時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
「俺が法律」なのか
日本国憲法第39条には「刑罰法規の不遡及」が定められている。法律学的には、罪刑法定主義の論理的帰結としての「事後法の禁止」と呼ばれる。
これは、適法であった行為を、だまし討ち的に事後法でもって断罪することは許されないということである。このようなことが認められたら、たとえ法律を遵守していても、いつ何時罪に問われてもおかしくないことになってしまう。これでは安心して社会生活を営むことすら困難となる。
例を挙げよう。毛沢東時代の中国で、百花斉放運動で党への批判を奨励したことがあった。その直後、反右派闘争と称して批判者を次々と粛清、弾圧していったのである。
このように、為政者の勝手な動向により市民生活が脅かされないように、「事後法の禁止」という原則が定められている。
しかるに、大阪市ではこうした近代的な法原理が認められていないらしい。それ自体に違法性の無い「刺青」が身体に施されていることを理由に、後から作ったルールで職員をいとも簡単に解雇しようとする。通常、労働者の解雇にはそれ自体厳しい条件が存在するのだが、それにもかかわらず、である。ここには論理性もへったくれもない。「ムカつく、やっつけろ」それだけである。法律はそこでは一切機能しない。為政者にとって都合のいい部分以外は、法律は意味を成さないのである。
そして不気味なのは、このような事を言い出した市長の尻馬に乗り、職員に憎悪をぶつける人々が多く見受けられることである。誰かを断罪することによって、自らの正当性を確保しようとするのだろう。「あいつは悪い奴なのだ、そして私は偉いのだ」そんな自己確認をして何が面白い?私達の社会に病理があるとすれば、むしろそちらの方だと思われる。

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沖縄を返せ、沖縄に返せ
沖縄「返還」40周年。めくそ・・・じゃなかった、のだめが「普天間固定化、あってはならない」とのたまったそうだが、言うだけならタダだからなぁ。この男が本気で沖縄のために基地問題を考えているとはとても思えない。都合の悪いものを立場の弱い所に押し付けるのは原子力政策と一緒。
嘗て大島渚は「我々は沖縄に対して負債を負っている」と語ったという。「夏の妹」では「沖縄は観光地となり、堕落した」と皮相な断罪を加えているように思えた。勿論早計であり、大島も後年忸怩たるものがあっただろう。さて、私たちが負債を返すのはいったい何時になるのだろうか。

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アルジェントはアルジェントである
予想したよりもアルジェントらしいフィルムだった。まだ禍々しさの薄い初期の頃の作品に近いか。いや、「シャドー」にも近いものがあったな。よって、血飛沫満載の鮮血の美学を求めることは出来ない。
全盛期のアルジェントの作品といえば、うら若い少女が殺され、血飛沫が飛び散り、ガラスが砕け散るシーンが鮮烈だった。無論、「処女性」という心理学的な象徴を当て込んだものである。
本作ではそうした派手さこそ無いものの、アルジェントならではのテイストをそれなりに感じることは出来る。音楽も相変わらず決まっている(「フェノミナ」のときに近いかな)。
ラストの場面はいうまでも無く「網走番外地」であるが、意識していたのだろうか。それにしても、全てが終わった後に茫然と佇む主人公の姿は美しい。




追記:話題の虚構新聞の謝罪ツイート、吹いた。
(以下引用)
【お詫び】本日付記事でネット界隈をお騒がせしたことをおわび申し上げます。現実にありえないことをお伝えするのが本紙のポリシーですが、今回非常に多くの方から「橋下氏ならやりかねない」と思われたのが最大の誤算でした。今後はもっと現実離れした虚構報道を心がけます。申し訳ありませんでした。

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鯛は腐っていないかもしれない
探し物に追われ、何も手に付かない一日だった。重たい映画など全く観る気になれず。ダリオ・アルジェント監督「デス・サイト」を途中まで観る。音楽はいつものゴブリンの人(名前忘れた)だと思うが、途中まで見た限り、映画としての出来は左程悪くないような気がした。尤も、あまり評判のよくない作品なので、後半でがっかりさせられるかもしれないが。
アルジェント映画は初期の目を瞠るような美学が薄れたので、最近はあまり熱心に追いかけていなかった。だがひょっとすると、まだ喚起的なものを見出せるかも知れない。もう少し追いかけてみよう。
ところでこの映画、イタリアを舞台にしているにもかかわらず、音声が英語なのが気になった。「サスペリア」もそうだったなぁ。あの舞台はドイツだったか。

