時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
読んだ本、観た映画 2017.11.14
読んだ本、観た映画の題名を備忘録的に記しておく。感想はおいおい記すことになるだろう。他にも読んだ本があるような気がするが、思い出せない。物忘れが進行するのは面白くないもので、差し当たり記録を残すことでこれに抗いたい。
「まどマギ」は数ヶ月前に観たのだが、感想を記すのを忘れていたのでここに書き留めておく。ちなみに、わたしの評価は今回も高くない・・・というより低い。

読んだ本
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」
カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」

観た映画
「魔法少女まどかマギカ 叛逆の物語」監督:宮本幸裕
「フランドル」監督:ブリュノ・デュモン
「ブレードランナー2049」監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ(こちらは二回観た)
「高慢と偏見」監督:ロバート・Z・レナード
「高慢と偏見とゾンビ」監督:バー・スティアーズ
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生きてさえいれば
選挙結果は虫唾が走るので、今更語りたくも無い。イバンカの来日ではしゃぎまわる莫迦については、来世でのやり直しを待つ他無い。そうこうしているうちに、その父親が来日した。この男の言動にもうんざりだ。戦争をけしかけろとでも言うつもりか。
そんなこんなで、映画の話題である。

ダンケルク 監督:クリストファー・ノーラン
ダンケルクの壮絶な史実はよく知られている筈であるが、この日本においてはそうでもないらしい。ドイツ軍に追い詰められた英仏軍が、ダンケルクからイギリスに向けて大脱出を敢行したという出来事である。ポール・ギャリコの小説の題材にもなっていた筈である。この小説にインスパイアされたキャメルがアルバムを製作しているが、まあその話はどうでもいい。
映画は様々な人間模様の中に、勇気、怯懦、献身、エゴ等々をちりばめて描き、なかなか見ごたえがあった。無論、敗走の記録には違いない。そのため、カタルシスの無さに不満を描く人もいるかも知れない。だが本作に描かれているように、一兵卒にとって真に英雄的な行為とは、生きて帰ってくることである。ここを勘違いして欲しくないと思う。

トランスフォーマー・リベンジ 監督:マイケル・ベイ
間違えて借りてしまったのだが、取り敢えず我慢して観た。ただただ、ひたすら詰まらない映画だった。おかげで完全に調子が狂った。勘弁してくれ。

他に、「ブレードランナー2049」、「フランドル」を観ているが、ブレランはもう一度観てから感想を述べておきたい。さしあたり実に重厚で、尚且つしっとりした味わいのある作品だったことは報告しておく。



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ミサイルが騒がしいので映画の話をしよう
観た映画のレビューが大分遅れていたので、走り書き程度だが簡単に印象を記す。放っておくとそのまま放置することになってしまいそうなのだ。とにかく漠然と「観た事がある」という印象に終わらせたくはない。ひと言でもふた言でもいいから、何らかの記録に留めておくことは有益な筈である。

フューリー(監督:デヴィッド・エアー)  かなり前に観たのでもう記憶も薄れてしまったが、出来の悪い戦争映画という印象だけは残っている。捕虜虐殺の場面だけは鮮烈だったが、ドイツ人女性の描き方など、舐めているとしか思えない。

スーサイド・スクワッド(監督:デヴィッド・エアー) 凶悪犯罪者を警察力として活用するという話。「ワイルド7」みたいなものかと思ったらアメコミヒーロー物の番外編みたいなものらしい。映画雑誌ではかなり評判が悪かったのだが、それほど出来の悪い作品というわけでもなかった。勿論素晴らしい作品というわけでもない。

アイアンマン (監督:ジョン・ファヴロー)  軍需産業を経営する主人公が、アフガン戦争に巻き込まれたことから自らをサイボーグ化。これまでの自分の過ちを認め、すっかり改心してヒーローとなる。結論としては、思った程悪くない。正直、舐めていたと反省した。今日の社会問題と繋げようとするのは、大人の鑑賞に堪えうる作品を意識しているのだろう。

