時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
SM、そしてサド侯爵
やれ、SMバーに政治資金をつぎ込んだだの、色々とかしましい。
基本、SMが悪いというわけではない。どう考えても目的外の行為に資金を流用していることが問題なのである。相変わらず「秘書がやりました」というお得意の伝統芸が発揮されているが、道義的責任は免れないだろう。「SMは差別だ、けしからん」などという政治主義的デクの棒は相手にしない。
SMについてはミシェル・フーコーが次のように述べている。
「SMの実践は快楽の創造であり、SMはまさしく一つの下位文化(サブカルチャー)です。それは一つの創造過程です。それは戦略的な関係を肉体の快楽の源泉として活用するのです」(ディディエ・エリボン「ミシェル・フーコー伝」)

SMという言葉が、D.A.F・ド・サドの頭文字と、ザッヘル・マゾッホの頭文字から取られているのはご存知のとおりである。だが、実際に作品に当たってみた人はそう多くは無いかも知れない。
よく誤解されているのだが、サドの小説は、SM小説たりえない。そこでは責められる対象が、快楽の陶酔に堕ちることが許されない。凌辱者達は、対象をひたすら毀損するのみである。絶望の淵に、性の虜となるような陶酔境は、サドとは無縁である。
毀損されるのは、肉体ばかりではない。この世の一切の価値そのものが、惨たらしく穢され、虐殺に付されるのだ。あの果てしない饒舌を思い出そう。自然の本質は悪である。よって、悪を行うことこそが、自然の本義にかなうことである・・・
だが、自然をアリバイとしながらも、放蕩者達の暴走ぶりは自然の玉座を軽々と乗り越えてゆき、全ての価値の座を空位にする。犠牲者達のあまたの死体が横たわる彼方に、ジュリエットの高らかな笑いが響き渡るのだ。否定への力強い意志が、そこには働いている。
あるいはジュスティーヌを、倫理的なマゾヒストとして捉える向きもあるだろう。だが、物語の末尾において、彼女には雷撃の鉄槌が下される。そればかりではない。稲妻の一閃により、破壊された彼女の惨死体には、尚も凌辱者達が群れ集うのだ。そこに自己陶酔への安住の地などあり得ない。
価値を徹底的に嗤うこと。そこにサドの小説の真骨頂か存在する筈である。
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サド論のためのプレリュード(3)
(承前)だが、前述の芸術観の持ち主は、「では反倫理的な作品が読者に及ぼす影響についてはどう責任を取るのか」と問うかもしれない。しかし、読者が作品をどう読むかについては読者の精神的姿勢如何にかかっているので、どのような影響を受けるかについても一義的には言えない。道徳的な作品を読んだからといってその道徳を信奉するとは限らないし、反道徳的な作品を読んだからといって、既成の社会秩序を破壊しようとするとは限らないのである。

ここで所謂戦意昂揚文学について少し触れておきたい。まず、その社会的影響についてであるが、これらの文学作品が影響を与え得たのは、社会がそのような受容状態にあったのが原因と指摘できる。次に、これらの作品には、それなりの文学的な評価が成立するということである。最後に、文学と戦争責任についてであるが、この場合あくまでも文学者のとった態度を問題とするわけで、作品論とは切り離した場所で追求されなくてはならない。また、ここでも単に戦意昂揚文学を書いたということが問題なのではなく、何故書いたのか、如何に書いたのかが問われるわけである。吉本隆明は欧米の戦争詩について次のように述べている。
「戦争を賛美するとか戦争に反抗するとかいうことを提起するまえに、極限情況のなかで人間主体がそれに耐えようとする無類の格闘を、それはしめしている。そのような詩には、たとえば、戦争詩一般を悪とするという判断を拒否してくる問題をはらんでいる」(吉本隆明「詩人の戦争責任論」)

以上述べてきたようなことから、私達は次のようなことが言える。すなわち、《倫理》や《有用性》の観念において、文学や芸術作品を規格化することは不毛であること、そして、作家がどのような立場を選ぶかは、それ自体では作品評価には影響しないということである。
サドの作品について論ずるにあたって、私達はこれまで述べてきたことを「前提」として確認することとする。何故このような前提を必要としたかというと、或る種の人間にとっては、サドのような「反道徳的」な作家を問題とすること自体が、既に逸脱だからである。だが、これまで確認した諸原則によって、我々はサドを取り上げることを可能とする道を確保し得た筈である。

以上で序文がほぼ終了する。あとは本編の概要に関する断り書きが少しあるが、ここで引き写しても仕方がないので省略した。
やたら生硬な文章だが、悪影響論に関するくだりは、平たく言えば「作品は良い影響も悪い影響もあたえ得るし、殆ど影響を与えないかもしれない」ということだ。このレベルの危険性を言い立てていたら、日常的な挨拶をはじめとするコミュニケーションすら取れなくなってしまうだろう。この文章を書いている時点では今日のような表現規制騒動は、まだ殆ど目に見える形では現れていなかった。山本直樹が「BLUE」でやられたくらいか。
若書きではあるが、今日に至るも私の基本的な姿勢は変わっていない。それにしても、馬鹿げた言いがかりで低レベルの糾弾ゴッコに打ち興じる連中は、どうしてこうも後を絶たないのだろうか。

