2条例と職員基本条例が維新の会・公明党・自民党の賛成で可決。依然として橋下人気は高い。
「明治22年春、憲法発布せらるゝ、先生嘆じて曰く、吾人賜ゝの憲法果して玉耶(か)将(は)た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと」(幸徳秋水「兆民先生」)
中江兆民のように嘆息したくもなろうというものだ。がれき処理にしても、「みんなでやれば怖くない」で既成事実化しつつある。安全性の検証を行うのではなく、考えるいとまを与えないだけ。
共通するのは、デタラメな政策にもかかわらず、ムード的に良い事が行われているかのように印象付けられているということだ。為政者があくどい事を行う時は大抵この手法が使われる。一時期の改憲ムード然り、小泉改革然り(あ、同じ頃だったか?)。「歴史が教えてくれる」というのは嘘である。主体的に働きかけない限り、人間は歴史からは何も学ばない。何度でも同じことを繰り返す。しかし、茶番を繰り返すのも、いい加減飽き飽きしてこないか。

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イライラ
昨夜はなかなか寝付けず。その後も中途覚醒を繰り返し、結局殆ど眠れなかった。

大阪の狂った市長の妄想を、無批判に垂れ流す連中にはもううんざりした。本人もその支持者も、とにかく誰かを罰しなければという、強迫観念のようなものに取り憑かれているように思える。「まつりごと」とは、誰かを粛清することではない筈だ。
寝不足で頭が回らない。イライラばかりが募るので、今日はもう寝る。

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ドイツからのまなざし
仲間内で話題になっている番組。とり急ぎ紹介しておく。


ドイツZDF フクシマのうそ 投稿者 sievert311

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止まった時間が動き出す時
そろそろ図書館の返却期限が近づいてきたので、読みかけの本を後回しにして、鎌田慧「残夢」を読み進める。大逆事件の生き残り、坂本清馬の評伝である。特に当時のアナーキズムに関心は無いのだが、近代日本の精神史は一通り知っておく必要がある。まして、大逆事件といえば、日本近代史上最大規模の冤罪-大量処刑事件である。通り一遍のものではなく、やはりある程度きちんとした知識は仕入れておきたい。
途中、足尾銅山鉱毒事件に触れた件りがあるのだが、現代の原発行政と被って仕方が無い。陸奥宗光や原敬といった為政者の名前が背景に立ち現れる点など、まさしく相似形である。著者の鎌田がこれに自覚的であったことは間違いないと思われる。
以前にも述べたが、やはり明治維新以来の日本社会のあり方が、再検討されるべき時期に来ているのかもしれない。当時から醜い点が何も変わっていないと考えると、情けない限りだが。

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葱と糸
背中を痛めたので、一日安静にする。

先日、「蜘蛛の糸」に触れたので、ちょっとその続き。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に、「蜘蛛の糸」とそっくりの小咄が登場することは、読了した方ならご存知と思う。中盤でグルーシェニカがアリョーシャに語って聞かせる話だ。題して「一本の葱」という。
話の骨子は「蜘蛛の糸」と同じ。守護天使が一人の女に葱を差し伸べ、地獄から救い出そうとする。彼女は生前、乞食に葱を与えたことがあったのだ。すると、地獄にいた他の罪人たちが自分も助かろうと、女にしがみついた。女が「これはあたしの葱だ」と足で蹴落としにかかると、葱はぷつんご切れてしまった。天使は泣きながら去っていった。
芥川の作品は仏典の解説書が元になっている筈なので、直接的な模倣というわけではないだろう。人間の業を描いた作品だが、同時に作者自身の姿をそこに描き出したといっていい。カンダタは芥川であり、私たち自身なのだ。ここで注意して欲しいのは、作者がそれを断罪する立場にないということである。マルバツを判定するのが文学の役目ではない。己の宿命の悲劇を 見据えた作品であり、そこがこの掌編を印象深いものにしている。

kumonoito

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死刑を利用する者たち
「いつになったら君等は、人間を閉じ込め死なせる学よりも、人間を知る学を尊重するようになるのだろう」(D.A.F.ド・サド)

