時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
いわゆる「ウザがられる自由」について
<ル・モンド>に寄稿された、me too運動への批判が話題になっている。100人の連名による声明文で、起草者にはカトリーヌ・ロブ=グリエ(アラン・ロブ=グリエ夫人。小説「イマージュ」の著者。尚、comédienne は「コメディアン」ではなく「女優」である)の名も見られた。カトリーヌ・ドヌーヴが賛同人に名を連ねていることも大きく話題を集めている。
全訳はこちらのサイトで読むことができる。致命的な誤訳は見られないようなので、参考にして欲しい。https://anond.hatelabo.jp/20180111072916

わたしの印象を率直にいうと、同意なく脚を触ったりキスを迫るなどの行為は容認しがたいと思う。この辺りは文化的な差異があるようだが、賛同できないということは申し述べておく。だが、そこに拘泥した挙句、この声明文の本質的な部分に一切眼を向けようとしない人があまりにも多い。
そうしたことから、以下、わたしなりに重要と思った点について補足したり強調したりしながら簡単にまとめてみた。わたしのフィルターが邪魔だというのなら、上記の全訳に当たってみて欲しいと思う。

性暴力は重大犯罪だ。ナンパはしつこかったり不器用だったりしても犯罪ではない。
だが、それは男性中心主義者による侵害行為を正当化しない

・現在のme too運動は個々の女性達の意見・振る舞いを封殺している。異論を述べるものは裏切り者・共犯者にされる。

・女性の保護や解放を口実に、女性が「永遠の被害者」といった卑小な存在に貶められている。#metooが引き起こした熱狂は、女性が自立することを手助けるには程遠かった。実際には性の自由の敵、宗教的過激主義、最悪の反動主義者に利益をもたらすことになってしまった。

・文化的修正主義・粛清の波が暴走している。エゴン・シーレのポスターの裸を取り締まり。バルテュスの絵画を撤去する。人と作品を混同し、ポランスキーの回顧上映の禁止を求め、ジャン=クロード・ブリソー監督作品については延期になった。
創作においては、セクシストの男性登場人物を出すな、女性は女性として振舞うことのトラウマに苦しんでいることをもっとはっきりさせるように(!)と求められている。
(いわば創作活動内に政治的教条主義を導入しようとしている)

・私たちは女性として、男性憎悪・性憎悪のフェミニストなどにはなりたくない。

性的な誘いを受けた時に「ノン」という自由は、ウザがられる自由無しでは上手く働かないと私たち考える。

・私たちは身体だけの存在ではない。たとえ辛く、生涯残る傷を受けたとしても、女性の尊厳は傷つかないし、傷つけられてはならない。私たちの内側にある自由は侵されることのないものだ。

最後の部分は、言いたいことは分かるものの、「人間はそこまで強くなれねえよ」と言わずにはおれない。だが、起草者の意識は女性の解放・自立を前提にしたものであることは指摘しておく。つまり、「私たち女性は強いのだ」ということだ。
こうした動きに対し、「ドヌーヴは特権的な立場から旧時代の性的役割を押し付けている」という頓珍漢な批判がなされた。だが、声明文によれば、me too運動の方こそヴィクトリア朝的価値観の焼き直しであり、反動主義的なのだ。また、男性中心主義者からの賛同もこの声明とは相容れないものであることはいうまでもないだろう。この声明もまた、フェミニズムの立場からなされたものだからだ。
わたしの問題意識でいえば、シーレやバルテュスをめぐる一連の騒動、創作物への政治主義的介入などについて、大いに参考になった。自称リベラルの反動性など、このブログで書いてきたこととも殆ど重なっている筈である。
また、<「ノン」という自由>については、軽々しく見過ごしてはならないと考える。この場合ではパターナリズムを拒絶するということなのだが、かなり重要なテーマが秘められているような気がするのだ。「ノン」という必要が消滅する社会ではなく、自ら「ノン」を選択できる社会。今日の時代において、わたし達は「ノン」という自由を簒奪されてはいないだろうか。

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チート!チート!チート!
チートという英語がある。アルファベットではcheat、名詞としての意味は詐欺師、いかさま師というものだが、わが国の現用ではフィクションにおいて、超人的能力を備えた登場人物をさす場合が多い。反則的能力というわけだ。

