時を告げない大時計
映画やら書物やらをめぐる、つれづれなる断想など
読書録2017.10.11
何も書かないでいるのも何なので、最近読んだ本のことを記す。「タイタス・グローン」はかなり読むのがきつかったので後回しにレビューするつもり。

生田耕作「ダンディズム」
18~19世紀を魅了した、ボー・ブランメルなる人物の生涯を中心に、かれが残した様々な文化的爪痕を探る。だが、正直わたしはこの人物にあまり関心が持てなかった。ふぅん、といった程度である。こちらも年をくったせいだろうか。
とりあえず、時代に名を残した人物についていろいろ参考にはなったので、その点意義のある読書ではあったと思う。

ブロック「アーカム計画」
題名から窺い知れる通り、クトゥルフ物の二次創作である。「サイコ」の著者であるロバート・ブロックは実績のある作家なだけに、なかなか読ませてくれる。ナイアルラトホテップに翻弄される元夫婦の奇怪な運命を描いたものだが、ミステリアスで禍々しいクトゥルフ・ストーリーを飽きさせずに展開していく筆致は見事なものだ。
とどのつまり人類はめでたく滅亡を迎え、末尾にはとんでもないどんでん返しが待ちうけている。ラヴクラフトファンにはお奨めだが、残念ながら本書は品切れ状態になっているらしい。復刊により、多くの人の目に触れることを望む。

レム「枯草熱」
著者は「ソラリスの陽のもとに」のスタニスワフ・レム。私が読んだのは、今はなきサンリオ文庫版である。
枯草熱とは花粉症のこと。イタリアで立て続けに起きた謎の狂死事件の捜査に乗り出した元宇宙飛行士の主人公の姿を描く。舞台はイタリアからフランスにわたるが、日本人青年が空港で爆弾テロを起こす場面などがあり、時代を感じさせる。最終的に開発途中の化学薬品が原因であり、一定の条件が揃った際に狂気の発作が始まることが判明する。だが種明かしよりも、終盤に主人公が襲われる強烈な幻覚の描写が鮮烈だった。
大傑作というほどではないが、なかなかユニークな作品である。

この他、「ブラウン神父の知恵」を読み終えているのだが、こちらはもう少し色々腰を据えて考察してみたい。

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野望の翳り
野望の党とかいう団体が、そろそろ馬脚を現している。「自民危うし」とでも思ったのか、メディアの対応も早い。そもそも、党首は叩けばいくらでも埃の出る人物である。報道がその気にさえなれば、いくらでも追い込める筈であった。

一方で枝野幸男を筆頭に、立憲民主党なる政党が結成された。立憲民主党といえば、世界史の授業を思い起こす方も多いだろう。高校世界史のテキストを繙くと、ボルシェヴィキ、メンシェヴィキ、社会革命党(エス・エル)などの革命勢力に対し、有産階級の自由主義者によってつくられた改革政党、とある。略称はカデット。メンシェヴィキと共に二月革命後の臨時政府を担うが、国内の叛乱に耐えられず、ボルシェヴィキに破れ、弾圧を受けながら歴史から消滅していく・・・
閑話休題。別段わたしは茶化そうというのではない。この度の結党がよい結果を齎すのであれば、実に喜ばしいと思う。
だが、これだけは声を大にして言いたい。徒に一喜一憂するな。これは、わたしたちが政治運動の中で学んだ教訓である筈である。情勢がましになってきた時こそ、着実な歩みを続けることがいやましに必要とされるだろう。浮かれてはしゃぐのは厳に慎むべきである。
そもそもの敵は、横紙破りの解散を強行した安倍自民党である。支持率が落ちたとはいえ、彼等の優位は依然として変わっていないのである。

