時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
「過剰は美である」
三条友美展「少女裁判」に足を運ぶ。
三条友美といえば、「少女菜美」。成人劇画界の一つの頂点を極めた人である。あのぶっ飛んだエネルギーをそのまま持続できるとはさすがという他無い。一時期、この人がCGを使い始めた時、大丈夫かなという思いがあった。その頃発表された作品も、大人しい無難なものだったので、尚更その感を強くした。その後、作品に触れる機会も殆ど無くなっていたが、今回の展覧会では良い方向に、予想を裏切られた。やはり三条友美はやはり三条友美だったのである。
今回の展示作品は全てCG画である。三条のマンガ作品に接したことのあるものにとって、それがこれまでの劇画の延長上にあることが見て取れる。この人はCGの底力を最大限に掘り起こすことに成功したといっていい。一枚一枚の絵の情報量が極めて多く、見応えがある。
少女たちは肉体を毀損され、血と汚物にまみれながらこの上なくエロティックな美の饗宴を繰り広げる。ロートレアモンに倣って言おう。「そして私は彼女たちを美しいと思う!」
いかにも、展示の内容は三条ワールドの一番コアな部分であり、サドの幻想を具現化したような絵画世界である。ここで注意して欲しい。残酷絵画の美は作家の美的感覚によって作られた美であり、徹底的に作品化された世界である、ということである。それは現実に存在する無秩序な残酷さとは一線を画している。これはスプラッター映画などでもいえることである。
この点、三条友美展の諸作品は、すぐれた人工楽園の世界であった。一見するに如くはない。


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悪夢のように心地よく~マグリット展の印象
マグリットの作品は、観るものを不安に誘(いざな)う。それは、シニフィアンとシニフィエの関係に、徹底的に揺さぶりをかける。
私がマグリットの名を知ったのは、安孫子素雄のマンガ作品の紹介記事だったろうか。たしか「マグリットの石」と題する作品があった筈である(未読)。ホラー作品を多く物している安孫子のことである。その独特の感性にとって、マグリットは格好の題材となったのだろう。
但し、率直に言うと、マグリットの絵画そのものにはホラーチックな要素はあまりない。先述のマンガの題材となった、空中に浮かぶ石の絵も、澄み切った画風で描かれる。むしろ、「空の鳥」などに見られるように、そこには人を食った遊戯性が渦巻いているといってもいいだろう。にもかかわらず、その作品が不安を与える理由は、その挑発的なタイトルとの関係にあるのだろう。
「これはパイプではない」という一連のシリーズがある(フーコーの論文は未読なので、差し当たり勝手な感想を書き連ねていく)。タブローとして描かれているのは、まぎれも無く一本のパイプである。鑑賞者はここで意味を宙吊りにされる。パイプのタブローによって意味されたシニフィエが、「パイプではない」という文言によって、激しく揺さぶられるのである(ここでシニフィアン/シニフィエ、さらにレファラン(指向対象)との関係を論ずると果ての無い深みにはまるので、詳述はしない)。
同様のことは、「世界大戦」のような作品にも言えることである。こちらの場合は、「顔」を欠落させることによる不安/混乱と、不条理な題名との関係が鑑賞者を慄然とさせる。これは「凌辱」などの作品も同様である。
石の絵に戻ってみよう。この作品群は空中に浮かぶ巨大な大岩を描いたものである。岩は激しく移動するわけでもなく、ただ静かに空中に佇んでいる。岩の上に建築物が描かれたものもある。堅固な質量を持った岩が、当たり前のように空中を浮揚している。それはどこか人間を拒絶し、あざ笑うかのようにさえ見える。空中浮揚ではないが、「ガラスの鍵」もまた、異様な予兆を孕みながら鑑賞者を挑発してやまない。これは、悪夢のような心地よさを内包した神話世界なのだ。
今回の展覧会は、なかなかのボリュームで満足のいくものだった。行列で待たされるのは少々閉口だが、まあ致し方ない。「鳥獣戯画」の時よりはずっとましである。