尚、前述の探し物は今しがた見つかった。ひと安心する。

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原発止まった五月の空
自宅のパソコンのメモリを増設する。二枚を組み合わせて高スペック化を図るが、何分古いマシンなので、マザーボードが対応し切れず。結局一枚のみを使用して落着する。それでも容量は以前の倍だ。動きは悪くない。

午後になり、首相官邸前で脱原発抗議行動。相当な人数が集まった。主催者の発案でめいめいにマイクを回し、皆が思いのたけをぶちまけている。この場合、長々と演説を行うのではなく、自分の素朴な思いをぶつけた方が心に残る。
残念ながら一人3分ずつという、申し合わせたルールを守れない人がいた。いや、核武装の問題や、憲法改悪の問題と密接に関連しているのはその通りだと思うのだよ。おそらくそこにいた人々の殆どが同意すると思う。ただ話が長すぎるんだよな。簡潔にわかり易い形でまとめれば、拍手さえ受けた筈だ。
抗議行動は18時まで行われたらしい。私は17時で帰宅した。目先の結果がどうあれ、とにかくめげずに続けることだ。

512kogi

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預言詩とその時代
マヤの予言って何だよ。わざわざ新聞で取り上げるような話なのか。ちなみに私の手元にある新聞は、天下の朝日新聞。なかなか笑わせてくれる。まあ、原発を再稼動させれば人類滅亡に一歩近付くことは確かだろうが。どうも人間というものは、やくたいも無い与太話に心惹かれるものらしい。
与太話のついでだ。予言として有名なのは、例のノストラダムスの詩篇群だろう。
ノストラダムスの本名はミシェル・ド・ノートルダム。16世紀という、ルネサンス文化の花開く中、活躍した人である。「サンチュリ(詩百篇)」と題された彼の詩集は、好事家達の論議の的になってきたことは周知の事柄である。尚、巷間伝えられる「諸世紀」の邦題は誤訳である。
ルネサンス期は宗教改革の時期でもあり、新・旧教の対立が激化した時代である。フランスではノストラダムスの晩年に凄惨なユグノー戦争が始まっている。また、同時代人のフランソワ・ラブレーが書き記すように、この時代は極端な旱魃と洪水が繰り返し発生した時期でもあった。ノストラダムスの作品はそうした不安定な世相を反映したものといえる。
澁澤龍彦は、ノストラダムスは難解で曖昧な作品を物することにより、人々を煙に巻いて巧みに世渡りをしていったのではないか、と感想を述べている。魅力的な見解には違いない。だが、ノストラダムスにそんな器用な処世術の心得があったかどうか、はなはだ疑問である。
詩人が自らの作品を預言/予言として吹聴することは決して珍しい事柄ではない。「俺の言葉は神託だ」とはランボーの専売特許ではないのである。おそらくノストラダムスは、神託と信じながら詩を書き連ねていったに違いない。早い話が、霊感とかインスピレーションといったものである。そしてルネサンスという迷信深い時代背景を考えれば、彼の創作姿勢は決して奇矯なものではない筈である。
尚、ノストラダムスの作品は、詩法としてはロンサールたちプレイヤード派の影響を強く受けているという。まさに時代の子であったことがここからも窺われる。

nostradamus

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あまりに人間的な
「我は人間なれば、人間的な何事も我に無縁ならずと思う」。こう高らかに宣言したのはテレンチウスであるが、爾来、この言葉は様々な文学作品や論文等において引用されてきた。無知な左翼は「マルクスの名言」と信じて憚らないが、そもそも常識的に広く知られている言葉なのである。
ここからどんな教訓を学び取るかは様々だろう。
文化活動であれば、自分の知らない分野に目をむけ、謙虚に思いを致すことが考えられる。また、社会に生起する様々な出来事を真摯に考察したり、あるいは社会からはみ出してしまった人たちについて、正面から受け止めていくこともあり得るだろう。一口に言えば、他者と向き合う、ということだ。、
この「我は人間なれば」を「我は悪魔なれば」と言い換えて見せたのはドストエフスキーの卓見である。注意してほしいのだが、ここには「人間の本質が悪である」というよりも、「悪とは極めて人間的なものである」という逆説が込められているのだ。