以下の文章は一ヶ月前に某所に投稿したものである。どうやら没が確定したようなので、一部を加筆修正の上、こちらに掲載する。尚、本件の弁護活動に対し、悪質な妨害行動を行った人物についても意見はあるが、別の機会に譲ることとする。あまり頻繁に奴の名を出すと、こちらまで穢れるような気分になるからだ(尤も、結局は否応なしに取り上げることになるのだが)。

光市事件の死刑判決。判決もさることながら、報道の浅ましさに怒りを覚える。
周知のように、この事件についての殆どの報道は、突如実名報道に切り替えられた。あるテレビ局は、「死刑判決が下ったので、実名報道に切り替えた」という。「死刑が確定した以上、元少年は死人と同じだ。死人に口無しだから、もう遠慮せずどんどん晒し者にして視聴率を稼ごう」とでもいうのだろうか。もっともらしい屁理屈の影には、嗜虐性への媚態が見え隠れする。この間の報道姿勢を見ると、彼らにとっては、殺人事件も死刑判決も、結局は自らの飯の種でしかないように思える。断罪されるべきは、報道自身である。
現法相は死刑に積極的な姿勢であるという。この点が実に気に掛かる。あまり考えたくないことだが、仮に本件の死刑が直ちに執行されるようなことがあれば、明らかにウケ狙い、熱狂した世論に対する点数稼ぎである。ヤクザが「敵方の幹部をトって「男」になる」というのと、どう違うのだろうか。死刑の政治利用とは究極の計画殺人である。許されることではない。私たちは警戒して臨むべきだろう。(2012.2.20)

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「おう そしてぼくは 瀕死者であるのに死者たちの安息をもたない」
吉本隆明の最晩年の原発インタビュー(『インタビュー 「反原発」異論』)について、娘のよしもとばななから異論が提起されている。彼女のツイッター記事より引用する。一読すればわかるように、隆明の生前に記された記事である。

「父のことですが、もうあまりちゃんと話ができないので、まとめる人の意訳があるかと。私が話したときは基本的に賛成派ではなく廃炉と管理に人類の英知を使うべきだ的な内容ではないかと察します。一部をとりあげて問題にするのはどうかやめてください。父は静かに介護生活をしていますので」

サルトルの「いま、希望とは」をめぐる騒動を思い出す。但し、こちらの方はサルトルが記事内容を自分でチェックしていたので、また事情が違うと思う。むしろボーヴォワール達近親者(アルレットを除く)の反応の方が異様だった。
とにかく件のインタビューを根拠に、吉本の評価を語るのはやめた方がよさそうだ。悪しき利用主義に陥ることになる。

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たった一人の混乱
また重い話題が続いたので、与太話。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!」(監督:川村 泰祐 脚本:森下佳子)を観る。
バカ映画、サイテー映画のファンとしては、いつか観ておきたい作品としてチェックしていたのだが、残念(?)ながら出来は左程悪くない。「嘘つき」というキーワードが終盤までの伏線となっており、ドラマ作りとしては、一応しっかりしている。笑いを取る場面も、松竹的な人情劇としては定番なので、決して違和感のあるものではなかった。あくまでも伊武雅刀が演ずる分には、であるが・・・
さて、本題。まず画面全体が赤っぽく、安い。これは最近のメジャー映画の特徴なのだろうか。
そして、中川(速水もこみち)、麗子(香里奈)の衣裳、何とかならないか。マンガのリアリティと実写のリアリティは根本的に違うのだということを理解していないのか。或いは「変更するな」という上からの圧力か。派出所のセットはしっかり作ってあったのだが。
ある意味犠牲者なのかもしれない香取慎吾。彼は渥美清にも菅原文太にもなれない人なのだと改めて実感する。もはや何もコメントしたくない。力みかえった空回りの演技、見ていて恥ずかしくなるような珍妙な表情。役作りを根本的に間違えているのはドラマの時点で明らかなのだから、映画化をきっかけに演技指導をしっかり行うべきだったろう。今更指摘しても仕方が無いのだが、「ほげー」に始まり「ほげー」に終わる、この主役の演技が一切合切をぶち壊しにしていることは事実である。
個人的には、せんだみつお版のDVD化を願ってやまない。監督は「女必殺拳」の山口和彦。実写版「サーキットの狼」の監督でもあるのだが・・・