無限の住人 (監督:三池崇史 脚本:大石哲也)  原作を途中まで追っていたのだが、途中で「アフタヌーン」誌の購読自体をやめてしまった。単行本もそれ以来追っていない。作者のアートの外連味が徐々に鼻についてきたのもある。さて、三池の映画の方はガッツリと斬り合いをしていてなかなかいい。この点勝新の座頭市を思わせる。ただ、殺陣の連続で、途中で飽きてくる感が無くもない。

メッセージ (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ)  所謂ファースト・コンタクト物。わたし達にとって、本当に対話が必要とされるのは誰に対してなのか。それがこの映画のテーマだろう。 亦、主人公の最後の選択について議論があるが、別に奇異なものとは思わない。野暮ったく言えば、「この先哀しい運命が待ち受けているとしても、自分はその(予知された)未来によって支えられてきた。だからそれを決して否定したくない」ということなのだろう。

ダイナマイトどんどん (監督:岡本喜八 脚本:井手雅人 古田求)  言わずと知れた岡本喜八の怪作。やくざ達が斬った張ったの抗争を続ける代わりに、野球大会で決着をつけるというもの。マンガ作品で散々剽窃された話だが、「戦後」をずっしりと引き摺り続ける登場人物の姿には厚みを感じる。

キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー (監督:ジョー・ジョンストン)  第二次大戦中の米・欧を舞台に、改造人間となった主人公が活躍。何故か「未来少年コナン」を意識したような場面が見られ、なかなか小気味いい。わざわざ日系兵士を登場させたのは「日本アニメへのオマージュ」を示したかったのか。

ノーゲーム・ノーライフ・ゼロ (監督:いしづかあつこ 脚本:花田十輝)  TV版の主人公兄妹にそっくりな主人公と恋人が、不毛で絶望的な戦争を終結させるために奔走する。TV版のコメディとは打って変わってシリアスな悲恋物語である。予想外の良作だった。

オデッセイ(火星の人) (監督:リドリー・スコット) 近年のスコットにしてはマシな作品。火星に取り残された主人公が帰還するまでの話である。オーソドックスなストーリー展開で、評価としては「まあまあ」といった所。それにしても、やはり近年のアメリカ映画では、中国の存在が無視できなくなっているのだな。製作側のオトナの事情ばかりでもあるまい。

トランスフォーマー (監督:マイケル・ベイ)  一応良くできてはいるが、主人公の女蕩しぶりにまるで共感できないのが難点。内容は、主人公の青年が金属生命体と共に、地球の危機を防ぐというもの。「犠牲無くして勝利なし」というセリフについては、「取り敢えず犠牲者を出せば勝利する」という特攻神話を過去に持つわたしたちとしては、受け入れがたい。尚、このセリフはわが国の「ガールズ&パンツァー」でもパロディ的に流用された。

この他、「リリカルなのは Reflection」は続編があるので、まとめてレビューする予定。他に「南京!南京!」という問題作があるのだが、これはじっくりと時間をかけて感想を記してみたい。

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或る茶番劇
映画「きみの声をとどけたい」を観た。観てしまったことを一刻も早く忘れたいというのが率直な感想である。

序盤の主人公の異常行動には唖然とするほかなく、脚本はどうなっているのかと呆れ返るばかりである。だが、そんなことはここでは大した問題ではない。それよりもまず、
「他人を悪く言うと、その言霊は自分に撥ね返ってくる」
このセリフに引っかかりを感じた。この「他人」を「権力者」と置き換えてみよう。ネット右翼が「パヨクは批判ばかりしている」というのと同質のものに繋がらないか。
さらに、「権力者が庶民のために頑張っているのを、みんな理解しようとしない」という件りには、虫酸が走った。ここでこの映画がどちらの方向性を見ているのか、はっきりしたと思う。努力しない人間が人の上に立てるか?ちょっと待て。仮にいくら努力したとしても、その結果がトランプや安倍晋三であれば、それは評価に値しない。
さらに、ラストで十数年意識不明の状態にあった母親が意識を回復する場面で怒りを覚えた。これは「映画の噓」などではない。只の噓だ。何の御利益のつもりか知りたくもないが、「レナードの朝」を百回ほど繰り返し観て出直して来ることを勧めたい。