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上野デ太古ノユルキャラ展ヲ見タルコト
「これは戦争法案ではない」と言い募っているバカ、横浜の殺人用具展示会、大阪市をツブそうとして無様にコケた男等々、不細工な話題が百花繚乱と咲き乱れている昨今である。さらにハワイでは空飛ぶ棺桶みたいな輸送機が墜落して死者が出た。いつまでこんなことを続けるつもりだよ。

そんな中、上野の鳥獣戯画展に行ってきた。いわば、平安時代のゆるキャラ画である。チケットを買って敷地内に入って唖然。博物館の入り口まで2時間待ちの行列だった。さらに鳥獣戯画の展示は甲、乙、丙と三部に分かれているのだが、メインの甲の展示は建物内で2時間半の待機時間を要するという。つまり、待ち時間だけで合計4時間半である。
結局こちらは断念し、乙、丙の展示のみ鑑賞した。それでも鳥獣戯画のエッセンスは感得できたと思うし、他にも明恵上人ゆかりの絵画群に出会えたことで、それなりに納得のいく体験だったと思う。
それにしても、幾らなんでもこの待ち時間はない。私は行列に並ぶことが大嫌いな人種なので、よっぽど途中で帰ろうかと思った程である。
鳥獣戯画の展示は30年ほど前にやはり上野で催されていたと記憶する。滅多に観られるようなものではないし、機会があれば是非とも行ってみたいと思っていた。だが、もう二度と行くものか。

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バルテュス参拝記
先日も触れたバルテュス展、やたら混んでいたので閉口する。バルテュス展は遠い昔、東京ステーションギャラリーで開催されたものを観に行ったが、殆ど作品が被っていないのはありがたい。それにしても、キャプションをひたすら読みふけり、絵などさらりとしか観ていない人が多いのはどうしたことか。
私がバルテュスの名を知ったのは、御多分にもれず、澁澤龍彦の「幻想の画廊から」である。青土社版の単行本を少し無理して購入したのも懐かしい思い出である。表紙はアルチンボルドの「司書」だった。
バルテュスについては、独特の色と筆使い、それぞれお互いに無関心な人物像、時に露骨に、時に婉曲に描かれるエロティシズム等、その特徴は限りない。作中にしばしば描かれる猫は、バルテュス自身の分身だろう。それにしても、静止した時間の中、永遠のナルシックな世界へ静かに耽溺する少女たちの姿には、やはり魅了された。

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ラファエロとその時代。そして私達の時代。
上野のラファエロ展に行く。といっても、実際は「ラファエロとその周辺作家」展である。まあ、ルネッサンス期の作家だ。展示内容がこうなる事は事前に予測済みである。
内容的には比較的良質な催しだと思う。絵を見ているよりも人の頭を見ている時間の方が長かった点を除けば、だが。「大公の聖母」の黒バックが、後世に塗りつぶされたものであるとは初めて知った。修復の際に塗りつぶしてしまったらしい。キリスト像をサルにしてしまった例のアレよりはマシかもしれないが。

ルネッサンスとは再生を意味する。花田清輝の言い回しを借りれば、復興期(転形期)ということになる。花田は現代を転形期とみなし、ルネッサンスや室町時代にそのメタファーを追い求めたわけであるが、はたしてわれわれの時代はどうか。度重なる規制、健全化で私達の精神活動はますます貧しくなっているように見える。ランボーの言うように、道徳とは脳髄の頽廃だ。官製の「健全な文化は」復興の名に値するのか。

午後は池袋の脱/反原発デモに足を運んだ。雨の中、皆大変な思いをしながらの行進。沿道の反応も厳しかったが、諦めたくないという思いがある。ここでも転形期という概念がつきまとう。私達は転形期を生きているのか、それとも強固な支配体制の内の蟷螂の斧に過ぎないのか。いずれにせよ、やる事は変わらないのだが。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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