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書きたいテーマを書け
「表現者は政治的な問題を扱ってはならない」という、奇怪な公式を信奉する連中が存在する。
特に日本においてはこの公式がかなり蔓延っているといっていい。実に馬鹿馬鹿しい。私の結論は単純である。書きたいものを書け、描きたいものを描け、である。ユゴーが民衆蜂起を描こうと、ピカソがゲルニカを描こうと、ゴダールがパレスチナ問題を撮ろうと、何ら非難には値しない。ただ、その出来栄えが問われるだけだ。
勿論、自らの美意識としてアクチュアルな問題を扱わないという方法はあり得る。だが、それはあくまでも個人的な美学でしかない。作家は自らの関心領域において創作活動を行う。その関心事が政治的課題であろうと、倒錯的なエロスであろうと、その選択自体によっては作品の価値は上がりもしなければ下がりもしない。これは自明のことである。
つまらない公式で創作活動の選択肢を狭めていくことに、何ら生産的な意義があるとは思えない。やりたければやればいい、やりたくなければやめればいい。ただ、「エロを扱うのはけしからん」だの、「政治を扱うのはけしからん」だのとぬかす輩は軽蔑に値する。言えるのは「こういう作品は好きではない」という程度である。

さて、そうであるとして-
近頃話題のいましろたかし「原発幻魔大戦」は、3.11以降の自己の姿を題材にした、「(私小説に対する)私漫画」の一種であると考えていい。主人公がやたら極端な焦燥感に駆られている点はどうかと思うが、こちらも青少年条例の時は同じような状態だったので、そういうのもありかなと思う。それに、程度の差を別にすれば、私も主人公と思いは共通する。ただ、「オナニーして寝よう」のくだりなどの方が、人間的で好感が持てた。
主人公が「無関心派」に対し苛立ちを覚える場面は、幾分相対化されているものの、少し危うい。これは一歩間違えると大衆蔑視・大衆憎悪に行き着く。昨今も瓦礫問題をめぐり、やたら恫喝口調で自分の主張を押し付ける傍若無人の輩が見られた。こうなると処置なしだが、運動に関わる人は皆、注意するべき事柄であると思う。
漫画としての出来栄えはアンバランスな点が多いが、(事実関係の真偽を含め)あまり作者も拘っていないように思える。震災後の混乱した自己自身の姿をひたすら記録し続けようという所に力点があるのだろう。私のブログも自己の足跡を記録として残そうというものなので、似たようなものだ。震災を跨いだ今、なにやら近しいものを感じないでもない。

genpatsugenma

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「ぼくはまだとく名の背信者である」~吉本隆明逝く
<死>は絶対的な事象である。そしてそれは誰の身にも不可避的に降りかかる。これはどうしようもないことである。この度、吉本隆明にそれが訪れた。87歳という高齢を思えば、何ら不思議なことではないかもしれない。
私が吉本の文章に接したのは埴谷雄高「虚空」(現代思潮社)の解説文が最初である。その後、折に触れて吉本の文章を読み続けてきた。太宰治に対する評価では、初心な文学少年であった私にとって大切な道標となった。吉本は太宰を「革命的文学者」と規定していたのである。この一言によって私は、可愛さ余って憎さ百倍的な「太宰嫌い」から免れた。
大学時代、表現規制の問題について考えた時に吉本の戦争責任論や進歩主義批判は大いに参考になった。当時私は、作品を「理念の正しさ」という倫理性の呪縛から解放したいと思い、ひたすら思索を積み重ねていた。その中で特に私が悩んでいたのは、戦意高揚文学などの評価をどうするかの問題だった。所謂「強力効果論」を否定するならば、戦意高揚文学もまた容認されなくてはならない。ならば戦争責任はどこにいくのか、それが私の行き詰った地点だった。
私が出した結論は、「1.戦意高揚文学も、作品自体については評価が成り立つ 2.告発されるとすれば、作者の姿勢そのものである 3.その場合にも、単に戦争に協力したかどうかではなく、なぜ協力したか、如何に協力したか、が問われるべきである」というものだった。今でもこの結論は基本的に変わっていない。勿論、現実的な効果を求めないポルノグラフィやその作者は断罪に当たらない。ここに至るまでの間に、吉本の著作集をひっくり返しながら、必死に格闘し続けた。
吉本が徹底して民主主義文学などといった、良識派の文化論に対して攻撃し続けたことは良く知られている。「スターリン主義の文化官僚」などといった罵倒語がすぐに浮かんでくるが、彼の批判は既成左翼や良識派ぶった文化人の言説に対し、徹底的な破壊力を持っていた。だが口の悪さはともかくとして、その骨子は現代でも有効であり、太田昌国がいうように、確かな希望への手掛かりがそこに存したのである。
論争としては、花田清輝との論争が有名である。こちらは「記録芸術」の同人に誰を入れる入れないで揉め出して、その時の花田の対応がひどかった、政治主義的に仲間を切り捨てるものであった、ということで始まったものである。論争は罵り合いに終わり、実りのあるものにはならなかった。結果、物書きとしての花田が以後顧みられなくなってしまったのは残念である。
埴谷雄高との論争は二回あった。一回目は黒田寛一(革マル派の創設者)の立候補の時で、埴谷が名前を貸したことに対する批判だった。このときの論争(というより質問と回答)はきれいに収まったのだが、二回目の悪名高い「コム・デ・ギャルソン」論争は泥沼だった。解説すると、吉本の「情況への発言」の居丈高な姿勢(芸風)に埴谷が不満を持っており、自身がからかいの対象になったことをきっかけに、面々と回りくどい公開書簡を発表した、というものである。要は「自分の弱さを自覚して下さい」ということだが、最終的に埴谷の第三世界主義的な脇の甘さが批判されることになった。傍目には、あまり印象の良くない論争だったのは確かである。
尚、「「反核」異論」については過去に触れたので繰り返さない。さしあたり、人が言うほどおかしな本ではないという事を記しておこうと思う。
話はまだ尽きることが無いが、今日のところはこの辺で切り上げることにしたい。嘗て埴谷雄高は「レーニンはレーニン全集の中にあり」と喝破した。これをひいて言うならば、「吉本は吉本著作集の中にあり」である。まずは彼の詩篇群を読み直してみたいと思う。