話を戻そう。何も文字通りに全てを背負い込んでしまう必要はないが、時にはこのテレンチウスの言葉を思い出してみるのも悪くはない。そうすれば、判らないものに接するたびに、「相手がバカだからだ」「対象が下らないからだ」などと短絡することはなくなる筈である。そういえば文楽を初めて見た男が、これに甚だしい誹謗中傷を加えていたのを思い出した。

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「よき人間」の形成について
この間漠然と考えていたことを、とりとめもなくまとめてみる。尤も、いつも書き散らしていることと殆ど重複するのだが。

悪や犯罪がゼロの社会というのは可能か。ここでいうのは政治犯罪や企業犯罪などの、組織立った権力犯罪ではない。そこいらに素朴な意味で見受けられる水準の事柄である。マスメディアは視聴率を稼ぐため、凶悪犯罪が幾何級数的に増大しているかのような宣伝工作に余念がない。社会を浄化せよ、ここから「規律への意志」が増幅されてあらわれる。
「よい社会を作るには、禁欲的で勤勉で従順な人間形成を徹底させる必要がある」とは、屡々喧伝されてきたことである。近代社会は人間をこのようなものとして規格化することが可能であると定式化したのである。「設計主義」と言い換えてもいい。
だが、何よりもこうした人間像は自我の欠落と同義語である。物言わぬ「理想的人間」の統べる社会、これは裏を返せば、決められたとおりに動く人形を大量生産することである。そのために、徹底的な訓育と管理、そして規格から外れる者を排除、抹殺する風潮がもたらされた。これが近代的な理想社会像のパラドックスである。この風潮は今日も尚、収まるどころか、ますます激しくなっているように見える。
こうした理想像が解体されるのはサド侯爵においてである。サドの諸作品は、人間は常に規格からはみ出るものであるということを明らかにしてみせる。サドが主として取り上げるのはセクシュアリテであり、欲望の問題である。人間の内にありながら、人間の支配に属さない諸要素の問題系が、ここでむき出しにされたのだ。
無論、あまり複雑で込み入った内容に踏み込まなくともいい。だが少なくとも、ここから人間観の問題が再検討に付される筈である。人間的であるとはどういうことか。サドが寛容な社会像を求めていったことは決して偶然ではない。

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「歌ごえ市長」の登場
レベルが低い話で恐縮だが、大阪の捏造男の話題。

「(記者の会社に)社歌はあるのか。(社歌がないから)こんな記者になっちゃう」と憤りを隠せない様子で、20分以上問答を繰り返した。(KKK新聞・・・もとい産経新聞)

社歌・・・そんな代物を設けてる会社なんてどのくらいあるのだろう。私もあちこちの会社を渡り歩いてきたが、社歌のある会社なんか無かったぞ。
社訓を唱和させられたことはあった。「社訓!ひとつこーけん!」・・・軍隊モデルの社員研修で、喉が潰れるまで一日中声出しをさせられた(こういうのを「体育会系」などと呼ぶからつけ上がる。正しく「暴力団系」と呼んだ方がいい。思い出したら段々腹が立ってきた。潰れてほしいというより、経営陣、みんな×ね)。
消費者金融ならウルフルズの「借金大王」が社歌になるのかな。「貸した金返せよ」ってアレ。しかし東京電力の社歌があれば、ぜひ聴いてみたい気がする。これについては諸説あり、虚実入り乱れた様々な情報が飛び交っているが、詳らかにしない。新たに作るのなら、話題になった替え歌「東電に入ろう」だの、清志郎の「原発賛成音頭」あたりがうってつけだろう。
ちなみに大阪市には堀沢周安作詞、中田章作曲の大阪市歌があるという。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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