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「希望」は、戦争
民進党と希望の党をめぐる一件。怒りはあるが、左程大きな驚きはない。「ああ、やりやがったな」という程度だ。わたしの周辺で運動に携わっている人からは結構そういう反応が見受けられる。これまでの流れから十分予想できた事柄であるからだ。わたし自身でさえ、「安倍と同じ悪政を小池がやれば圧倒的な支持を受けるだろう」と記したことがある。それでも、運動圏の混乱振りは相当なものである。「希望の党に合流してトロイの木馬になろう」という意見もあるが、政治はそんな甘いものではない。大抵の人間は、一年も経たないうちにすっかり党の色に染め上げられてしまうものだ。人気のある異色のコメンテーターが、自民党に入って末端議員として終わる事例は珍しくない。
尚、今現在の報道によれば、山本太郎自身は合流はしない模様である。「トロイの木馬」発言は、合流する者達に対するせめてもの願望ということか。取り敢えず正式な表明を待ちたい。
メディアは小池劇場の演出に余念がなく、「自民vs希望」の対立軸を煽り立てている。だが、改憲、安保法制、歴史修正主義、どれを取っても安倍と小池の向いてる方向に違いなど存在しない。希望もまた自民と同様、戦争を志向する党である。希望の党が大勝したとすれば、自民と連立し、大政翼賛会の出来上がりだ。
北朝鮮祭りがどこかに吹っ飛び、毎日のように小池の莫迦面がTVの液晶画面に流れてくる。実に飯が不味い。

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雑想2017.9.24
PCのアクシデントでハードディスクの中身がパァになった為、このブログの下書きも消えてしまった。情けない話で、折角なのだからもう少し丁寧に書き直すことにして、差し当たりやくたいもない事を書き連ねることとしよう。
巷では愚かな独裁者が核実験やミサイル発射を強行し、これに対して劣るとも勝らない知能を持った政府閣僚が、開戦前夜のごとく煽り立て、武器輸出の算盤を弾く超大国が手ぐすねを引いている。挙句の果ては難民を射殺するなどとのたまい出す有様である。そういえば昔、「武装移民」なんてのがあったな。どこの国がやったんだっけ?ああ、日本が満州でやってたんだ。
この連中の描き出す三文小説では、日本は国家存亡の緊急事態の渦中にあるのだろうが、何故かこの後の国会で衆院解散総選挙を強行するらしい。随分のんびりした緊急事態である。
運動圏ではスターリニスト共が我が物顔でのさばり返り、「異論を持つものは全て差別主義者」だなどと喚き散らし、脅迫活動に明け暮れている。これに同調する者も少なくない。この連中は過去の運動の歴史から何も学ぼうとしないのだろうか。「新左翼はテロリストだ!俺たちとは違うのだ!」などと考えているとすれば、コケの集まりである。「やらない善よりやる偽善」という言葉もあるが、やってはならない悪というものもあるのだ。

映画の話でも語ろうかと思うが、先日、誤って「トランスフォーマー・リベンジ」なる代物を借りてしまったため、停滞したままである。率直に言って、このシリーズは好きではないのだ。今回も冒頭三十分で、何だかどうでも良くなってしまった。
書物ではマーヴィン・ピークの冗漫な「タイタス・グローン」を四苦八苦して読みきったのが災いしたか、その後何も読む気が起こらなくなってしまった。これではまずいと、引き続き生田耕作「ダンディズム」を読み終えたが、これも今ひとつ興味をそそられず。さらに、カントの「永遠平和のために」を読んで色々メモを作っていたが、PCのクラッシュで全て吹っ飛んでしまった。よって、今は語りたくはない。目下、スタニスワフ・レムの「枯草熱」を読んでいるところである。

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ミサイルが騒がしいので映画の話をしよう
観た映画のレビューが大分遅れていたので、走り書き程度だが簡単に印象を記す。放っておくとそのまま放置することになってしまいそうなのだ。とにかく漠然と「観た事がある」という印象に終わらせたくはない。ひと言でもふた言でもいいから、何らかの記録に留めておくことは有益な筈である。

フューリー(監督:デヴィッド・エアー)  かなり前に観たのでもう記憶も薄れてしまったが、出来の悪い戦争映画という印象だけは残っている。捕虜虐殺の場面だけは鮮烈だったが、ドイツ人女性の描き方など、舐めているとしか思えない。

スーサイド・スクワッド(監督:デヴィッド・エアー) 凶悪犯罪者を警察力として活用するという話。「ワイルド7」みたいなものかと思ったらアメコミヒーロー物の番外編みたいなものらしい。映画雑誌ではかなり評判が悪かったのだが、それほど出来の悪い作品というわけでもなかった。勿論素晴らしい作品というわけでもない。