yoshimoto

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寒中の怪談噺
三遊亭円朝「牡丹燈籠」(岩波文庫)を購入。尚、同じ円朝の「真景累ヶ淵」は既に卒読しており、このブログでもレビュー済み。
「牡丹燈籠」は桂歌丸のCDで「栗橋宿」を聴いている。このパートは怪談的な要素は殆ど無く、むしろスリラーというか、サスペンスに近い。まあ、そもそも怪談話はホラーというよりも人間劇的な要素が強いのではあるが。「累ヶ淵」の終盤は仇討ちだったし。
そういえば、「累ヶ淵」は近親相姦のタブーがラストの鍵をなしていた。規制規制の昨今、下手をすれば、そのうちこれも禁演になるのかも。尤もこの長い話、最後の方は演じられることがあまり無く、大抵は豊志賀のエピソードがメインになるのが通例。即ち、「お前さんも、不実な人ですね・・・」で有名なアレである。

大阪のピエロはWTCの移転問題で住民訴訟。今日第一回の公判が行われたらしい。運動関係の人に言わせると、咲洲は大阪のゴミを丸ごと埋め立てていた場所なので、地盤が弱い。よって、WTCが欠陥構造物であることは最初からわかっていた筈であるという。
おかげで府債の増加に相当貢献したわけだが、何故かマスコミでは「借金を減らした」と宣伝。ともあれ、裁判の行く末に注目しよう。

botan

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密林の片隅で
そろそろamazonの利用を控えようかと思う(前にも書いたかな。こんな事)。いうまでもなく、コミックLO騒動の件である。
懲罰的な意図だけではない。amazonへの一極集中から離れようということだ。この会社は過去にも若松孝二の「暴虐女拷問」(DVD版)をリストから外したという前科がある(何故かVHS版はそのまま)。その他アダルト商品の取り扱い中止についても今に始まったことではない。流石にもう嫌気がさしてきた。
具体的に言うと、コストが同じなら他社の通販を利用するなどである。通販の利用自体を控えるのもいい。古書を求め、神保町を足が棒になるまで歩き通した学生時代。たまにはそんな日々を思い出すのも悪くはないだろう。
書籍なり、映画なり、表現物を商品として扱う場合、文化に対する信念を持って欲しいと思う。勿論、一介の販売業者に対し、「嫌いな表現物でも全力で守れ」とまでは言わない。だが、一度取り扱いを決めた作品を、一部の人間からの理不尽なクレームですぐ引っ込めるようでは、信義の問題にかかわってくる。これではそのうち時刻表みたいなものしか扱えなくなる。また、特定の価値観の持ち主達に対し、民間検閲官としての地位を認めてしまったことは罪深い。
単に資本の利潤を追い求めるだけの企業組織が市場を独占しているというのは、やはり危険である。脱amazonは難しいと思う(個人的には無理)が、減amazonくらいに踏み出しても不当ではない筈である。
それにしても、大阪の動向といい、人の内心や価値観の問題に土足で踏み込む連中の声が、ますます大きくなっている気がする。実にイヤだ。

