時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
欅坂再説
どこかの国の大統領が言っていた(曲解して)
声を上げない者たちは
賛成していると…

選べることが大事なんだ
人に任せるな
行動しなければ
Noと伝わらない
(サイレント・マジョリティー)

欅坂46の代表曲「サイレント・マジョリティー」を聴いた。何せ秋元の歌詞である。内容はベタで捻りがないし、婉曲、暗喩といった技巧的な要素は一切無い。美空ひばりに歌わせた「川の流れのように」にしてもそうだが、どうしても詞としては陳腐さが目立つ。
だがそれは措くとして、詞の内容自体は「大人たちの支配に対する叛逆」を歌ったもので、決して奇矯なものではない。むしろ、反ファシズムの歌としても通用するものである。青春歌曲としてのテンプレには違いないが、アイドル・ソングとしては充分に鑑賞にたえるものだろう。
SS風のコスプレがアイロニーを込めたものか、何も考えずに行われたものなのかは知りようもない。ただ、一方的にレイシスト集団だの、「売女」だのといった、人としての尊厳を貶めるような口汚い罵詈讒謗がみられた。
活動家だか便乗だか知らないが、結局この手の連中は、「叩いている俺はエラい」という、歪んだ自己顕示しか頭にないのだろう。立場の弱い者に対してはひたすら攻撃的に打って出る、嗜虐性の愉楽に溺れた、醜い人間の浅ましさが曝け出されていた。しかも多くの人々はそれを今も尚正義と信じ、カッコいいと思っている筈である。
わたしの結論は以前述べたとおりで変わらない。「何故、いかに」の問題だけである。そこに譲れない切実なものがあったのなら、そう訴えればいいのだ。

今日、運動圏においても、人文学は依然として軽んぜられたままである。重視されるのは報告文書と政治教程であり、本質的には体育会系のノリと変わらない。そこでは人間性への思索は一切無く、予め決められた良識のみが重視される。「表現者は良識を守れ、価値を疑うな、良識の幇間たれ」と。
当然、彼等が内容を思考することは全く無い。ひたすら思い込みと決め付けで潰しにかかる。全ては自己顕示のため。自分は偉いと誇示するため。レッテルを貼り、吊るし上げ、集団リンチに晒す。異論を抱くものは徹底的に抹殺される。敵として叩いた方が都合がいいのだ。かくして「敵」はひたすら再生産され、世界は邪悪な「敵」にまみれた姿で描き出されことになる。自分たちは孤軍奮闘の光の戦士とでもいうのだろう。
手塚治虫の「ジャングル大帝」が差別文書として吊るし上げられたことは記憶に新しい。そのうち白土三平や中沢啓治さえ「差別主義者・レイシスト」として糾弾される日が来るのかもしれない。

言い訳はきかない。如何に反差別を題目にしようとも、愚劣な運動は愚劣であるとしか言いようが無い。こんなものが運動を名乗るとしたら、そんなものは滅びてしまったほうがいいのだ。

ルールを説くけど
その目は死んでいる
(サイレント・マジョリティー)
スポンサーサイト

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

なぜ創作物の表現規制に反対するのか
マンガ・アニメ表現の自由を守るために、自民党を支持する者が一定の勢力を保っている。はたから見ると肉屋を支持するブタそのものだが、これにはちょっとした誤解がある。
彼等は決して、ネトウヨだから自民党を妄信しているというわけではないと思う(勿論そういう莫迦もいるだろうが、多くの場合はノンポリである)。むしろ、彼らを動かしている原理には、ある種の現実主義が存在する。すなわち、「この先自民党の支配は揺るがないのだから、自民党にいい顔をして理解を求め、お目溢しをいただこう」という発想である。
時の権力者には恭順を示さなくてはならない、そのため原発も黙認する、戦争も黙認する、増税も黙認する、福祉切り捨ても黙認する、産業破壊も黙認する。長いものには巻かれよう、それがこの社会を生き延びる処世術、というわけだ。だが、ここには大きな問題がある。