アイアンマン (監督:ジョン・ファヴロー)  軍需産業を経営する主人公が、アフガン戦争に巻き込まれたことから自らをサイボーグ化。これまでの自分の過ちを認め、すっかり改心してヒーローとなる。結論としては、思った程悪くない。正直、舐めていたと反省した。今日の社会問題と繋げようとするのは、大人の鑑賞に堪えうる作品を意識しているのだろう。

無限の住人 (監督:三池崇史 脚本:大石哲也)  原作を途中まで追っていたのだが、途中で「アフタヌーン」誌の購読自体をやめてしまった。単行本もそれ以来追っていない。作者のアートの外連味が徐々に鼻についてきたのもある。さて、三池の映画の方はガッツリと斬り合いをしていてなかなかいい。この点勝新の座頭市を思わせる。ただ、殺陣の連続で、途中で飽きてくる感が無くもない。

メッセージ (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ)  所謂ファースト・コンタクト物。わたし達にとって、本当に対話が必要とされるのは誰に対してなのか。それがこの映画のテーマだろう。 亦、主人公の最後の選択について議論があるが、別に奇異なものとは思わない。野暮ったく言えば、「この先哀しい運命が待ち受けているとしても、自分はその(予知された)未来によって支えられてきた。だからそれを決して否定したくない」ということなのだろう。

ダイナマイトどんどん (監督:岡本喜八 脚本:井手雅人 古田求)  言わずと知れた岡本喜八の怪作。やくざ達が斬った張ったの抗争を続ける代わりに、野球大会で決着をつけるというもの。マンガ作品で散々剽窃された話だが、「戦後」をずっしりと引き摺り続ける登場人物の姿には厚みを感じる。

キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー (監督:ジョー・ジョンストン)  第二次大戦中の米・欧を舞台に、改造人間となった主人公が活躍。何故か「未来少年コナン」を意識したような場面が見られ、なかなか小気味いい。わざわざ日系兵士を登場させたのは「日本アニメへのオマージュ」を示したかったのか。

ノーゲーム・ノーライフ・ゼロ (監督:いしづかあつこ 脚本:花田十輝)  TV版の主人公兄妹にそっくりな主人公と恋人が、不毛で絶望的な戦争を終結させるために奔走する。TV版のコメディとは打って変わってシリアスな悲恋物語である。予想外の良作だった。

オデッセイ(火星の人) (監督:リドリー・スコット) 近年のスコットにしてはマシな作品。火星に取り残された主人公が帰還するまでの話である。オーソドックスなストーリー展開で、評価としては「まあまあ」といった所。それにしても、やはり近年のアメリカ映画では、中国の存在が無視できなくなっているのだな。製作側のオトナの事情ばかりでもあるまい。

トランスフォーマー (監督:マイケル・ベイ)  一応良くできてはいるが、主人公の女蕩しぶりにまるで共感できないのが難点。内容は、主人公の青年が金属生命体と共に、地球の危機を防ぐというもの。「犠牲無くして勝利なし」というセリフについては、「取り敢えず犠牲者を出せば勝利する」という特攻神話を過去に持つわたしたちとしては、受け入れがたい。尚、このセリフはわが国の「ガールズ&パンツァー」でもパロディ的に流用された。

この他、「リリカルなのは Reflection」は続編があるので、まとめてレビューする予定。他に「南京!南京!」という問題作があるのだが、これはじっくりと時間をかけて感想を記してみたい。

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或る茶番劇
映画「きみの声をとどけたい」を観た。観てしまったことを一刻も早く忘れたいというのが率直な感想である。

序盤の主人公の異常行動には唖然とするほかなく、脚本はどうなっているのかと呆れ返るばかりである。だが、そんなことはここでは大した問題ではない。それよりもまず、
「他人を悪く言うと、その言霊は自分に撥ね返ってくる」
このセリフに引っかかりを感じた。この「他人」を「権力者」と置き換えてみよう。ネット右翼が「パヨクは批判ばかりしている」というのと同質のものに繋がらないか。
さらに、「権力者が庶民のために頑張っているのを、みんな理解しようとしない」という件りには、虫酸が走った。ここでこの映画がどちらの方向性を見ているのか、はっきりしたと思う。努力しない人間が人の上に立てるか?ちょっと待て。仮にいくら努力したとしても、その結果がトランプや安倍晋三であれば、それは評価に値しない。
さらに、ラストで十数年意識不明の状態にあった母親が意識を回復する場面で怒りを覚えた。これは「映画の噓」などではない。只の噓だ。何の御利益のつもりか知りたくもないが、「レナードの朝」を百回ほど繰り返し観て出直して来ることを勧めたい。