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「 いざー、さーらバイバイ、バイバイ!」
この所、私生活でバタバタと動きがあり、先行きが見えにくい状況である。暫くは油断できない状態が続きそうだ。良い方向に行けばいいのだが、これまで散々苦汁を舐めたこともあり、楽観視は出来ない。カンダタの心境だ。下から誰も上ってこない所だけ違うのだが。うまい具合に落ち着いたら報告するつもり。

連日のように頭のおかしさを表明する大阪市長とその一派。とはいえ、大西赤人によれば、「君が代」の歌唱チェックは今に始まったことではないという。そういえば前にもあったような気がするな。「強制反対」というスローガンに埋没してしまい、具体的な個々の事例を忘れてしまっていたのだが。とはいえ、火の元が「あの男」であることから、その意味合い、インパクトがまた異なってくる。
それにしても、だんだん語るのがあほらしくなってきた。この連中、卒業式で何をしたいのだろう。余程「人形遊び」が好きなんだろうな。只でさえつまらない卒業式が、余計つまらなくなるぞ。過去に何度も引用したイプセンのセリフ「私はあなたの人形じゃない」

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国会に行こう
昨日の余波で腰が痛い。でも後悔はしていない。しかし、相変わらず報道は小さいな。無視するまではいかないにしても。

昨日の行動の詳細。13時頃日比谷公園に着くと、藤波心の発言が行われていた。新曲と「故郷」を披露。
C.W.ニコルの発言も行われた。彼は佐高信から「原発文化人」とレッテルを張られ、一悶着あったのだが、その後大きな論争には至らず。まあ、不毛な中傷の域を出なかったので、論争してもグダグダにしかならないのは目に見えているが。
また、被災地にボランティアに言った人たちの物言いには幾分違和感を覚えた。詳述はしないが、一口に言えば映画「ヒロシマ・モン・ナムール」のテーマだ。Tu n'a rien vu …
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黙祷の後、坂本龍一、岩井俊二達のトークがあったが、15時を回ったので、デモの出発場所に移動する。大分遅れたが、第9艇団に合流できた。よく一緒に行動している西東京市の団体に遭遇したので、そこに参加、東電前を経て銀座方面に向かう。有楽町の交差点からガードをくぐり、再び日比谷公園方面を歩く。幼い子が「がんばってー」と手を振っていた。
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官庁街を練り歩き、経産省テント村前を通り、やがて解散。そのまま国会の人間の鎖に合流。人手が足りない裏側に回ることになった。道路が封鎖され、建物に隣接した歩道は使用できず。セコいもんだねえ。警察も。結果、遠巻きの包囲となったが、めげずに成功させる。しかし、「鎖」だが、中途半端に手を上げていると、腕、肩が痛くなるな。
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その後、首相官邸に申し入れを行うこととなり、大勢で官邸前に移動。「野田クンちに行こう!」だ。道路封鎖のおかげで遠回りとなるが、結果的にちょっとしたデモのようになった。大人数のため、途中から殆ど進めない。コールが響き、ドラム・楽器が鳴る。この騒然とした雰囲気には覚えがある。そうだ、6.11、9.11のアルタ前がこんな感じではなかったか。首相官邸周辺をタハリール広場に!いいぞ!
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20時頃から三々五々帰宅を始めたが、皆よく頑張ったと思う。これまで毎週のように各地で繰り広げられてきたデモの経験が、国会、首相官邸前おいて活かされていた。このことの意義は小さくない。この勢いをこのまま続けたいものだ。下らない内輪揉めで崩壊などして欲しくないと思った。