ひとつには、権力者のお目溢しを頂くという現実主義が、結局は利用されるだけに終わるのではないかということである。これだけ人々の権利を踏みにじる権力者が、本当に表現の自由を守ろうとするだろうか。「はだしのゲン」が槍玉に挙げられたことは記憶に新しい。「信じた道が最初から存在しない」という可能性は、決して低くは無いのである。

もうひとつは、何の為に表現規制に反対するかという、根本的な問題である。
私にとって、性や暴力にまつわる創作物の表現規制に反対するということは、人間の尊厳を守る問題であり、生き方そのものの問題と分かちがたく結びついている。人間は、道学者の唱えるような、ちんけな道徳や理念の体現者などではなく、そこから常にはみ出していく存在である。猥雑で暴力的な存在、神でありながら同時に悪魔でありうるのが人間存在というものだ。そこを掴み取っていくことに創造行為の本質がある。
私は、表現物を守るという(それ自体は正しい)お題目のために、下僕となり、幇間となり、家畜になるつもりは無い。なぜなら、そこにはもはや自由そのものが存在しないから。守るべきものが、何も守られていないのだ。それはもはや「表現規制反対運動」と呼ぶに値しない。

表現規制反対の運動は、それが運動である以上、「どうやって」という問題に傾いてしまう。だが、ひとりひとりが、自分の生き方の問題として切実に考え直して欲しい。単に「楽しみを奪われたくない」という以上のものがそこにはある筈ではないのか。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

どちらを向いても・・・
このところ出張続きで心の休まる暇がない。このブログの更新もますます滞りがちである。まぁ、駄弁ばかり書き連ねているので、どうってことはないのかもしれないが。
バカが戦争の支度をやめない為、世の中がシッチャカメッチャカになっている。明日も大規模なアクションがあるらしい。私は明日も仕事なので、残念ながら参加できる状況ではない。

碧志摩メグ問題、いい加減にしろとはこのことだ。
実を言うと、町おこしのためのキャラクターという性格上、この問題にはちょっと絡みづらいところがある。だが、これを糾弾する莫迦共の言い分が、創造活動一般にまでその汚らわしい手を広げているため、これは徹底的に闘うしかない。
私に言わせれば、創造行為が性的な眼差しを伴うものであることは、自明の理なのだ。性的であって何が悪い?対象に性的な眼差しを向けるということは、その者が人類であるというのと同義である。私たちは石ころとお付き合いするわけでもないし、イデオロギーと恋愛するわけでもない(政治運動廃人にはそう公言する者もいるが)。性=生を否定すること自体が愚劣なのだ。
エロスを伴わない文化など、社会主義リアリズムの亡霊そのものである。ドラクロワから生気を取り除いたような代物だ。そんな代物が「純正芸術」としてのさばり返るようになったら既に末期である。
創造行為とは、協議のうえで当たり障りのないものを綺麗に描くことなどではさらさらない。それは良識を脅かし、価値を徹底的に痙攣させていくことを否応無しに含んでいる。いかなる名目であろうとも、これを破壊しようとする活動は、許しがたい反動主義である。
件のキャラクターの扱いについては、既に有意義な解決策がいくつも提示されている。町おこし用のデザインという性格上、何らかの合理的な折り合いをつける必要があるのだろう。正直、そこに首を突っ込むのは私の柄ではない。私が憤りを感じるのは、蒙昧な政治主義者が創造活動一般に対して莫迦の一つ覚えの政治的物差しをゴリ押しして、作品弾圧を図ることに対してである。いい加減に、恥を知れ。

武藤議員をめぐる言説の問題は、以前私が懸念していた事柄が一気に火を噴いた感がある。事の本質は、彼がゲイであったことではない。「戦争に行きたくないというのは利己的」発言と、「国会議員枠の未公開株」の問題である。
しかるに、世論の多くは彼の性的嗜好に関心を寄せ、それに対する憎悪、嘲弄を多く浴びせるに至った。何だこれは。これが日本の政治をめぐる言説の実体か。暗澹たる思いがした。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