だがこのチート主人公の存在は、今に始まったものだろうか。例えば、探偵小説の名探偵など殆どすべてがチートである。有名どころでもシャーロック・ホームズからエルキュール・ポワロ、明智小五郎、金田一耕助等々、枚挙に暇が無い。古帽子ひとつを取って、「持ち主は知能の優れた人物。今は零落しているが嘗ては裕福だった。思慮深い人物だったが今は道徳的に退歩している。飲酒癖があり、外出は殆どしない。半白の頭は散発したばかり。ライム入りのクリームを使う」などと洞察するのはまさに「チート」以外何者でもない(ドイル「青い紅玉」参照)。
ヒーロー物がチートなのは寧ろ当たり前で、「最近の若者の間ではこんなものが・・・」などというのはもはや年寄りの繰言でしかないだろう。ただ、その手の主人公が無双するだけの作品(所謂「俺TSUEE」物)は後世に残らないというだけなのだ。
ジークフリートは奸計によって殺害され、アルセーヌ・ルパンは超人的能力を持つが裏切られたり騙されたりで、毎回苦戦する。チートな主人公は存外苦労人である場合が多いらしい。マンガでいえば超人ロックやゴルゴ13にしても同様である。
およそ、チート物には大きく二つの流れが存在するといっていい。勿論、多くの場合は両者が混交している。

・チートにもかかわらず、主人公が苦戦する。
・主人公はチート能力を発揮するが、物語の総体としては別のものを提示する。

探偵小説が鮮やかなトリックを提示するのは後者の典型である。極言すれば、探偵はそれを導き出すための道具である。勿論、主人公が一定の魅力を併せ持っていなければ物語そのものが成り立たない。探偵物でもホームズの場合は十九世紀イギリス社会の姿を炙り出すことに成功しているし、笠井潔の矢吹駆シリーズなどの主題は、哲学者達の思想的格闘とそのアポリアを描くことにある。また、先に挙げたゴルゴ13は大抵の場合ポリティカル・フィクションが主題なので、寧ろこちらに属するだろう。

このように、「チート物」の系譜は連綿としてあり、今に始まったことではない。新しい作品に接しても「この主人公はチートだ」と徒にカリカリせず、もう少し長い目で見ては如何。

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乗り越えられた<虚構>
ここ一ヶ月程、体調を壊していたため間が開いてしまった。扁桃腺が腫れて夜眠れなくなり、数日経って収まったと思ったら咳が止まらずにまた夜眠れなくなり、さらに数日を経て酷い頭痛と嘔吐感に苛まれた。病院で貰った薬を飲み続け、漸く落ち着いてきたがまだ完全ではない。

「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」
話題の筒井康隆のツイートである。これに対して、「筒井は歳をとって劣化した」という意見も見られた。
だが率直に言う。筒井康隆は劣化しているわけではない。相変わらず気を衒うことに終始し、裏の裏が表であることに気付けない男である。昔からまるで変わってない。
わたしは中高生の時分、筒井に入れ込んでいたので、作家としてのかれの基本的な姿勢は理解しているつもりだ。パロディ化し、ドタバタ喜劇の世界に放り込み、ブラックな笑いを掻き立てる。それが筒井の作風である。やがてこの作家は徐々に前衛文学へと接近していったが、一方で価値相対主義の最悪の面をいつも携えていたと思う。それがブラックユーモアとして機能する時は強みとなり得たが、危うい側面も備えていた。今日、その奇抜さはネット右翼に追いつかれ、劣化した体制側、支配層に都合のよい言説として受容されるに至った。取り込まれていくことの怖さについて、あまりにも無防備といえる。
小説「虚航船団」のあたりから、彼は「現実の虚構性」について屢々言及するようになった。私達の生きるこの現実さえも虚構・フィクションとして見做すこと。わたしがこの作家に違和感を覚えたのはこの頃である。彼の言い分は別に真新しいものではない。世界を、認識主体が作り出す虚構として捉えるものである。今ここにある現実は、自分と言う主観を通したフィクションなんだ。客観的な視点なんて存在しない。全て主観によって汚染されているのだ。
そこまでは間違っていない。だが、わたし達は何らかの関係性のうちに構築された、間主観的な約束事の世界を生きている。認識論としては世界は虚構と言っても差し支えないが、素朴な意味で世界は堅固な現実であるとみなしてよい。ただ、それが絶対的なものではないことを忘れなければよいのだ。わたし達は夢物語を生きているわけではない。
もっとも、わたしが当時覚えた違和感はもっと単純なものである。いじめや貧困、差別を面白おかしいフィクションとして見做されたらたまらないというものだった。この生理感覚は間違っていないと思う。
筒井はフロイトにかぶれたおかげで政治の魅力にとりつかれずに済んだと記している。政治は愚劣である、そんなものに振り回されて溜まるか。そうした姿勢はわたしも嫌いではない。だが、彼は政治・社会と対決することによってそれを成し遂げるのではなく、政治・社会をかわし、やり過ごすことで現在に至ってしまったといえる。早い話、無知なまま過ごしてしまったのだ。
彼の頓珍漢な社会意識は、例えば永山則夫の文芸家協会加入問題についてもいえることだった。「作家なのだから、自分が殺人を犯す可能性があるということに想像力を及ぼさなくてはならない」と彼は言う。だが、永山問題の本質は、わたし達が作家であるかどうかではない。人権の問題である。死刑囚だからといって、協会加入を拒否するのはどういうことか。不当な差別ではないかということである。これについては柄谷行人が正当に筒井を批判していた。
筒井が奇抜な「無茶振り」をするのは今に始まったことではない。「戦争は人口抑制のためと考えればよいことなのではないか」とも彼は記していた。勿論、真面目に捉える必要は無い。問題は、この底の浅い価値相対主義にある。根を持たない。絶対的な足場を設けない。突拍子も無い思い付きを並べたような、筒井的ポストモダニズムが、ネット右翼の思考にぴったりと重なってしまったのが今回の事件である。
わたしたちが目の当たりにしているのは、筒井的なポストモダニズムが反知性主義によって乗り越えられた瞬間なのだ。そして、これはこの社会が途方も無く劣化したことの表れでもある。奈落の底は、もうそこに見えている。