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1年後・・・
一年目の3.11。日比谷公園で追悼集会とデモ。流石に疲れたので詳細は後日に譲るが、デモ終了後に国会議事堂を囲んで人間の鎖。さらにそのまま首相官邸前に押しかけ、申し入れを行った。早い話、デモがそのまま延長になったようなものと思えばいい。6.11、9.11の新宿デモで、アルタ前が騒然となったときのことを思い出す。
帰宅してテレビをつけると、「トモダチ作戦」の礼賛番組。「太平洋有事519作戦」を、いまだにこんな名称で呼び続けるとは如何なる意図か。或いは何も考えていないのか。

一年前、私は池袋サンシャインビルの49階で働いていた。詳細はこのブログでも記した通りだが、これだけの高度では揺れ方も尋常ではない。窓の向こうではお台場が燃えているのが見て取れた。エレベーターが止まってしまったため、階段を延々と降りていったのを思い出す。友人たちが無事だったのがこれ程嬉しかった事はなかった。

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心の瓦礫
瓦礫受け入れ問題だが、どうも一筋縄ではいかないらしい。
「がれきの拡散・焼却を危惧する。なぜなら、環境省は震災後、放射性廃棄物の基準を100ベクレル/Kgから8000ベクレル/Kgへ一気に緩和したから。各地で燃やされた灰が8000ベクレル/Kg未満なら一般廃棄物として普通に埋められてしまう」(想田和弘のツイートより)
8000ベクレル/㎏。非常時とのたまうが、この値はどうなのか。何せ、現段階で「収束宣言」を出してしまう国のことなので、一向に信用できない。
尚、小出裕章教授は、「原則として拡散には反対であり、専用の焼却設備さえ整えば条件付で処理を受け入れても良い(この辺り詳細あるが、略)が、焼却灰は全て原発に返すべき」と主張している。要は、最終的に人の住まない原発施設内に厳重に管理して封じ込めるべきという事だ。
無論、「反対派は福島差別のエゴイストだ」「反対派の正体見たり」的な決め付けで、悦に入っているような輩は論外。残念ながら反原発派にもこのような手合いが見受けられる。「自分以外の他人はそれ程バカではない」ということを思い知るべきだろう。

例によって大阪の政治的ピエロの話題。
今度は水道を民営化だの、遺産全額徴収だのとやらかしているらしい。
後者について「共産主義」という声が上がっているが、再分配への意思はまるで見られないので、理念としてはこれにすら値しない。まあ、既成の「共産国」でも再分配など碌にしなかったが…いや、あの男は新自由主義の自己責任論がくっついているから、もっと酷いかな。

↓この映画、観てみたい。

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追記:BD(bande dessinée)作家のメビウスが逝ったらしい。実にやりきれない。

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神波史男逝く
脚本家の神波史男が亡くなった。代表作として喧伝される「家宅の人」(監督:深作欣二)は未見だが、「女囚701号・さそり」(監督:伊藤俊也)、「博徒外人部隊」(監督:深作欣二)が印象に残っている。「沖縄やくざ戦争」は今ひとつの感があった。いずれも共同脚本なので、神波の意向がどこまで働いているかは詳らかにしない。
「さそり」の終盤で、短刀が日の丸の旗に向けて飛んでいくシーンは忘れがたい。監督を務めた伊藤俊也のその後を考えると、かなり複雑ではあるが。(参考:http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/1998/199814.html
「博徒外人部隊」は、深作リアリズムで描いた任侠映画である。何かしらギラギラしたエネルギーを孕んだ青春群像劇であり、沖縄返還をめぐる政治劇の寓話だった。「ワイルド・バンチ」を本歌取りしたようなラストも見事である。
今日、なかなかこういう作品を作ることが出来なくなった。これは必ずしも、作り手だけの主体的な問題ではない。作品製作を取り巻く環境が、大胆な冒険を許さなくなってしまったからだ。ここに私たちの社会の不幸がある。何とも口惜しい限りだ。