嘗て「映画くらい弱者の味方であってもいいじゃないか」と鈴木則文は述べた。若松孝二は「モノを作る人間は、権力の側から作っちゃいけないんだ」と常に主張していた。映画のみに限らない。創作活動からこの前提が崩壊したのは何時からなのだろうか。「シン・ゴジラ」は「たたかう権力者」の姿を英雄的に描き続け、TVアニメ「GATE自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」では、原始的な武装しか持たない異世界人を、自衛隊が「ワルキューレの騎行」をバックにひたすら虐殺する姿を、格好いいものとして提示している(コッポラに謝れ)。或る意味評判の「永遠のゼロ」は未見なのでさしあたりここでは触れない。
現在、一部の作品で権力者側の視点が積極的に導入されるのはどういうわけだろう。「弱者の視点ばかり取り上げるのは偏っている」という両論併記的な発想なのだろうか。だとしたらそれは只の間抜けである。この手の作品に社会的弱者・下層民・落伍した者の姿に向き合う様はまずもって見られない。よく誤解されるが、こうしたパワーエリート礼讃こそ、ニーチェは「弱者の思考」として軽蔑した筈である(三島憲一「ニーチェ」参照)。今回の映画でも、地域の有力者への批判は、無理解な中傷として片付けられる。

勿論、創作活動においては社会的身分を問わず、登場人物の仮面を徹底的に解体させ、生身の人間として描くことが重要である。むき出しの生の姿であり、そこで初めて人間性の真実に近づき得る筈である。この映画は生身の人間を描く振りをして、社会的強者を擁護することに話を結び付けていった。そこにいかがわしさがある。
花田清輝は「たしかに人間喜劇(コメディ・ユメイヌ)の時代は終わった」と記しながら、同時に「それは性急な結論であるかにみえる」、と記した。ここで疑問符を呈してみせたのは、花田の慧眼である。おそらく今日のわたし達に必要なのは、「人間喜劇」である。薄っぺらな茶番などではない。

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アルチンボルドの挑発
上野のアルチンボルド展に訪れた。それにしても時代が変わったものである。その昔、美学の卒論にマニエリスム絵画を取り上げようとしたところ、指導教授から却下されたという話がある。16世紀ルネッサンスの一角を担いながらも、正統な美術史からはこれらの絵画は完全に異端児であり蔑みの対象でさえあった。
マニエリスムの復権については澁澤龍彦や種村季弘のような先達の業績に任せよう。わたしも過去に散々読んだ口だが、あらかた忘れてしまった。わたしがここで問題にしたいのは、今日のわたし達にとっての意義である。
よく知られているように、アルチンボルドの絵画は、果物や花、生物を組み合わせて肖像画を作るというものである。ふざけた遊び心、遊戯性であることは間違いない。だが、もう少し踏み込んでみよう。ここに提示されているのは、実は意味の両義性である。文学で言えば、和歌における掛詞などがこれに当たるだろう。
わたし達の通常観念において、顔はあくまでも顔であり、肉体はあくまでも肉体に過ぎない。だが、アルチンボルドの肖像画においては堅固な肉体が、一纏めにされた果物や魚類に変貌を遂げていく。逆にいえば、果物や魚類がまとまりを持った人間の貌として立ち現れる。揺るぎないはずの視覚映像が、崩壊していく場にわたし達は立ち会わされるのだ。サルトルの主人公にとって、マロニエの根が得体の知れない「もの」として映じていくように。
この絵画において意味(貌、野菜、魚類等々)は両義的であり、常に宙吊りの状態にある。それは絶対的に不確定であり、着地点を持たない。シュルレアリスムを例にとれば、マグリットのパイプの絵は「これはパイプではない」という否定辞により、意味を常に揺さぶり続ける。
「意味」とはある種の約束事であるが、アルチンボルドの一連の絵画は今日なお、これに問いかけを行い続ける。遊戯性のうちに秘められた挑発性は、なかなか刺激的であった。