A_V

付記:戦意昂揚文学に関するくだりは過去の言及と重複するが、本来この文章において考察したものである。

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サド論のためのプレリュード(2)
(承前)《倫理》が作品に対して示すこのような姿勢を批判するためには、個々の作品について逐一擁護するよりも、より普遍的な原則を打ち立てる方が望ましい。
まず、一般的に、文学作品にあらわれた言語は作品化の手続きを踏まれた言語であり、決して生のままの、教唆、扇動の言語ではないということが指摘される。各言語はその作品の中に内在化されており、個々の言葉尻を捉えて批判することは意味をなさない。
次に、作品が何らかの《倫理》に抵触するような思想に彩られていることは、その作品の価値を貶めることにはならないということを確認しておきたい。
作品が正しい理念を表明していなくてはならないという発想は、ロシア・マルクス主義の芸術理念と全く同じものである。こうした芸術観の信奉者にとっては、表明された理念の「正しさ」が、作品評価の尺度となる。少なくとも、 評価のための前提となっているといえる。
しかし、言うまでもないことだが、反道徳的な世界(姦通や殺人など)を描いた作品が優れた傑作となり、人々に感銘を与えることは充分にあり得るし、逆に非の打ち所のない道徳訓を提唱した作品が凡庸なものになってしまうことも充分にあり得る。作品の優劣は、そこに描かれた「理念の正しさ」には何の関係もありはしないのである。(続く)

上記は昨日の続きだが、リアルタイムの話題についても一言。大飯原発の件はまさに正念場。取り憑かれたように再稼動を目指す野田政権に対し、明日18時より官邸前で抗議行動がある模様。

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サド論のためのプレリュード
天罰男と狂乱市長が何やらコソコソとナイショ話をしたらしい。BL的な題材にならないかと考えたくもなるが、取り敢えず詳細が分かってからあれこれ考察したい。
先日、遠い昔に記したサド論の一部を公表したので、今回は序文に当たる部分を掲載する。みっともない文章には違いないが、自分の出発点を確かめる意味もあるので。


文学作品は如何にして読まれるべきか。そしてそれは如何なる場所に位置するか。サドの作品を論ずるにあたって、これらのことを簡単に考察していきたい。
よく知られているように、サドの作品群は様々な形で弾圧を受けてきた。その理由としては、風俗壊乱、思想の危険性などが挙げられる。勿論、現在これらの言辞は殆どが時代遅れとなりつつある。だが、こうした、文学を規格化しようとする動向自体は決して終わったわけではない(「芸術か猥褻か」という論議については低俗になるのでここでは扱わない)。
今日、芸術作品に対し、何らかの規格化が行われるとすれば、多くの場合、その動機を《倫理》に負っている。この《倫理》という概念は、実際に作品に対し、大きな拘束力を発揮する。たとえば、「差別表現」の名のもとに作品が絶版にされたりすることはそのよい証左である。童話「ちびくろサンボ」が絶版にいたったことは私達の記憶に新しい。
一般に、その作品のうちに何らかの倫理的禁忌(差別、暴力等)にふれるようなニュアンスが存在していることが摘発の根拠とされるといえる。サドの作品の場合で言えば、ナチスとのアナロジーとして、ナチスに匹敵する人間弾圧のイデオロギーとして、糾弾されたのである。たとえば、レーモン・クノーは次のように記している。
「サドによって想像され、また、サドの登場人物によって願望された世界が、ゲシュタポや、その拷問や、収容所の君臨する世界の悪夢のような予兆であることは明らかだ」(Maurice Lever 'Donatien Alphonse François, marquis de Sade'参照)
さしあたり、ここでこの発言の短絡性を指摘することは控えたい。むしろクノーの評は、ヨーロッパにおいてナチスの記憶が如何に根深いものであるかを物語っているといえる。(この項続く)

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サドと死刑廃止論(2)
(承前)「法律はそれ自体冷静なものであり、人間において殺人という残酷な行為を正当化しうるような情熱には近付き得ないものであろう。人間は自然からこうした行為を許されるような感じやすい性質を与えられているが、反対に、法律は常に自然と対立し、自然から何も受けていないので、勝手に同じ逸脱を行うことが認められている筈がないのである」(「閨房哲学」)
ここで言われていることは、今日の言葉に置き直せば、「人間に対する生殺与奪権を、抽象的かつ無機的な法律などに委ねてはならない」ということになる。もっともサドの論理では人間の情熱による殺人ならば容認されることになってしまい、そのため復讐法も認めなくてはならないという結果に陥ってしまうのだが、少なくとも、人間の死というものをより現実的な事件として~抽象的な事項ではなく~捉え直そうとする試みは現在もなお、説得力を持つ。
モーリス・ルヴェは次のように述べる。
「ルソーや「善良な自然」の信奉者達が、美徳の名の下にあまたの首を切り落とす一方で、「破廉恥侯爵」が死刑に抗して唯一人立ち上がるのを考えることは興味深いことである」('Donatien Alphonse François, marquis de Sade')
かかる死刑反対論において、サドが彼の同時代から一歩現代に足を踏み入れていることは確実である。

付記:実際には、サドに先駆けてベッカリーアの死刑反対論が存在する。また、あのロベスピエールも弁護士時代は死刑廃止論者であった。しかしそれでも尚、サドの死刑反対論の独自の輝きが失われることはない。
ところで本日、三人の殺害が執行された。昨日から、死刑の話題に触れてきた矢先である。まさかこのブログに対する当て付けではないだろうが、嫌な符合だ。

先程、首相官邸前の、原発再稼動に対する抗議行動に顔を出してきた。この報告については稿を改めたいと思う。

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のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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