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人間の「絆」?
久々に献血をする。システムが変わったらしいのだが、わかり切った説明を延々と聞かされるなど、どうかと思う点も多い。もう少し何とかならないか。
このところ堅苦しい話題が続いたので、少し趣向を変えてみよう。まあ、やくたいもない話題には違いないのだが。
「ムカデ人間」(監督:トム・シックス)を観る。
舞台はドイツのとある地方。頭のイカレた医者が、攫ってきた三人の男女の口と肛門を接続し、一個のムカデ人間として肉体改造するというもの。駕籠真太郎のマンガのようなバカバカしいアイディアだが、意外にしっかり作っている。ホラーの体裁をとってはいるが、発想がこれなので、ブラック・ユーモア作品として考えていい。北村昭博の怪演もなかなかである。尚、「ムカデ」の先頭を担うのは北村演ずる日本人であり、後の二人はアメリカ人という設定である。対米追従で一体化した日米関係に対する、捻った当てつけと見えなくもない。
ちなみにこの作品は三部作となる予定であり、日本未公開の2作目では12人を繫げているという。どこまで妙ちきりんな世界を描き出すか、興味津々である。

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蟻塚の中のかぶと虫
映画「311」。見終わって色々考えたが、どうにも奇妙な映画である。整理できたとはいいがたいが、とりあえず感想を記す。尚、これまでの記事同様、ネタバレを厭わないことをお断りしておく。
まず、車の中からの映像から映画は幕を開ける。ガイガーカウンターをチェックしながら、一行は被災地に向けて北上する。福島に着いた四人は、雨の中原発付近まで接近しようとするが、途中タイヤがバーストしてしまい、断念する。その後、一行はさらに北上し、延々と続く瓦礫の風景を目の当たりにする。森達也の体当たりのインタビューが行われ、ネットで話題になった遺体のシーンが映される。正確に言うと遺体の搬送シーンだ。前評判を聞いていると、「エッ、これだけ?」と拍子抜けするはずである。綿井健陽の「リトル・バーズ」の方が、遙かに生々しい遺体の映像が晒されていた。尚、抗議した男性とは撮影後に和解している。

そもそも映画として纏めることを予定せずに行った撮影である。よって明確なテーマをもって出向いたわけではない。体当たりのインタビューにも、延々と続く瓦礫の風景にも恣意的な(安い)意味付けは行われていない。むしろむきだしの風景自身に物事を語らせている。足立正生たちの「風景論」と重ね合わせてもいい。都市の均質化された街並みは息苦しいものだが、壊滅した風景もまた窒息しそうな息苦しさを孕んでいる。
映画はひたすら震災後の現実と、どうしようもないままそこにいる四人の姿を映し出す。途方もない崩壊を前に、彼らはなかなか取っ掛かりを見つけられない。そして、どうしようもないのは映画を見ている私たち自身の姿でもある。夕暮れの中、トボトボと歩いていく撮影者たちの姿に、やりきれない自分自身の思いを見たような気がした。

311chirashi

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「311」で、「撮る」ということ
映画「311」(監督:森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治)の感想を記そうかと思ったが、どうも整理できていない。
結論から言うと、悪くないと思った。毀誉褒貶真っ二つに分かれるようだが、私の印象は決して悪いものではない。震災ルポのひとつには違いないが、風景論的であり、私小説的でもある。また、共同監督のはずだが、森達也がズカズカと突撃して回る姿がやたら印象に残っている。尤も、撮影しているのは他の監督達だが。
上映後、綿井健陽のトークがあった。「リトル・バーズ」でイラクを撮った時との共通点と相違点について質問しようとしたが、同じ質問を司会者に先取りされてしまい、ちょっと拍子抜け。回答としては、空爆の破壊とは圧倒的に規模が違うとの事。全てを根こそぎ浚っていくような全面的な破壊は、戦場では全く見られないものだったいう。
帰り際、綿井監督と少し言葉を交わす。彼は以前、「写っているけれど撮っていない」というテーマについて、記していたことがある。「写っているだけでは駄目で、撮ることが我々の使命である」そんな内容だ。
そこで、「この映画はちゃんと撮った作品だと思いました」告げると、「いやー、勿論、撮ったんだけど、写っちゃったところもあるんですよねー」との回答だった。ある意味、先程の質問より酷だったかもしれない。

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(2012/03/03)
森 達也、綿井 健陽 他

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誰も不幸にしない可能性
一昨日の記事は、三原順「Die Energy 5.2☆11.8」について語るための枕が膨らんだものである。
その後、論の構想自体が変わってしまったため、必ずしも続きとなっているわけではないが、取り敢えず作品の感想を記すことにする。