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黒い九月
小池百合子都知事は関東大震災時の朝鮮人虐殺に関し、追悼文の送付を拒否している。
表向きの理由は「人数が明確でない」からだという。だがこの理屈はおかしい。詳細な調査は必要だろうが、数多の(六千人といわれる)人間が殺されている事実がある以上、追悼を拒否する理由など存在しない。
よって、この人物の狙いは別のところにある。すなわち、「虐殺など無かった。追悼など必要ない」ということだ。まず追悼文を拒否すれば、自称愛国者界隈が盛り上がる。「虐殺など存在しない、反日パヨクのデマだ。実際は朝鮮人が各地で暴動を起こし、井戸に毒を入れて回っていたのだ」云々といった、90年遅れのたわ言だ。こうした声が次第に大きくなり、やがて無視できない勢力となっていく。メディアでも一定の発言力を確保し、ついには公人レベルで「幻だった」と事実上公言できるまでに至らしめる。そういった筋書きが透けて見える。
ここで小池が責任を問われることは無いだろう。建前上は「人数の検証云々」という形式を取っているために、「虐殺を否定した覚えは無い」という言い逃れが可能なのだ(この種の言葉の詐術は小池や安倍のような輩の専売特許ではなく、左派の活動家にもまま見られることである)。
小池は記者会見において、「震災で亡くなられた方に哀悼の意を表する」として、虐殺事件を一般的な被災の中に埋没させてのけた。事件の記憶を徹底的に封殺しようとする意思が為政者の中にあり、それを有権者が支持し続けている。「ファースト」の幻影はどこまで人々を狂わせ続けるのか。

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「ゴースト・イン・ザ・シェル」について
映画のレビューがまるで追いつかなくなっているのだが、この作品についてはひとこと言っておきたい。結論を言うと、巷間叩かれているような悪い映画ではないということだ。

主人公の草薙素子を白人に置き換えた「ホワイト・ウォッシュ」については散々非難がなされている。実際にはストーリー上の整合性がつけられてはいるが、その分たちが悪いともいえるし、どうしても批判はまぬかれないだろう。
ただ、「アニメ版の深遠な哲学を理解せず」云々という説にはあまり同意できない。サイバーパンクが流行ったのはおよそ30年前。人間がコンピューターと神経系統を通じて肉体的に接続し(早い話、脳に電極を埋め込み、ケーブルで接続する)、ヒトとAIの区別が喪失していく世界である。W.ギブスンの「ニューロマンサー」は二つのAIが統合して神になる話だったし、その後の続編ではそれが暴走していく様が描かれていた、と思う(昔読んだきりなので些かうろ覚えだ)。
さて、アニメ版「ゴースト~」では主人公は自分が何者かを問い続ける。果たして自分が人間なのか、AIなのか。考えれば考えるほど、自分が人間であるという根拠が失われていく。
ハリウッド版では解答が示されている。「そんなことをウダウダ考えたって仕方が無い。今、自分がどうありたいのかが重要なのだ」と。人間の本質を実体主義的に探究しようとしても、究極的な模範解答など出るべくも無い。結局、ある社会における関係性や、約束事の上に全ては成り立っている。そう考えていけば、自分がAIだろうとヒトであろうとどうだっていいという地平に行き着くことになる。
アニメ版では別のAIと融合を果たすことで主人公は新たな一歩を踏み出すが、ハリウッド版ではそれは無い。既に解は提示されているので、主人公は自ら歩みを進めることが可能なのだ。
実は、「今の自分を受け入れた上で前に進む」という点で、アニメ版とハリウッド版は同じ結論に達しているとも見て取れる。アニメ版ほど「ヒトかAIか」のテーマを前面に出さなかったのは、「今さら?」という思いもあったのだろう。ギブスンの活動以降、散々議論は尽くされているのだ。何せ30年だ。既に解決済みと断ぜられてもおかしくない。

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プロフィール

のわーる

Author:のわーる
首都圏に生息する一介の映画バカ。といってもまだ映画歴は浅いため、大家の作品をあまり見ていなかったりする。
たまに衝動的におかしな絵を描いたりもする。
尚、この「のわーる」という名前は同名の素晴らしいアニメ作品とは直接関係は無く、サド侯爵の登場人物の名に由来するものである。



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