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旗のある風景
1945年8月15日、日本は敗戦を迎えた。私の母が10台半ばの頃である。空爆の恐怖からも解放され、庶民の間では敗戦の口惜しさと相俟って、安堵感と解放感が広がったに違いない。やがて来る進駐軍(占領軍)への不安はあるにしろ、である。
そんな中、母の証言によれば、近所のチョウさんが旗を立てたという。どんな旗だったかは母は覚えていないが、およその想像はつく。ゴチャゴチャ詮索するまでもないだろう。母たちはそれを見て「チョウさん、何、旗なんか立ててるのー?」とケラケラ笑っていたとの事だった。母はそこに込められた意味を知らなかったし、今現在も知ろうとはしない。だが、多くの日本人の感覚は同じようなものだったと思う。
敗戦の時、殆どの日本人はその植民地主義や、民族差別を反省などしなかった。ただひたすらひどい目にあったという、己が身の不幸を嘆くのみだった。繰り返すが、日本人は反省も謝罪もしなかったのである。
さて、ある創作において、ここで日本人が深く反省して見せたというエピソードを加えたとする。勿論、そこには作者の願いや祈りがあるに違いない。だが、そうした善意とは裏腹に、それは虚偽による免責を行うことに繋がらないか。日本人は敗戦のときに民族差別や植民地主義を深く反省したのだという、偽りの美談を作ることが、まさに歴史修正主義になるのではないか。船戸与一のいうように、歴史は作家の玩具ではない。
勿論、これは意地の悪い見方であるには違いない。だが、安易に歴史記述に手を加えることにもまた、陥穽があることは事実だ。すくなくとも、「反省と謝罪が描かれていないからこれは右翼的な改変だ」とするのは、歴史的な現実も作劇上のリアリズムも無視した、短絡的な言い掛かりではないのか。多くの日本人は反省も謝罪もしなかったという事実からは、逃げようがないのだから。

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欅坂の白日夢
今月の下旬まで忙しいので、あまり更新する余裕がないのだが、黙っていられないので触れておく。
セルジュ・ゲンズブールに「ナチ・ロック」という曲がある。アルバム「第四帝国の白日夢」に収録され、シングルとしても発売されたものである。内容はナチスをテーマにした、言葉遊びとナンセンスのオンパレード。このアルバム全体がそういった確信的な悪ふざけに徹しており、「ナチ・ロック」から「S.S.イン・ウルグアイ」までそれは一貫している。
勿論、本作を手の込んだナチス批判と受け取ることも出来るのだが、そうした糞真面目な政治性の枠に収まらない、精神の渇望がここにある。鹿爪らしい良識に喧嘩を売った、いかにもカウンター・カルチャーの牽引者にふさわしいスキャンダラスな作品だが、当然、発表当時は喧々囂々たる非難の嵐だったという。本人も、全て覚悟の上だろう。
ゲンズブールはユダヤ人である。ナチスに迫害され、苦しめられた当事者であり、ナチスに傾倒する余地はない。その彼が敢えてナチスをポップな主題にする。これは彼が投げかけた問いかけであり、よく考察されるべきである。

さて、長々と書き記してきたが、わたしの言いたいことは他でもない。欅坂46とかいうグループのことである。ナチス親衛隊を模したコスプレは、どちらかというと映画「ナチ女収容所」を連想したくなるのだが、この問題点はやはり、「何も考えていない」「考え無しに行っている」という点に尽きると思う。あの制服を「格好いい」(当然だ。ナチスはその最高の美意識を徹底的に悪用したのだから)と評価したいのならば、それだけの理由と覚悟が必要なのだ。喧嘩する覚悟があるのか?無いだろう。その程度の意識で扱えるような代物ではない。
デヴィッド・ボウイにしろYMOにしろ、覚悟があった筈である。

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※ついでにシド・ヴィシャスの写真も挙げておく。この人の振る舞いについても、色々考えてみると面白い。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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