主人公は電力会社の「優秀」な社員。彼は原子力に対しては極めて屈折した感情を抱いているが、実務上は極めて割り切った冷淡な素振りを見せる(ただ、彼の性格についてははあまり一貫した描き方がされていない)。隣家には環境団体に所属する女性がおり、諍いがたえない。そんな中、低濃縮ウランのキャスクがテロリスト達に盗まれ、主人公は事件の渦中に巻き込まれる…

事実関係の情報は多い。それだけでもこの作品の価値は貴重である(尚、タイトルは「5.2のエネルギーを生むためには11.8のエネルギーロスが生じる」という、原発のエネルギー効率から採られている)。だが、そこに振り回されてしまった部分も多いように思える。特に反対派がステレオタイプにしか描かれていないため、作中人物の交わす議論が電力会社の土俵に乗ったものになっていることは否めない。本来白熱した議論になるべきところが、最低の鞍部に乗ってしまっているのだ。尚、テロリスト/急進派の扱いに至っては、只の異常性格者である。以前にも記したように、彼らの倒錯は、一定の正当性を出発点としている。
総じていうとこの作品の中核は、反原発が消費者エゴと結びついてしまっており、その矛盾点が解決困難な地平に陥っている、ということである。「電気は欲しい、しかし原発はイヤだ」というのは醜い我欲であり、いわばクレーマー的心理に陥っているというわけだ。そうなると、「反対派は自ら豊かな暮らしを求めてきたことに対し、総懺悔をするべきだ」というロジックになる。これは、あまたの反・反原発派が掲げる論理と同一である。
このエゴイズムの問題を作者は普遍的な課題として呈示しようとしたと思われる。だが実際は、国によって事情は異なる為、一概には語れない。日本では、この種の倫理的脅迫は「原発がなくても電気は足りている」という指摘で、あっさり瓦解する筈である。また、主人公は冷笑的に語るが、「誰も不幸にしないこと」を考えることはお伽噺ではない。問題を解決する場合、まずは二兎を得る方法を目指すべきなのだ。エネルギー問題として考えた場合、私達にとって原発反対は、誰の不利益にもならないのである。
文明=悪ではないかという、倉本聰的な思考法を私は採らない。退行に救いを求めるような解決方法を、私は支持しない。必要なことは、「原発のない昔に還ろう」ではなく、原発のない未来を作ることである。

特にわが国においては、エネルギー的には必要とされない原発を望んだのは国家であり、そこから莫大な恩恵を受ける電力会社、ゼネコン、自治体である。国家は莫大な補助金・交付金をばら撒き、政治家は見返りとして、企業から政治資金を回収するわけだ。原発の罪深さは、こうした補助金や交付金なしには自治体が成り立たなくなってしまうことである。いわば、薬物中毒と同断である。そして、これを口実に原発政策の延命を図ろうとするのが現政権の目論見である。
悪しき連鎖が続いている。実体のない官製の原発バブルで人々を躍らせた結果が福一である。全てが衆目にさらされた現在、「収束宣言」などという、形ばかりの弥縫策で誤魔化されるほど私達は愚かではない。まずは拒絶の意思を徹底して示さなくてはならない。

mihara

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(2011/09/26)
鎌田 慧、吉岡 斉 他

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荒廃の春
昨日の続きを記す予定だったが、うまくまとまらないので明日以降とする。

ドキュメンタリー映画「311」(監督:森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治)が昨日から公開されている。
森達也のインタビュー記事がニコニコニュースでUPされているが、これまで森があちこちで語ってきた事とほぼ重複する。メディアの加害性、そして麻痺、集団化と暴走の危険等々というテーマ。この辺りは森の読者ならお馴染みの事柄だ。ある時期から彼の言説は同じ内容の繰り返しが多くなっているように思える。大切なテーマには違いないが、そこから先に踏み込んだ思索を呈示してほしい。
おそらく映像では多くの内容が、より雄弁に語られているのだろう。これは共同監督(つまり複数の視点から撮られている)という事とは別である。映像でしか語れない事柄が事実存在するのであり、製作者の顔ぶれからすると、皆この点には自覚的に取り組んできた人ばかりだからだ。さしあたりこの点は信頼していいかと思う。
この映画が私達に何を語りかけるのか、何をぶつけてくるのか、じっくりと受け止めたい。


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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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