嘗て「映画くらい弱者の味方であってもいいじゃないか」と鈴木則文は述べた。若松孝二は「モノを作る人間は、権力の側から作っちゃいけないんだ」と常に主張していた。映画のみに限らない。創作活動からこの前提が崩壊したのは何時からなのだろうか。「シン・ゴジラ」は「たたかう権力者」の姿を英雄的に描き続け、TVアニメ「GATE自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」では、原始的な武装しか持たない異世界人を、自衛隊が「ワルキューレの騎行」をバックにひたすら虐殺する姿を、格好いいものとして提示している(コッポラに謝れ)。或る意味評判の「永遠のゼロ」は未見なのでさしあたりここでは触れない。
現在、一部の作品で権力者側の視点が積極的に導入されるのはどういうわけだろう。「弱者の視点ばかり取り上げるのは偏っている」という両論併記的な発想なのだろうか。だとしたらそれは只の間抜けである。この手の作品に社会的弱者・下層民・落伍した者の姿に向き合う様はまずもって見られない。よく誤解されるが、こうしたパワーエリート礼讃こそ、ニーチェは「弱者の思考」として軽蔑した筈である(三島憲一「ニーチェ」参照)。今回の映画でも、地域の有力者への批判は、無理解な中傷として片付けられる。

勿論、創作活動においては社会的身分を問わず、登場人物の仮面を徹底的に解体させ、生身の人間として描くことが重要である。むき出しの生の姿であり、そこで初めて人間性の真実に近づき得る筈である。この映画は生身の人間を描く振りをして、社会的強者を擁護することに話を結び付けていった。そこにいかがわしさがある。
花田清輝は「たしかに人間喜劇(コメディ・ユメイヌ)の時代は終わった」と記しながら、同時に「それは性急な結論であるかにみえる」、と記した。ここで疑問符を呈してみせたのは、花田の慧眼である。おそらく今日のわたし達に必要なのは、「人間喜劇」である。薄っぺらな茶番などではない。

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「ゴースト・イン・ザ・シェル」について
映画のレビューがまるで追いつかなくなっているのだが、この作品についてはひとこと言っておきたい。結論を言うと、巷間叩かれているような悪い映画ではないということだ。

主人公の草薙素子を白人に置き換えた「ホワイト・ウォッシュ」については散々非難がなされている。実際にはストーリー上の整合性がつけられてはいるが、その分たちが悪いともいえるし、どうしても批判はまぬかれないだろう。
ただ、「アニメ版の深遠な哲学を理解せず」云々という説にはあまり同意できない。サイバーパンクが流行ったのはおよそ30年前。人間がコンピューターと神経系統を通じて肉体的に接続し(早い話、脳に電極を埋め込み、ケーブルで接続する)、ヒトとAIの区別が喪失していく世界である。W.ギブスンの「ニューロマンサー」は二つのAIが統合して神になる話だったし、その後の続編ではそれが暴走していく様が描かれていた、と思う(昔読んだきりなので些かうろ覚えだ)。
さて、アニメ版「ゴースト~」では主人公は自分が何者かを問い続ける。果たして自分が人間なのか、AIなのか。考えれば考えるほど、自分が人間であるという根拠が失われていく。
ハリウッド版では解答が示されている。「そんなことをウダウダ考えたって仕方が無い。今、自分がどうありたいのかが重要なのだ」と。人間の本質を実体主義的に探究しようとしても、究極的な模範解答など出るべくも無い。結局、ある社会における関係性や、約束事の上に全ては成り立っている。そう考えていけば、自分がAIだろうとヒトであろうとどうだっていいという地平に行き着くことになる。
アニメ版では別のAIと融合を果たすことで主人公は新たな一歩を踏み出すが、ハリウッド版ではそれは無い。既に解は提示されているので、主人公は自ら歩みを進めることが可能なのだ。
実は、「今の自分を受け入れた上で前に進む」という点で、アニメ版とハリウッド版は同じ結論に達しているとも見て取れる。アニメ版ほど「ヒトかAIか」のテーマを前面に出さなかったのは、「今さら?」という思いもあったのだろう。ギブスンの活動以降、散々議論は尽くされているのだ。何せ30年だ。既に解決済みと断ぜられてもおかしくない。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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