「こんな国のため命を捨てられるか」
暫くぶりに、制服向上委員会(略称SKi)が話題となっている。イベントで政権批判を行ったことにより、自民党議員が抗議、大和市からの後援を取り消されたということである。表現活動を行うものにとって、公権力との対立は宿命的な事柄ですらあるのだろう。まあ、「いつものSKi」と言ってしまえばそれまでではあるが。
「諸悪の根源」という文言は、私たちの目の前にある、そのままの現状を言い表している。まさに多くの庶民が常日頃思っていることに違いない。それが余程気に食わなかったと見える。この諸悪の根源政党は、自己愛性政治集団というほか無い。この連中にとって、自らは神のごとく偉大な存在であり、全ての人類から例外なく崇め、奉られなくては気が済まないらしい。
異論を持つものは封殺するという姿勢は、「スポンサーに圧力をかける」という発言にも表れている。「偉大なる我々に対し、不敬であるぞ」というわけだ。現人神にでもなったつもりだろうか。今時天皇家ですらこんな血迷ったことは言わないだろう。
この連中は先日、某討論番組への出演をドタキャンしたという。私はこういう口頭での討論ショーに一切価値を置かないが、それにしてもセコい連中だねぇ。権力者が堕ちる所まで堕ちるとは、どういうことなのか、その見本をまざまざと見せ付けてくれている。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

幾たびもの「風流夢譚」
「風流夢譚」という戯作小説がある。作者は深沢七郎。内容を説明すると、ある日、主人公が奇妙な夢を見る。その中では、革命…のような騒動が勃発し、天皇一族があっけなく皆殺しにされる。主人公はそこで彼等の辞世の句についてあれこれ考察するうちに、目が覚める、というものである。
わずか数十ページの作品だが、この小説が波紋を広げ、殺人事件にまで発展したのは周知の通りである。シャルリー・エブド事件に際し、私はこの小説のことが思い出されてならなかった。
この手の事件が起こるたびに言ってきたことであるが、仮にムハンマドを天皇と置き換えてみたらどうなのか。「天皇をコキ下ろすのはいいが、ムハンマドを悪く描くことは許されない」では論理的整合性が取れない。安易な第三世界主義に乗っかると、墓穴を掘ることになるだろう。
にもかかわらず、多くの自称左派は、「それとこれとは別だ!」と言い張る始末である。そこでは差別問題に始まり、西欧中心主義を口実とした不毛な言説が垂れ流しにされ、最終的には、スターリン主義文化論と第三世界主義を結合させた、醜悪な混合物に帰結する。「無自覚な差別」という概念は、「自分だけが悟った人間だ」とする傲慢な独善主義を伴い、「自分以外の他人は皆、差別主義者だ」という人間蔑視に転落する。
結局は、「当たり障りの無い表現を目指す」という結論しか残らないのでは、あまりにも貧しくないか。

率直に言うと、今回の件に関し、風刺画家と新聞社を見くびっている人が多すぎると思う。「なぜ彼等があのような作品を発表したのか?それはバカだからだ、差別主義者だからだ」と、短絡的に決め付けて理解したつもりになる。こうした投射型の思考法は、まさに論者の頭の貧しさを示している。「何故、如何に」を問う分析的思考がそこには無い。対象を矮小化して陳腐なストーリーを描き出し、それに向かって罵詈讒謗を投げつけ、自分は何事かを成し遂げたと思い込む。結局は、「闘っている俺は偉いのだ」と言いたいだけなのだ。「他人というものは、自分が考えているほどバカではない」という原則を思い知るべきである。
本件については、いくつかの示唆的な報告を耳にしている。すなわち、宗教と表現を巡る、かの国の文化人の熾烈なたたかいの歴史に関してである。そこには単純なマルバツの図式では括れないような、精神と精神の真摯なせめぎ合いが見受けられた。明確な確証を得たわけではないので、詳細は差し控える。だが、今起こっている事態は、巷間語られているような単純なものではないのではないか、その点についてじっくりと考えてみて欲しい。

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記



プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



のわーるのつぶやき



最新記事



カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -



最新コメント



過去記事のアーカイブ



カテゴリ



最新トラックバック



2010年「国際ジュゴン年」



検索フォーム



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



RSSリンクの表示



全記事表示リンク

全ての記事を表示する



FC2カウンター